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第11話

「お妃様……にげ……て……」  深い暗闇の中。腕の中でだらりと崩れ落ちたのは、ジルヴァの召使いであるマロだった。  ふわふわとしていたはずの白い毛並みが、べったりと粘り気のある赤に染まっている。か細い吐息とともに何かを伝えようとした唇が引きつり、俺が叫び返すより早く、その命が指の隙間から零れ落ちた。 「……マロ? おい、マロ……!」  いくら呼びかけても、もう返事はない。  急速に体温を失っていく小さな身体を抱きとめる自分の手が、異常なほど震えていた。  ツンと鼻腔を刺す、圧倒的な鉄の臭い。  見回せば、足元には凄惨な姿となった獣兵騎士たちの亡骸が、折り重なるように転がっていた。  ――その死体の山の中に、ライナスとアルフレッドの、物言わぬ顔がある。 「なんだよ……これ……! 一体なんなんだよ……!!」 ​  早くなる動悸。過呼吸を起こしそうなほど浅く荒い呼吸。背筋を這い上がる冷や汗。  悪夢どころではない残酷な光景を前に、俺は自分が今、生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなっていた。  冷たくなっていくマロの亡骸に、必死にしがみついていた、その時。 「……グレン」  耳に届いたその声にはっとして振り向く。  だが、俺の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。  ジルヴァが断頭台に括り付けられている。  傷だらけの身体、拘束された太い首筋。  その傍らには、見覚えのある連合軍司令官が醜くほくそ笑んでいた。  ——やめろ。  そう叫びたいのに、喉が引きつれて声が出ない。まるで水の中にでも沈められているかのような猛烈な閉塞感。足は泥沼に囚われたかのように、一歩も動かすことができない。  ——やめろ、やめろ、やめろ!!!  視線を向けた先で、ジルヴァは穏やかに笑っていた。  口元を微かに動かし、俺の名を呼んだ気がした。  司令官が気取った仕草で合図を出す。  軍服を着た執行人が、ピンと張ったロープを刃物で切断した。  重い鋼鉄の刃が、滑落する——。 『ジルヴァ————!!!』 「…………ッ!?」  ハッと目を見開くと、硬直していた胸が、狂ったように酸素を要求して深く喘いだ。  視界に飛び込んできたのは、見慣れた黒い石壁と天井。そして、俺の顔を覗き込むように並んだ、六つのつぶらな瞳だった。  身につけている衣類はない。全身にびっしょりと冷や汗をかき、湿ったシーツが肌にへばりついて酷く不快だった。荒い息を吐きながら、なんとか身を起こす。  そこは、見覚えのあるジルヴァの城の一室だった。 「お妃様、だいじょぶなのです……?」  おずおずと、温もりのある小さな掌が俺の手に触れた。 ​「……マロ?」 「はいです。だいじょぶなのです? お妃様、ずっと険しいお顔で唸っていたのです」 ​ ――生きている。  さっきまで真っ赤に染まっていた白い毛並みも、か細く絶えた息も、すべて嘘みたいに。  俺が無意識のうちにマロの手を押し潰すほどの力で握りしめると、マロは痛がる風でもなく、心配そうに丸い眉毛を困惑気味に寄せた。 「コロ、急いでジルヴァ様を呼んでくるです!」 「モコ、お水持ってくるです!」  コロとモコは短い足をもつれさせながら、背丈より高い位置にあるドアノブを器用に開けて扉の向こうに消えていった。  トテテテと廊下を遠ざかっていく足音を茫然と見送っていると、ほんの数十秒もしないうちに、地鳴りのような足音が部屋へと近づいてきた。  ――バァンッ!!!!  建付けごと壊れんばかりの勢いで扉が殴り開けられる。 ​ その衝撃音にマロがうさぎのように跳ね上がり、パニックのまま俺の布団の中へとズボッと潜り込んできた。  視線を上げた先に立っていたのは、肩で息をし、金色の鬣を揺らしたジルヴァだった。  ​ジルヴァは俺の姿を認めると、安堵するように小さく息を吐き、ゆっくりとベッドの傍らに歩み寄った。  その顔には、いつもの余裕ぶった不敵な笑みはない。 「……気分はどうだ?」 「ああ、悪くはない」 ​ ジルヴァは布団の端から顔だけ覗かせたマロを見つけると、無言でその首根っこをそっと摘み、床に降ろした。 「なんか、手間かけさせちまったみたいだな」 「気にするな」  短く答えたジルヴァは、そのままゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。  沈み込む敷布。彼の体温と、かすかな獣の匂いが鼻腔をくすぐり、俺の波立つ呼吸を少しだけ落ち着かせてくれる。 「……あの石に触れた後、お前は急に意識を失った。全身から血の気が引き、まるで魂を抜き取られたようにな」  ジルヴァのエメラルドの瞳が、探るように俺の顔を覗き込んでくる。  その眼差しはどこか遠く、過去の記憶を辿っているようでもあった。 「先代――前王ファムートも、かつて契りの場であの『母なる石』に触れた時、お前とまったく同じように倒れ伏したことがある」 「……何?」  思わず身を乗り出した俺に、ジルヴァは静かに言葉を重ねた。 「父は目覚めた後、青ざめた顔で『ユバが滅びる姿を見た』と語っていた。……我が血を注がれた石は、時に選ばれし者に『視せる』のだそうだ。この星の過去、あるいは起こり得る果ての姿を」  一拍の重苦しい沈黙。  ジルヴァは大きな手を伸ばすと、冷や汗で額に張り付いた俺の髪を爪でそっと撫で、低く問いかけてきた。 「――グレン。お前は、何か見たか?」  一瞬。ありのままを話すかどうか躊躇った。だが、誤魔化したところで、感情まで匂いで嗅ぎ分けるこの男に嘘が通用するとは到底思えない。  そしてなにより、下手な嘘をついて、命がけで勝ち取ったこの信頼を失いたくなかった。 「……あんたが死ぬところ視た」  静かにそう告げると、ジルヴァは僅かに眉間にシワを寄せ、「そうか」と呟くだけだった。取り乱すこともなく、ただ深く重い眼差しで虚空を見つめている。  ふと視線を落とすと、いつの間にかジルヴァの足元に毛玉三姉妹が身を寄せ合っていた。  水を持ってきたモコがグラスを両手で抱えたまま小さく固まっている。俺はそのグラスをそっと受け取ると、乾ききった喉へ一気に煽り流し込んだ。  錆びた味がしない水は異様に美味かった。暫く空になったグラスを見つめたあと、ジルヴァの横顔に、ふと頭を掠めた疑問を投げかけた。 「……もし知ってたら教えてくれ。あの岩は、一体なんなんだ?」  ジルヴァは静かに視線を落とし、足元で身を寄せ合う三姉妹の頭を、大きな掌でそっと撫でた。 「あれは、俺たちユバの者は昔から“母なる石”と呼んでいるが……恐らく、グランヴェルデが生まれるより遥か昔から生きたボルムの成れの果てだ」 「……は? ボルムって、あの掃除屋か!? グランヴェルデの落ち葉の上にうじゃうじゃ転がってた、あの甲殻虫だろ!? あれの親玉ってことか!?」 ​「……そうだ。文字通りの『母体』だな。果てもない時を経て巨石化し、動けなくなってもなおあそこで呼吸し、森の一部として新たな幼生を生み続けている」 「なるほど。だから“母なる石”ってわけか」 「ああ。父がなりふり構わず連合軍との融和を進めていたのも、ユバが滅びる未来を回避するためだった。……だが、どんなに譲歩を重ねようと、父は古からの言い伝えを守り『グランヴェルデの譲渡』にだけは決して応じなかった。母なる石を奴らに渡せば、この森も、ユバの命脈も絶たれると知っていたからだ」  ——そして毒殺された。 「あの森は命そのものなのだ。グランヴェルデに我々は生かされているといっても過言ではない。綺麗な水も食料も、あの森によって育まれたものだ。その森を奪われるということは、我々に“死ね”と言ってるも同義なのだ」  俺は枕元に片手をついて上体を少しだけ反らし、天井を仰ぎ見た。そして独り言のように英語で小さく吐き捨てる。 「……Telepathy or spiritual bullshit... I used to be the type who never believed in any of that.(テレパシーだのスピリチュアルな戯言だの、信じないタチだったんだがな……)」  ……要するにこれは、あのクソでかダンゴムシたちの、さらにクソでかいグランマからの警告であり、SOSなんだろう。  あの最悪の未来を、当事者であるジルヴァではなく俺に見せた――その意味はひとつしかない。  あの断頭台の未来を変える鍵は、俺が握っているということだ。  俺は勢いよく反動をつけて上体を起こし、エメラルドの瞳を射抜くようにまっすぐ見つめ返した。 「死なせねぇよ。……俺の復讐が終わるまではな。あんたも簡単にくたばるんじゃねぇぞ」  そうだ。あれが俺がここに留まることで起こり得る未来だと言うのなら、そうならないように俺が立ち回ればいいだけのことだ。  あのボルム・グランマは「上手くやれよ、クソガキ」と、俺のケツを引っ叩いてくれただけに過ぎない。  ジルヴァは俺の言葉を鼻で笑い飛ばし「戯けが」と、いつものように口元を不敵に歪ませた。

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