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第35話
「いらっしゃいませ」
いつものように店内の客に挨拶し事務所に入る。
「おはようございます店長」
年が変わり佐々木の代わりのバイトが配属になった。
成人式を終えたばかりの女子大生だ。
「おはよう」
樹は無表情のまま事務所に入る。いつもと変わらず立ち上げられているパソコンの前に座り、メールをチェックしていると、鳴海社長の声が聞こえて来た。
「店長いるか?」
その言葉に反応し、椅子から立ち上がると店に出る。
「おはようございます。早いですね」
「ああ、これ入れてみてくれ」
袋を渡され、中身を見ると香ばしいコーヒーの香りが立ち込めた。
「ペルー産ですか?」
鳴海は満面の笑みを樹に向けて頷く。
「匂いでわかるなんて流石だな」
「ただの勘ですよ」
樹は口角を上げて苦笑いした。
コーヒーをセットしてまた鳴海の前に立つ。観察するような、まるで痛ましいものを見るような鳴海の視線に居心地の悪さを感じるが、何も言わなかった。
樹を気遣って頻繁に店に顔を出してくれているのを知っているからだ。失恋して半年以上たつと言うのに未だ傷はいえない。
多嶋は目と鼻の先の大手勤務だったはずが仕事も辞め、マンションも引き払い、行方をくらませている状態だった。
鳴海から「あいつには時間が必要なんだ。どれくらいかかるかわからないがそっとしておいてやってくれ」と言われた。
その言葉の意味を樹は噛みしめた。
胸に刃物が突き刺さったかのようにじくじくと痛む。突き刺さったままだから血さえ流れ出ない。血が流れないまま滞り固まっていくようだ。
コーヒーをデミタスカップに注ぐとそれを鳴海の前に置く。
鳴海は目をつぶり匂いを嗅いだ後口に含んだ。
「酸味と苦みのバランスが素晴らしいな」
「ペルー産は最近人気が出てきてますよ。オーガニック人気ですから」
「そうか、様子を見て幅を広げてみるのもいいな」
二人とも決して多嶋のことには触れない。
お互いの顔色を伺いながら労わり合っている状態だ。些細なことでその繊細な感情に亀裂が入りそうで怖い。
鳴海にとって多嶋は親友で、そして樹にとっては恋人……いや、元恋人になるのか、元セフレなのかよくわからないが、はっきり言えることは今でも恋焦がれている相手だということだけだ。
お互い違うポジションであるが多嶋のことを心配していることには違いなかった。
「彼女どうだ? 新人の女子大生。いいねぇ女子大生って響き」
「どこがですか」
少し呆れた口調になった後思わず笑みが漏れた。
「よくやってくれてますよ。真面目だし、物覚えもいいし愛想もいいので助かってます」
「そうか」
そう言ったあと鳴海は立ち上がった。
「それ、休憩の時間にでも皆で味見してくれ。感想また聞かせてくれよ」
「はい、ありがとうございます」
なんてことのない会話だけれど樹には嬉しかった。鳴海が気にかけてくれている。ただそれだけで、多嶋と繋がっているように感じられたのだ。
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