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第5話

 ユバの王城、最上階の回廊は物々しい空気に満ちていた。  廊下に漂い始めた異臭と兵たちの動揺を察知したのか、重厚な扉が内側から勢いよく開け放たれる。 「何の騒ぎだ!」  姿を現したのは、この城の主——ジルヴァだった。駆け寄った近衛兵が、焦りを隠せずに片膝をつく。 「は! 一階の資材庫より出火との報告! すでにボヤは鎮火いたしましたが、焦げた絨毯と薬品の煙が回廊に充満しております!」 「原因はなんだ」 「それが……地下牢のニンゲンが姿を消したとの報告も!」 「何だと……!?」 「見張り二名と巡回一名が打ち倒されて重傷です! 資材庫の鍵は巡回兵が所持しており、恐らくは……」 「……チッ、分かった。総員、城内と城外に分かれて捜索を開始せよ! 夜の原生生物に喰われでもしたら元も子もない。俺もすぐ支度して捜索に向かう!」 「は!」  ドタドタと遠ざかっていく荒々しい足音。  ジルヴァは苦々しく吐き捨てると、捜索の支度を整えるため部屋の奥へと踵を返した。  俺は回廊の太い石柱の影に身を潜めたまま、シニカルに口元を緩めた。 (よし、うまく撹乱できたようだ)  資材庫で燃やした獣毛の絨毯と薬品の煙だ。自慢の鼻腔を激痛で焼かれては、俺の残留臭を追う余裕は恐らくないだろう。  警備がガラ空きになった今しか、もう機会(チャンス)はない。  ​俺はポケットから幹部渡しの小瓶を取り出すと、迷いなく口中へ放り込み、紫色の錠剤を噛み砕いた。  喉奥へ滑り落ちる、毒のように甘苦い感触。  次の瞬間——ドクン、と心臓が跳ね上がった。  内臓を直接火で炙られるような狂おしい熱と、自分自身でも眩暈がするほどの甘い発情フェロモンが、一気に全身の血管を突き破って溢れ出す。  視界が白く霞み、膝がガクガクと激しく震えた。 (……クソが、聞いてた以上の即効性だ……っ)  荒い吐息とともに口元から熱気が漏れる。  俺は壁に重い肩を預けて体を支えながら、残された全筋力を右足に込め、ジルヴァの戻った重厚な扉を勢いよく蹴り飛ばした。 「次は何だ!」  慌てて飛び込んできた衛兵と勘違いしたのか、ジルヴァは背を向けたまま苛立ちを隠しもせず怒声を上げた。  だが、俺の姿——そして俺の体から溢れ出す狂乱の匂いを認めた瞬間、ブワリと首元の鬣(たてがみ)が総毛立ち、鋭い深緑の目が大きく見開かれた。 「……お前、……ッ!?」  言葉を失ったジルヴァの鼻腔が痙攣するようにひくつき、喉奥から地鳴りのような低い唸りが漏れ出す。 ​ 自慢の鋭い鼻が、部屋いっぱいに充満した俺のオメガの気配をダイレクトに吸い込んだ証拠だ。  激痛と甘い毒に灼かれたようなその顔を見上げ、俺は熱に浮かされたまま、無意識に手から銃を落としていた。  カチャン、と静かな部屋に金属音が虚しく響く。  俺の最大の武器は、銃でもナイフでもない——発情剤で狂わせた俺自身の身体だ。 「……はぁ、……はっ……」  ガタガタと震える手で無造作に上着を剥ぎ取り、床へ投げ捨てる。  露わになった黒いタンクトップは、体中から吹き出す汗ですでに肌へ張り付いていた。熱を帯びた首筋や胸元から溢れ出すのは、部屋の空気を一瞬で毒液に変えるほど濃厚な、狂おしいオメガの発情臭。 「……このッ、発情した猿が……!」  ジルヴァが絞り出すように吐き捨てた瞬間。  俺の喉元をガッと片手で締め上げ、勢いのまま石壁へと乱暴に叩きつけた。  ガツン、と頭骨を揺らす強い衝撃。後頭部が壁に激突し、視界の裏側で火花が散る。  首を締め上げるジルヴァの太い指は、気管を噛み砕くほどの力で深々と食い込んでいた。呼吸が完全に止まり、肺が肺胞ごと悲鳴を上げる。 「ぐ……っ、……あ」  壁に磔(はりつけ)状態になった俺を、ジルヴァは荒い呼吸のまま鋭い眼光で見下ろし、嘲笑するように唇を歪めた。 「……王妃の座を狙って発情をぶつけてくる自国のメスどもと同じ手口か。……虫唾が走る」 ​「う……っ、ぁ……」 「本能の奴隷になった貴様を抱くつもりなど毛頭ない」 ​(こいつ……オメガのフェロモンをこれだけ至近距離で浴びておいて……なんていう精神力だ……)  計算が、完全に狂っていた。  アルファの理性を力ずくで吹き飛ばし、無力化するための罠だったはずだ。だが目の前の男は、狂暴な本能に喰われそうになりながら、歯を食いしばって持ちこたえている。  滴る涎。激しく上下する胸板。荒い呼気とともに洩れるのは、理性を引きちぎろうとする野獣の低い唸り声だ。  だのに、その瞳だけは——死線をくぐり抜けてきた獣の王の瞳だけは、濁るどころか冷酷なまでに鋭く俺を射抜いていた。  ジルヴァが懐から革袋を取り出し、中の何かを直接自分の口へ流し込むのが見えた。  直後、顎を砕くような力で噛み合わされた歯をこじ開けられ、強靭な唇が重なる。 「——ッ、ん、ぐ……!?」  抵抗して吐き出そうとした俺の口内へ、相手の唾液と混ざり合った苦くザラついた粉状のナニかが強引に押し込まれてきた。逃げようと暴れる俺の舌を、太く熱い舌が容赦なく力で押さえつける。  息が止まる。粘り気を帯びたそれが、喉の奥へと容赦なく滑り落ちていく。  ——その瞬間、俺の身体が内側から跳ねた。 (…………っ!)  頭では苦しさと屈辱に吐き気がしていた。だが、発情で狂った俺の身体は、侵入してきた「アルファの舌と体温」を交尾の合図だと誤認したのだ。  ゾクりと背筋を駆け上がる甘い快感。喉の奥から、惨めなくぐもった声が漏れる。  だが、ジルヴァにも俺の失態を嘲笑うような余裕は微塵もなかった。  唇が離れた瞬間、俺を拘束したまま、ジルヴァは喉から血を吐くような荒い息を吐き出した。額には大量の汗が浮き、軋んだ奥歯からは嫌な音が響いている。 「……吐き出すな。……飲め」  命じながら、本能の化け物に引きずり降ろされまいと死力で耐えていた。  喉が勝手に動き、それを飲み込む。  遠のく意識のなかで俺が見たのは、涎を垂らし、狂気の熱に浮かされながらも——圧倒的な精神力で俺をねじ伏せ続ける、異星の王の凄惨な顔だった。

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