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00.殺される過去を殺しても(レスニカ視点)
◆
その重厚な扉を開けると、辺りは暗闇に包まれていた。
警戒していたモンスターの気配はない。
足を踏み出すと草木の揺れる音がして、強い風が髪を乱す。
夜の森か。
首を巡らせると生温い風と共に、何かが焦げた匂いが漂ってくる。
心臓が嫌な音を出す。
勝手に息が上がり、気が付けば走り出していた。
すべてに見覚えがあった。
あの日と同じ夜空で、あの日と同じ風の強さで、鼻につくあの匂いも、嫌な予感も。
あの日と同じ、林を抜けてやがて炎が見える景色を、繰り返し見ることになった。
違うのは、到着が少し早かったことだ。
村の入り口にある家畜小屋がごうごうと燃えている。家畜は既に殺されているのか、悲鳴一つ聞こえてこない。
「――〝アメ〟」
反射的に水属性の魔法を唱えて、たちまち大雨が降り出す中を走り抜ける。
遠くで微かに誰かの話し声が聞こえる。
あの日はそんなもの、聞こえていなかった。
だからこれは、現実じゃない。
現実じゃないはずなのに、分かる。
ここは、間違いなく故郷だ。廃村となった今のものじゃなく、〝全〟の襲撃を受けた直後の。
だって、目に映る光景はあの日とまったく同じだ。
――過去に、戻っているのか。
これが、試練か。
焦るな、集中しろ。
村を壊滅状態にしたのはずっと〝全〟だと思っていた。そうではないと聞かされたのは裏切り者が吐露したからだ。
ならば話し声は奴らに違いない。
沸騰したように頭に血が上る。
そのうちに一人、また一人とあちこちで倒れた人々が目に入り、壊された家屋や物が散乱しているのを確認した。彼等の必死の抵抗を見ると、ひきつれたように胸が痛む。
思い出したくないのに、目を閉じれば瞼の裏にその光景が焼き付いている。
この角を曲がると、幼馴染みが家の前で倒れている。
案の定、彼女はそこにいた。うつ伏せで横を向いて、見開いた瞳は既に光を失っていた。最後まで逃げようとしたのか、折り曲げられた両手は地面を掻いて土まみれだった。
彼女の片脚はちぎれていた。背中にも鋭い何かでひっかかれたような血痕があり、当時はモンスターの仕業だと疑いもしなかった。
これは試練だ。
息を吐く。拳に力を入れる。
あの日と同じように、駆け寄って彼女を抱き上げることはもうしない。
踵を返して走り出す。
過去に戻った理由があるなら、同じ行動をしても意味がない。
あの話し声は帝国軍だろう。この村を襲った張本人たちを殺せるのなら、こんなに嬉しいことはない。
過去では、幼馴染みの死を愕然と受け止め、ふらふらと自宅に戻った記憶がある。そこで両親の死を目の当たりにして、更に絶望したのだ。
自分だけ生き残った。
住人たちは皆、殺された。
「――〝心眼〟」
屋根に飛び乗り、音がした方角に向けて対象を確認する。
案の定、軍人たちとモンスターがうろついていて、バンやバイクもあった。
考える間もなく、そこへ向かう。すぐさま魔法を放とうとしたが、不意に聞き覚えのある声がして身を潜めた。
「よくやったなテル。これで奴が帰ったときには絶望して〝全〟を憎むことになる」
「……なんで、そこまで」
「〝全〟は怖いだろ? 誰かが倒さなければならん。あいつには聖属性の攻撃が必須だ」
「……兄ちゃんは、聖属性だった」
「そうだ。だがその辺のモンスターすら倒せない弱さだった。弱い奴は淘汰される」
「つまり、レスニカは強いから選ばれたってことか……?」
今より随分と幼いテルは、耳の毛を逆立てながら帝国軍の男に詰め寄っていた。
身体が震えているのは、極度の緊張だろうか。
一度深く息を吐いてあの日を思い出す。
確かあの日、村の近くに強いモンスターがいると言われて、討伐に向かった。既に村一番の保持者だったのと、テルも火属性の器でそれなりの強さだったから二人で討伐することにしたのだ。
無事モンスターを倒して、素材を手に入れるために解体しているとき、テルは先に帰ると言って別れた。
一人作業が当然で、疑問にも思わなかった。
あれは、帝国軍と接触するためだったのか。
後に彼等を手引きして村を壊滅させたとテルは言っていたが、正にこれが実際にあった過去の現場なのか。
すると、軍人は逡巡したようにテルから目線を外し、肩を竦めた。
「そういうことだな。恨むなら奴を恨めよ。お前の兄が殺されたのも村が襲撃されたのも、奴の方が単に強かったからだ」
「……レスニカのせいで、みんな死んだ……?」
青白い表情で、テルが言う。
まるでこんな惨状になるとは思ってもいなかったように。
馬鹿馬鹿しい。
腸が煮えくりかえる感覚がして、気が付くと呟いていた。
「――〝粛〟」
瞬く間に空が割れ、光の矢が出現し彼等に降り注いだ。
矢は軍人とモンスター、更にはバンやバイクにもしっかりと突き刺さった。抵抗はしたようだが、圧倒的なレベル差だ。防御を突き抜けてあっけなく、彼等は絶命した。
テルは標的にしていない。だから彼は生きていた。
見下ろすと目を見開いたテルが、自分を見ていた。
その目と目が合った瞬間、景色は一変した。
気が付くと白い広間の扉の前にいた。
――試練の間だ。
〝真贋〟が手に入った感覚は無い。
戻されている。
つまり、試練は失敗だ。
苛立ちながら、間を開けずにその扉に飛び込んだ。
二回目も同じ場所から始まった。やはり、先ほどの試練は選択を間違えたのだろう。
帝国軍を殺したのが悪かったのか。
全速力で村に辿り着くと、モンスターが村人を襲っている最中だった。
すぐにそのモンスターに魔法を放って殺した。返り血を浴びて舌打ちすると、また元の白い空間に戻っていた。
……失敗だ。
恐らく、この試練は次で最後だ。
なんとなくそう思って顔を上げる。ミキがいた。
探るような瞳でこちらを見ていたが、彼は何も言わなかった。
また、扉を開けた。
二回とも失敗した原因を考えて、恐らく殺してはいけない、生かせてはいけないものがあるのだろうと思い至る。
そもそもこれは、過ぎ去った日の記憶だ。
どんなに足掻いても、死んだ者は生き返らないし、現実ではないから復讐しても意味がない。
じゃあなぜ、僕をここに置いたんだ。
考えながら歩く。林を抜けて、ごうごうと燃えさかる家畜小屋を通過する。
血だらけの人々をただ見送って、今一番、殺したい奴らがいる方へ向かう。
「……レスニカのせいで、みんな死んだ……?」
テルの声がした。
聞き覚えのある台詞。
「いいか、今後もお前は俺たちに奴の情報を流せ。信用させ、〝全〟を倒すことを奴に諭すんだ。そのために奴には更に強くなってもらう必要がある」
「〝全〟を倒してレスニカを英雄にさせるんですか」
憎々しげに呟くテルの言葉に、軍人が笑った気配がした。
「まさか――お前も不憫だからな、教えてやるよ。〝全〟を殺した奴が次の〝全〟になる。つまり、あいつはいずれ醜いモンスターになるわけだ。お前にとっても、良い復讐になるだろう?」
「レスニカが、〝全〟に……」
テルは呆然とした表情で繰り返した。
当時、〝全〟の襲撃で村を壊滅させられ、逃げてきたというテルに皆が同情した。両親は快く彼を家に招き入れ、面倒を見た。
種族こそ違うが年も同じだ。家族と故郷を失ったテルを不憫に思った。寝食を共にし、ゆっくりでいいから友になれたら彼の慰めにもなるかもと、心を砕いた。
まさか彼が最初から帝国軍側についていたなんて、考えもしていない。
だが、先ほどの会話からテルは事の詳細を聞かされていないようだった。
たった12歳。
すべてを失うには早すぎて、責任を負うには幼すぎる。
今更当時のテルを見ても、怒りは湧かない。
この日、すべてを失った僕とテルは、村を出て旅をする。
強くなるために多くのモンスターを討伐し、帝国中を渡り歩く。ロランたちに出逢い、ナギたちに出逢い、仲間も増やして。
聖属性殺しを帝国がしていると知ったときは二人とも憤り、帝国を倒そうと固く誓いあった。
それなのに情報が筒抜けだとロランたちに言われ、仲間を疑わなくてはならなくなった時、テルはさっさと姿を消した。
まるでこれまでの苦楽も友情もすべてまやかしだとばかりに、なんの情もなく。
裏切られていた。
ただ、それだけの事実が今の今まではっきりしていただけ。
『お前が選ばれたせいで、俺の家族が死んだ。お前さえいなければ、兄貴もみんなも死ななかった。お前のせいで──』
再会したとき、テルはそう言って僕を責めた。
裏切り者の言葉など既にどうでもよくて、躊躇もせず戦闘になり彼を倒した。
もしかしたら死んだのかもしれないし、もしかしたら生きているのかもしれない。
確かめる間もなく、僕は先を急いだのだ。
裏切り者の最期など見る価値もないと思ったし、それが正しいと自身に言い聞かせていたから。
軍人達はテルを置いて去った。
姿を現すかどうか迷っていると、しばらく佇んでいたテルが突如走り出した。
気付かれぬように屋根を伝い、後を追う。
「……クソッ、クソッ……なんで、こんな……っ」
悲痛な声をあげているのはテルだ。
あちこちで転がる住人の無残な亡骸を見るたび、彼は目を伏せて泣いていた。
『――俺が、あの日お前が遠出するからと帝国軍を引き入れた。みんな、訳も分からず殺されてたよ。だから、言ってやったよ。レスニカを恨めって。レスニカが、お前達を殺したんだってな』
あの時テルはそんな事を言っていたが、実際は彼が軍人にそう言われていた。恨むなら、レスニカを――と。
ただ、今のテルは泣いている。
泣いていて、必死に走っていた。
その先で、過去の僕がそのうちに到着するだろう。狼狽し泣きじゃくるテルを抱き留め、村の惨状を知るはずだ。
後に僕とテルは同じ痛みを分かち合う親友として、〝全〟を殺すことを誓い合う。
そして――。
小さな背中が見えなくなると、白い扉が突如地面から現れた。
どうやら、試練は終わったようだ。
地に降りて、扉を押し開けた。
なぜこんな試練を?
すべては僕が強かったせいで、すべては僕が〝全〟になるための歯車に過ぎなかったと、そう言いたいのか?
分からない。
ただひたすら、喉奥に何かが詰まったような不快感がやまない。
◆
次の試練は過去に戦ったモンスター討伐だった。
一度目の攻撃で扉の前に戻され、試練の失敗を悟った後は慎重に行動した。
三度目の正直で攻撃魔法ではなく補助魔法を使用して無事試練を終えた。
疲労困憊で倒れ込むように寝袋に入ったが、神経が高ぶりすぎているのか中々寝付けない。
諦めて座り込んでいると、そんな僕を見かねて、ミキが温泉へと案内してくれた。
温かい湯に浸かると身も心も綺麗になった気がして、その日は久々に深く眠れた。
最後の試練だ。
夜だった。
アスファルトの感触と街灯が見える。
どうやら住宅街のようで、目の前には古びたアパートが建っている。どこか既視感を覚え、ミキと出逢ったアパートにそっくりだと思い至った。
なぜこんなところにいるのだろう。周辺を確認しても、モンスターの気配はない。
一体どんな試練なのか、と警戒すると、どこからかドアが開いた音がした。しばらくして、目の前のアパートの階段から中年の男が気怠げに降りてくる。
〝心眼〟で確認したが、予想通り無垢 だった。脅威とは思えない。男は佇む僕を訝しげに一瞥したが、何も言わずに去って行った。
そもそも、ここはなにかが違う。
アテラに似ている雰囲気だけど、見慣れない作りの家が並んでいる。
肺に入る空気も違うし、肌に感じる温度も違った。違和感というか、僕の知らない場所であることは間違いなさそうだ。
最初の試練は過去に戻った。だからこの試練も、もしかしたらそういう類いのものかもしれない。
考えていると、不意に、か細い声が聞こえた。子供だろうか。長く咳き込んでいる。
誘われるようにアパートの階段を上る。ブーツの音がやけに響き、ぐらぐらと建物全体が揺れているようだった。
上ってすぐに、閉まりきっていない部屋のドアが見える。状況からして、先ほど男が出て行った部屋だろう。そこから、子供の咳き込む声が漏れていた。
親らしき気配がないと分かるとすぐにドアノブを引いた。どうせここは試練の中。なにをしようと失敗すればそこで終わりだ。
開いたドアの先に、少年が座り込んでいる。
息を呑む。
暗闇の向こう、モニターから爛々と漏れる光だけを背に、浮かび上がったのは白い裸体。
逆光から垣間見える瞳には長い睫が揺れ、小さい口はどこか呆けたように薄くひらいていた。首筋には鬱血した痕が散らばり、上半身や手足には青や紫の痣があちこちについている。
画面から下品な笑い声が絶えず聞こえているのに、突如静寂に包まれたような感覚に陥った。
少年はただ、僕を見上げていた。
華奢な、痛々しい身体だった。血痕や得体の知れない液体が張り付いて、口元を汚すのがなんなのか理解した瞬間、不覚にも膝が震えた。
――弓原未来 、男……無垢。
〝心眼〟を使わなくとも、それが誰なのかは分かっていた。確認して、見慣れない文字の意味も不思議と頭に入った。
――ミキ。
名前も違って幼いが、顔つきは間違いなく彼だ。
黒く丸い瞳が僕を見上げ、そして力なく逸らされる。
生気の無い、諦めたような表情。身体に残る暴行の痕。
点と点が繋がって、次には勝手に身体が動いた。
先ほど擦れ違った、一人の男。
振り返り、階段を下るのももどかしくて二階から飛び降りる。〝心眼〟で男の行く先を目視して、その場へ向かった。
男は夜道を悠長に歩いていた。だらしなく穿いたズボンのポケットに手を突っ込み、足取りは軽やかで、どこか上機嫌にも見えた。
その肩を強く掴んで引き止める。
「――なんだよ、あんた?」
無言でいると、怪訝そうな顔で男が僕を見た。
まるで罪の意識などない態度だ。
気が付くと彼を殴っていた。
渾身の力で殴ったせいで、男は随分と遠くに転がった。衝撃で意識を失ったのか、固い地面に頭を打ち付ける音がする。
死ねばいい。
腹の底からそう思って、次には場面が切り替わっていた。
――試練の間だ。
戻された。
分かっている。試練は失敗した。
興奮が収まらず、肩で息をしながら背後を見る。
ミキの姿はない。
呼吸を整え、広間を出る。
外は夜だった。無数の星が空に散らばっているのが見える。
見慣れた車を見つけて確認すると、ミキは運転席を倒して眠り込んでいた。
先ほど会った幼いミキとは違い、その頬は削れて丸みが取れている。体格もやや華奢ではあるが、一回りは大きくなったようだ。
生気のない表情をしていたミキは、こうしてちゃんと成長している。
――おまえの言うとおり、俺はずっと男娼だった。身体を売ることに抵抗はないし、慣れてる。
そんなことを言っていたミキの言葉が蘇る。
汚れた部屋、据えた匂い、誰もいない夜。
大きな男がミキを弄び、去って行く。
あの目と態度を見るだけで、既にミキがあの行為に慣れているのを物語っていた。
だから僕を見ても驚きもせず、ただ受け入れ、助けを求めることもしなかったのだ。
「……クソッ」
広間に戻り、扉を開く。
あの男を殺したら試練は失敗する。じゃあ、どうすればいい。
実際、考えることを放棄した。
扉を開けた瞬間、僕の足はすぐにアパートの階段を上り、部屋のドアを開け、子供にのし掛かるケダモノを蹴り上げていたからだ。
呻き声すら出せず昏倒する男と、突然部屋に侵入した僕を見てミキが混乱した表情をするのは当然だろう。
彼は慌てた様子で起き上がると、怯えたように僕と距離を取った。
「お、お母さんはずっと帰ってない、です。だから、お金はありません。この人は俺の面倒を見てくれてる人で……、だから、悪くない」
「――は?」
また、場面が変わった。
真っ白な広間に戻され、茫然と佇んだ。
――俺は、感謝してる。面倒を見てくれたこと。
あの獣人の暴力から救った日、彼はそう言っていた。その性格の甘さにひどい嫌悪感を抱いたのを覚えている。
でもこれはそうじゃない。そういうことじゃなかった。
――どうしてそんなに馬鹿で短絡的なんですか? 恥ずかしくないんですか。殴られ蹴られ、無価値だと決めつけられても獣に縋って生きてきただけあって、もうそんなプライドはなくしたとでも?
なんてひどいことを言ってしまったのだろう。
――俺は思わないね。だって、クソだって知ってるから。おまえが〝全〟を殺してまた新たな〝全〟になるのも、クソだって知ってるから、やめちまえって思う。そんなものやったって、無価値だってな。
本当だ。
彼の言うとおり、僕たちは総じてクソだ。
どうしてこんな思いをして生きなければならなかったのだろう。
彼は子供だった。
どうすることもできなかった。
置かれた状況を嘆くことも許されなかった。
彼だけじゃない。
僕も、テルも、みんな子供で、
助けが必要だった。
天涯孤独になった僕だが、両親からは愛情を受けて育った。思い出は常に暖かく、幸せな気分を連れてきてくれた。
僕にはテルもいた。彼にどんな理由があったにせよ、それが支えになりその先の苦難にも立ち向かうことができたのは事実だ。
だが、ミキはどうだったのだろう。
あの環境では、まともな親がいるとは思えない。むしろあの男と血が繋がっていてもおかしくはない。
何も期待していない目だった。繰り返された悪夢のように、あれを当然のものとして受け入れていた。
そんな地獄の日々をせめて普通に変換するために、彼自身が変わっていく必要があっただろう。
それは価値観や思考そのものを変えて、傷を修復していく途方もない作業だったはずだ。
きっとその作業は今でも続いていて、世界が変わってもただそうして生きてきて――僕に出逢った。
「本当に、クソだ……」
目を閉じて、深呼吸をする。
その重い扉をゆっくりと押し開いた。
擦れ違う男を殺すことはやめて、その背を見送った。感情を押し殺し、アパートの階段を上る。
やがてミキの小さな咳が聞こえて、ここで初めて彼が体調を崩している可能性に思い至る。
部屋に入ると、ミキはじっと僕を見つめていた。
電気をつけ、ゴミだらけの床に気付いて、仕方なく袋にまとめる。汚れたシーツや衣服を洗濯機に放り込んで、シンクにたまった食器を洗う。
それから、汚れた状態のミキが気になって、そっと腕を掴んで立たせた。
彼は無抵抗で、されるがままだった。
シャワー室は狭いうえにカビだらけで汚かったが、それでもちゃんとしたお湯が流れたので安心した。
スポンジを彼に渡し身体を洗わせながら、僕は彼の髪を洗う。
彼は少し、不思議そうな目で僕を見た。けれどすぐに手を動かして成り行きを受け入れていた。
警戒されることはなかった。
慣れているからだ。
自然と眉根に力が入るが、今は無視をする。
シャワーから出て、髪を拭いてやる。清潔なタオルと服があってよかった。
恐らく、ミキ自身が洗濯をしているのだろう。男はここに住んでもいない。
体調のせいか思うように身体が動かせないミキを手伝って、シャツもズボンも穿かせた。
「親はどこに?」
質問の答えは期待していなかった。
「……お母さんは帰ってこない。俺が悪い子だから」
だから、返ってきた言葉に思わず動きを止めた。
母親に、そう言われたのだろうか。それともそう思い込むことで納得しているのだろうか。
どちらにしても、彼の悲しみは深く、孤独感は相当なものだ。
ここから彼を連れ出せたら、どんなにいいだろう。
一瞬想像して、なぜだか泣きたくなった。
こんな思いをしている子供が沢山いることは知っている。それはミキの世界でも僕の世界でも同じだ。
――おまえが〝全〟を殺してまた新たな〝全〟になるのも、クソだって知ってるから、やめちまえって思う。そんなものやったって、無価値だってな。
あのとき彼にそう言われて、僕はなんて無責任で自分勝手で子供みたいな奴なんだと腹が立った。選択肢などない人生が存在するとは、思いもつかないのだろう、と。
でも違う。今更彼の言いたい事に気付いた。
あれはミキの優しさだった。
家も家族も友人もすべて亡くした。いっそ死にたいと思う日々を生き抜いてきたのは、〝全〟への憎しみと使命感からだ。
殺された彼等の思いに応えようとした。生き残ってしまった罪悪感を拭いたかった。
強さの理由を知りたかった。あの日村に残っていなかったことを許されたかった――。
そんな僕に唯一、無価値だと、何も意味はないと言ったのはミキだけだ。
しがらみも責任も、そんなものは端から存在しないのだと。
好きに生きていいのだと。
意味なんてないんだから。
「――母親が帰ってこないのは、きみのせいじゃない」
そうだ。
悪いのは彼ではなく、僕でもない。
「きみは何も悪くない」
あの日、殺された両親や友人たちと同じように、僕も殺されたのだ。
跡形もなくなって、息絶えた。
それなのに振り返ってばかりで、何度も悔やんで夢に見た。
でも、死んだのだ。
だからもう二度と、救えない。
きみは大丈夫だと伝えることはできない。
救えない。
救えなかったのに――僕たちは、生き続ける。
ポカンと口を開けているミキの手を引き、布団に寝かせると彼は素直に従った。思わず口元が緩む。
何も言わずに立ち上がり、振り返らずにアパートのドアを開けた。
その瞬間、怒濤のように脳内に情報が流れこんできた。
帝国の成り立ち、聖属性の苦難、神力の石に種族間の歴史――。
気が付くと白い広間に戻っていた。
身体中が熱くて、力が漲るような感覚が湧いている。
〝真贋〟を習得したのだ。
『やめちまえって思う』
あの声をまだ、覚えている。
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