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第29話

 暗闇の中手探りで玄関のスイッチを探し明かりをつけた。こもった空気の部屋の湿気を帯びた匂いが鼻につく。  功基は靴を脱ぎ疲労感がぬぐえない重い身体を動かし、中に入った。  この部屋に帰るのは1週間ぶりだ。と言っても、それ以前もここに帰ってくるのは週に1回程度になっていた。  樹の顔を思い浮かべ、胸が苦しくなる。  俺は……何をやってるんだ?  ―――好きすぎて狂ってしまいそう  と言った樹の言葉を思い浮かべ、喜んでいいはずなのに苦しくなる。  樹に真実を話すつもりは毛頭なかった。最初のころは、こっちの世界に引きずり込み、快感を覚えさせたら終わらせると、そう考えていた。今は……正直どうしていいかわからない。  寝室に入りスーツの上着を脱いでかけた。ベッド横のサイドテーブルにある写真が目に入る。二人で撮ったたった一つの写真だった。功基は写真を撮られることが嫌いで極力避けていた。あいつにせがまれて……携帯で撮ったのだ。  裕が自分の肩に寄り添っている。そのはにかんだような笑顔。幸せそうに見える。裕は……俺といて幸せだった。そう信じていた。なのに、樹が現れて全てが変わった。  理解できなかった。  事故だと知らせが来た翌日、悲観に暮れる功基の元に、一通の手紙が届いた。それは、裕の遺書だった。未だ彼の両親には話していない。裕の私物も残したまま、形見の品も見繕うことが出来ないままだ。葬式にも行っていない。そんな精神状態じゃなかった。言い訳にしか聞こえないだろうが、納得できずショック状態で動けなかったのだ。  裕が死んだあと仕事さえ行けず部屋にこもってもんもんと遺書を睨みつけていた。  裕が残した遺書にはとんでもないことが書かれてあった。  功基が勤める会社の目と鼻の先にある悪友で兄弟みたいな鳴海が経営すカフェは豆の種類から選んでコーヒーをオーダーできるという凝った店で、功基はそこで朝、昼にコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。樹が店長になるまで、時々裕が昼にやってきて一緒に飲むこともあった。裕はどちらかと言うと紅茶派でコーヒーはカプチーノくらいしか飲まない。だから裕がそれほどこのカフェが気に入った様子でなくとも、足を運ばなくても気にも留めていなかった。  ただ、普通の会話の序で、「裕は今度のカフェの店長にどことなく似てるよ」と言ったことがあったことを思い出す。裕は表情も崩さずこう言った。 「そりゃそうだよ。僕が真似たんだから。あの店長、仲森樹って言うんだよ。樹みたいになりたくて、必死で真似したんだ。それが今でも抜けない。初恋だったんだよ。必死の想いで告白したのにけんもほろろに気持ち悪いこと言うなって言われた。告白なんてするんじゃなかった。告白しなかったらきっと今でも親友のままだった。僕だって敵わない恋にずっと縋りつかず別の相手に恋したはずだ。今みたいに」  思いがけない告白に、背筋に冷たい汗が流れたのを思い出す。  あの新しく配属になった店長は、裕がひどく傷つけられた初恋の相手だった―――。  はっきりと憎しみを感じた。嫉妬というような生易しいものではない憎しみと言う邪悪な類の感情だ。 「お前には俺がいるだろ?昔のことなんか忘れろ」  どくどくと血流に混じるごとに赤い血が黒くなるような錯覚を覚えるほどの醜い感情を隠すように、冷たくそう言ったことを思い出す。  もう少し違った対応をしていれば、もっとよく話を聞いてやれば裕を救ってやれたのだろうか?  堂々巡りの疑問をまた繰り返してしまう。この部屋にひとりでいるとどうしても考えてしまう。  自分は裕を救うことができたのではないか? ――と。

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