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第36話
なるべく残業せずに七倉を頼りにして定時に上がることにしている樹は今日も19時には店を出た。
徒歩通勤の見慣れた都会の風景の中に無意識のうちに視線を泳がせてしまう。
もしかしたら目の前に洗練されたスーツを着てピンと背筋を伸ばしさっそうと歩く多嶋がいるのではないかと探してしまうのだ。
初めて多嶋と食事をしたあの日を重ねて、また奇跡的な偶然を待ちわびている。
マンションが見えてくると今度はこのエレベーターに二人きりで初めて乗ったことを思い出す。
今でもあの時の彼の体温や匂いを思い浮かべることが出来る。
目をつぶると鮮明によみがえった。
チン
機械音と共にエレベーターが停まった。足は勝手に自分の部屋へ向かいカギを開ける。
ついつい多嶋の靴を探してしまう。
そこに彼の靴が見当たらない現実を目のあたりにすると、息もできないほど胸が苦しくなった。
喉がひりひりして鼻がつんとする。瞳に涙があふれ出し視界を歪めた。
「功基……」
名を口に出せば更に切なくなる。辛くて恋しくて、泣きわめきたい衝動にかられた。
靴を脱ぎ、ソファに倒れ込むようにして座った。
本当は一刻も早く探し出したかった。鳴海は多嶋がどこにいるのか知っているはずだ。「そっとしておいてやってくれ」と言われたのを聞かずに、しつこく問い質せば教えてくれたかもしれなかった。
そうしたい気持ちだった。そうしなかったのは、樹の中に多嶋を信じる気持ちがあり、彼自身に選んでほしかったからだ。
だから今までの生活に縋り付いている。
職場を変えることも引っ越しをすることも考えられない。多嶋との繋がりを切ることなんてできない。どれだけ時間がかかろうとも絶対に自分から微かな繋がりを絶つことはできなかった。
それは裕のことに関しても同じだった。
裕とのことを考えると今は自然に多嶋と繋げてしまう。
裕の一周忌、あと数日でその日は訪れる。
多嶋との切っても切れない接点。苦しみの根源。そしてそれこそが多嶋と樹を引き合わせたのだ。
もし、チャンスがあるなら、多嶋に会える。
樹はそう信じていた。いや、信じるしかなかった。だから、裕の一周忌まで辛抱強く待っているのだ。
同時に樹は裕に訴えたかった。
多嶋を手放してくれ――。
多嶋をもう自由にしてくれ――。と。
涙が滝のように頬を流れ首筋を濡らしている。胸が上下し唇をわななかせ樹は泣いていた。
功基を俺の元に戻してくれ……裕。
もう、許してくれ……。
嗚咽は激しくなるばかりで樹は涙も拭わず、天井を見上げたまま心を震わせて泣いていた。
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