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第3話

 紺色のシャツ、チャコールグレーのスラックス、いつもの仕事着に着替えると、朝食も取らず家を出た。  樹の職場は青山のオフィス街にある小さなコーヒー専門店だ。コーヒー豆の種類から選ぶことができる本格的なコーヒー専門店で、全国主要都市に20店舗展開している。東京は渋谷、銀座、青山の3店舗で、樹は青山店の店長に昇格し、もうすぐ1年になる。裕が亡くなる4か月前、店長の研修を終え、青山店配属が決まった。  職場までは徒歩で15分。樹はいくらか涼しくなった並木道を歩きながら朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。 「おはよう」 「おはようございます店長」  店内に入ってきた樹に、早番の大学生アルバイト佐々木(ささき)(かえで)が笑顔で挨拶する。 「いらっしゃいませ」とテイクアウトカウンターに並んでいる客に声をかけカウンター内のオフィスのドアを開けた。  すでに立ち上げられているノートパソコンの前に座りメールをチェックする。社長の鳴海(なるみ)からの支持を確認し、在庫をチェックしていく。足りないものに発注をかけ終えたとき、佐々木がドアを開けて声をかけてきた。 「店長すみません。カウンターのお客様、お願いします。 久しぶりのイケメンリーマン登場です」と、最後のフレーズは小声で言った。  樹は佐々木に笑顔で頷くと席を立った。  店内のカウンターに佐々木が「イケメンリーマン」と名付けた男性は座っていた。 「多嶋(たじま)さん、お久しぶりですね。ここのところお見かけしなかったからどうしたのかなと思ってました」  多嶋はこの店の常連だ。目と鼻の先にあるビルで勤務しているエリートリーマンであることは知っていた。鳴海社長の友人だということで、以前名刺交換をしたのだ。 「少しごたごたしていてね。気にかけてくれていたとは、嬉しいな。ありがとう。いつものお願いするよ」と、樹を見て頬を緩めオーダーした。その表情に疲労が垣間見える。目の下に隈があり、頬はこけ、痩せたことは見てとれる。  多嶋を気にしながら、エスプレッソマシンに彼好みのブラジル産の高級豆を入れセットした。  多嶋は出勤前のこの時間と昼食後にエスプレッソを飲みに来る。毎日来てくれていたのにパタッと顔を見なくなって半年くらいじゃないだろうか。  デミタスカップにトリュフチョコを添えて多嶋の前に差しだした。  新聞を読んでいた多嶋は顔を上げ「ありがとう」と言った。  トリュフチョコを見て首をかしげる。 「多嶋さんは常連さんなのでサービスです。朝は糖分取った方がいいですよ」  チョコレートを指した樹に多嶋は驚いた表情をした。 「仲森君は驚くほど気が利くんだね。鳴海が店長に抜擢するはずだ」 「多嶋さんに褒められるとこそばゆいです。僕はまだまだ修行中ですよ。社長のコーヒーへの情熱には足元にも及びません」 「あいつは昔から凝り性だったからなぁ。好きなことは徹底的にやる。ああ見えて、忍耐もあるしな」  いつも無口な多嶋だが、今日は珍しく会話が続いた。

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