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第27話

 秋も深まり、景色の色が変わり始める。  秋は樹の好きな季節だ。枯葉が舞い、湿った秋の匂いが鼻腔をくすぐるその瞬間が好きだ。落ち葉を踏んだ時の乾いた音も、アスファルトを駆け抜ける悪戯な風も。樹の心を躍らせる。  多嶋は樹の部屋に泊り、出社するようになった。多嶋のスーツや靴など、私物が増えることに喜びを感じる。そんな新しい自分に驚愕し、困惑することもあるが、樹は幸せだった、  幸せだと実感したことがあまりないゆるい性格だったから余計に自分で驚いてしまう。多嶋の手によって自分がどんどん変わっていくことを樹は自覚していた。  未だ多嶋が住むマンションには行ったことがないことは気に留めないようにした。そのことを考え出すときりがないのだ。 多嶋が恋人と暮らした愛の巣を見たいようで見たくない。どちらかと言うと知ってしまうのが怖い。その気持ちが優っている。触れてはいけない聖域だと認識していた。  多嶋は自分を大事にしてくれている。そう感じることが増えていた。怖いほど幸せで、同時に自分も多嶋を幸せにしてあげたいと願った。  幸せって何だろう……  この歳になってそんなことを考える。好きな人が自分に優しくて労わってくれていると感じるとき、自分は幸せ者だと思う。しかし、多嶋がまだ亡き恋人を忘れられないなら、自分が傍に居てどれだけ労わり尽くしても幸せだと感じないのではないかと思ってしまうときもある。  こんな風に女々しく思い悩む自分は嫌いだ。けれどそんな時間が無くなるわけではなかった。  確認してみろと。自分の心が樹を挑発する。まだ忘れられないのか?と、訊けばいい。簡単じゃないか―――と。  多嶋はもともと寡黙な方だが樹とふたりの時は、気が向けば饒舌になるときもあった。ここ最近は疲れているのか口数が少ない。毎日遅くまで仕事をしていて、樹の家には来るがそのまま寝てしまうことも多くなった。  2週間前までの激しすぎる情事を思い出し、もしやもう飽きてしまったのだろうかと思い悩んでしまう。  傍に居てくれて優しく接してくれるのに求められる回数が減っただけで幸せが減少するなんて、なんて貪欲なんだと自分を窘める。それでも心の奥底にある隠しておきたい本音は時折ここにいるよと顔をのぞかせる。  多嶋に飽きられることへの恐怖。こんなに早く飽きられてしまうのは多嶋の心に亡き恋人が居座りついているせいだからじゃないかと思ってしまう。  もし、樹が多嶋のマンションに足を踏み入れたら……何かが変わるだろうか?  その場所に一瞬でも足を踏み入れた樹を多嶋はずっと覚えて、樹が多嶋のいない自分の部屋で多嶋の気配を感じるように、多嶋も自分を感じてくれるようになるだろうか?そんな馬鹿な考えが浮かんでは打ち消されていく。5年も一緒に住んでいた恋人に敵うわけはないのに、もしかしたらと期待してしまう。  恋人を抱いていた多嶋のベッドで抱かれたら―――?  思い出を塗り替えさせることが出来るだろうか? 少しずつでも、多嶋の心を自分に向けさせることが出来るだろうか?  そんな愚かな考えが心の奥底から顔を出しては樹を挑発した。  亡き恋人を忘れさせたい。  樹はその邪悪な思いを必死に心の奥底へ押し戻した。  その時、テーブルの上に置いてあるガラケーが振動した。手に取り画面を見ると多嶋だ。今仕事が終わったのだろうかと時計を見た。11時を過ぎている。 「多嶋さん、お疲れ様」 「ありがとう樹、今日は自分の家に帰るよ。明日から1週間出張することになったから荷物をまとめなきゃいけない。悪いな、急で」  いつものように労わりの言葉をかけてくれる優しい多嶋だが、その声は掠れ少し鼻声気味だ。 「もしかして、風邪ひいた?声がいつもと違うよ」 「ああ、そうかもな。ここの所、忙殺されて疲れが出たのかもしれない。心配ないよ。俺はいたって元気だから」と、笑った。  樹は不安ではあったがそれを億尾にも出さなかった。 「うん。じゃあ気を付けてね。無理しないようにね。帰り待ってるから」  帰りを待っていると言ってしまってまたはっとする。大丈夫。重くはないはずだ。待ち焦がれているように聞こえなければいいと樹は願った。  多嶋が1週間もここにこない。そのことを淋しく思う自分に叱咤した。大丈夫、  1週間して帰ってきたらまた自分を求めてくれる。  そう言い聞かせることで樹は必死で弱くみじめになる心を奮い立たせた。

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