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第1話

 軍用宇宙母艦(ぐんよううちゅうぼかん)《エフフォーリア》にあるシャワールームの曇った鏡には、癖のある漆黒の髪と、曇天を閉じ込めたような瞳が映っていた。  訓練で鍛え抜かれた身体には、無駄な脂肪はほとんどない。  とはいえ、それは努力の成果というより、軍の管理下で最低限の食事しか与えられていないだけの話だ。    停泊中は水も食料もヴェルデに軍が増設した補給設備から送られてくる。  俺は頭から冷水を浴び、胸の奥に渦巻く鬱屈を洗い流すように、昼間ライナスから告げられた言葉を反芻した。 『現地語の習得はどこまで進んでいる?』 『……日常会話くらいなら。なぜ、そんな事を?』 『お前を外交使節団へ同行させたいと、上から話が来ている。正式な命令は、いずれ下りるだろう』 「外交使節団か……」  俺が選ばれる理由など、考えるまでもない。  現地語。戦闘能力。そして――Ωであること。  都合のいい条件が、これほど揃った兵士が他にいるだろうか。  軍が俺を必要とする時は、いつだって決まっている。  俺自身ではなく、俺という“カード”が必要な時だけだ。  水滴が肌を滑り落ちる。胸の奥で、ドロリとした黒い感情が渦を巻いた。  己の忌々しい出自への憤り。駒として弄ばれる境遇への怒り。  そして何より――この美しく豊かな惑星ヴェルデを、"融和"という欺瞞の言葉で侵略しようとする|連合軍《やつら》への、反吐が出るほどの嫌悪。  だが――だからこそ面白くなってきた。  軍の言う通り動く『便利な人形』のフリをして、使節団ごと利用してやる。  俺をただの駒だと思っている連中の喉元に、いつかその刃を突き立てて、俺を生み出したことを後悔させてやる。  俺はシャワーのコックをきつく締めた。  滴る雫が最後の音を立てる頃には、迷いはもうどこにもなかった。  ***  ライナスに促されるまま足を踏み入れたのは、母艦の最深部に位置する会議室兼・小司令室だった。  広いブリッジとは異なり、無駄な装飾を一切削ぎ落とした無機質な空間。室内の中央には細長いスチール製の長テーブルが鎮座している。  上座に重々しく腰を下ろしているのは、第一外征隊を率いる司令官だ。  その両脇(サイド)には、軍のバッジを胸に付けた軍幹部の連中がずらりと並び、冷ややかな視線をこちらへ向けている。  そして下座――もっとも入口に近い末席のパイプ椅子に、俺とライナスは並んで腰を下ろした。 「本題に入ろう」  司令官が低く重い声を響かせると、テーブル中央のホログラム装置が青白い光を放ち、惑星ヴェルデの立体図と、北部に広がる原生林《グラン・ヴェルデ》を赤く囲った地図を映し出した。 「現在、我が軍がユバ国から借り受けている土地や資源については、これまで通りの契約を維持する。だが、それとは別に――ヴェルデ北部に広がるこの大原生林、《グラン・ヴェルデ》全域の開発権を我が軍に譲渡させる。これが今回の要求だ」 「は? あの森を、丸ごと寄越せっていうのか……?」 「グレン!」  俺の呆れを隠そうともしない言葉に、すかさず横からライナスの叱責が飛んできた。  だが、司令官は意にも介さず、淡々と続ける。 「そうだ。だが、森林開発によって新たな雇用が生まれる。採掘した資源も、ユバ国の経済発展に還元する。我々にとっても、彼らにとっても悪い話ではない」 (悪い話ではない、だと……? 森を丸ごと奪われる側にとっては、これ以上ないほど悪い話だ) 「これまでユバ国とは何度も交渉の機会を設けてきたが、我が軍の提案は、すべて突っぱねられていてな」  まともな指導者なら当然の反応だ。  あの豊かな森を切り拓いて軍事要塞を建て、地下の莫大なエネルギー資源を根こそぎ掘り起こそうというのだから。   「そこで、だ……」司令官の細い目が、下座に座る俺をじろりと射貫いた。「我が軍の独自調査により、あの『獣王』の遺伝子特性が判明した。奴は――『α』だ」 (……αだと?)  心の中で舌を打つ。  ただでさえ獣人の王だ。αだからといって、それがどうした。  ――だが、軍がわざわざ俺にそんな情報を伝える理由は、嫌でも察しがついた。  案の定、司令官の言葉はそこで終わらなかった。 「まともな対話に応じる気がないなら、奴らの『本能』を突くまでのことだ。……グレン二等兵」  司令官が顎でしゃくると、サイドに座っていた幹部の一人が、テーブルの上をスッと滑らせるように小さなアクリルケースをこちらへ押し出してきた。  滑り込んできたケースの中には、掌に収まるほどの小さな茶色いガラス瓶が収まっていた。市販の風邪薬やサプリメントを入れるような無機質な小瓶。だが、半透明のガラス越しに見えるのは、妖しく混濁した紫色の錠剤だ。 「……これは?」 「軍の特務機関が開発した『強制発情剤』だ」  司令官は悪びれもせず、当然の権利であるかのように吐き捨てた。 ​「相手がαである以上、眼前で発情したΩを突きつけられれば正気ではいられん。……どんな手を使っても構わん。その身体と薬を使い、我が軍に有利な条件を引き出してこい」 「……なるほど」  要するに「薬で無理やり発情して自らを差し出してこい」というわけだ。  不意に乾いた笑いがこみ上げてくる。恐らく彼らも、俺の身一つでそう簡単に獣王を手懐けられるとは考えていないだろう。  ただ、使える手段は何でも使う。仮に交渉が決裂し、俺が獣王の逆鱗に触れて処刑されたとしても、奴らは痛くも痒くもないのだ。――それどころか、『我々の外交使節がユバ国によって殺害された』と被害者を装い、開戦の格好の口実に利用するつもりに違いない。  どこまでも反吐が出る。俺たちクローンを道具としてしか、性処理の駒としてしか思っていない、この軍の腐りきった思考回路が。  ――だが。 「……了解いたしました、司令官閣下」  俺は込み上げてくる侮蔑の念を喉奥に押し込み、座ったまま恭しく、深々と頭を下げてみせた。  そしてテーブルの上の小瓶を手にとり、ポケットへと収める。 「偉大な連合軍のお役に立てるなら光栄です。その『獣王』とかいう野蛮な王様のお気に召すよう、せいぜい体を張って愛想を振りまいてきますよ」 ​「ああ。君には期待している」 ​ 満足そうに頷く司令官と、冷笑を浮かべる上層部の連中。 (――上等だ)  俺は軍の言いなりになる気も、獣王の玩具になる気もさらさらない。  奴らが俺を“カード”として切るつもりなら、そのカードを握っているのは俺自身だ。  せいぜい、最後まで俺をただの人形だと思っていればいい。  退室の許可が出ると、俺はライナスと共に席を立ち、小司令室をあとにした。  重いハッチが閉まり、静かな通路に俺たちの足音だけが響く。 「……グレン」  しばらく歩いたところで、ライナスが口を開いた。 「何を考えている?」 「別に、何も」  俺はポケットの中の小瓶を指先で弄びながら答えた。 「ご命令通り、俺なりに立ち回らせていただくだけさ」  ライナスは「……そうか」と呟くと、視線を落とし、それ以上、何も聞いてはこなかった。

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