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第2話 最悪の教育係
「まず、笑え」
教育係になった梓が最初に口にした指示は、それだけだった。
事務所の応接スペースに立たされた星愛は、向かいのソファへ座る梓を見る。長い脚を組み、頬杖までついた姿からは、教える気など欠片も感じられない。
「笑う理由がありません」
「客の前でも同じことを言うつもりか」
「お客様の前なら、必要に応じて笑います」
「今、俺を客だと思え」
開始の合図も、想定する場面の説明もなかった。星愛が眉を寄せると、梓は壁の時計へ目を向ける。
「もう五秒経った」
「どういうお客様ですか?」
「それを聞かなきゃ何もできないのか」
「相手が望む恋人像によって、対応は変わるはずです」
「正論を並べてる間に、客は帰る」
いちいち腹の立つ男だった。
初対面で零点をつけたうえ、教える側になっても説明を省き、できないことだけを責めてくる。
星愛は息を整え、口元へ笑みを作った。
「お待たせしました。本日はよろしくお願いいたします」
「堅い」
「……今日は会えて嬉しいです。よろしくお願いします」
「面接か」
「では、正解を見せてください」
言い返すと、梓が立ち上がった。
一歩、また一歩と距離を詰めてくる。中和剤の効いた室内で匂いはほとんど感じない。それでも近づかれるほど、胸の奥へ説明のつかない緊張が広がった。
梓は星愛の目の前で止まる。
「待った?」
それまでの気怠さが消えていた。
表情も立ち方も、別人のように変わっている。そこにいるのは、新人を嫌々指導する男ではなく、待ち合わせ場所へ現れた恋人だった。
「少しだけ」
反射的に答えると、梓の目元がわずかに和らぐ。
「悪かった。来る途中で、お前が好きそうな店を見つけた」
「僕の好きな店を知っているんですか?」
「昨日、甘いものが好きだって言ってただろ」
「言っていません」
星愛が即座に否定すると、梓の表情が元へ戻った。
「今のは試した」
「試した?」
「存在しない思い出を混ぜても、客に合わせて肯定するのかと思ってな」
「趣味が悪いですね」
「客が間違えることも、無理な設定を求めることもある。全部受け入れるのが正解じゃない」
「では、どう返せばいいんですか?」
「それを考えるのがお前の仕事だ」
やはり、すぐに答えは教えてくれない。
星愛は同じ場面を頭の中で組み直した。
「僕なら、『僕が好きそうだと思ってくれたんですか。どんなお店です?』と聞きます」
「知らないのに?」
「知っているふりはしていません。梓さんが僕を考えて選んでくれたことを、嬉しいと思っただけです」
「設定上の話だ」
「演じるなら、その瞬間は本当に喜ぶべきでは?」
梓の目が、星愛を捉えたまま動かなくなる。
「僕は、恋人らしい台詞だけを覚えるつもりはありません。相手の気持ちを無視して綺麗に笑うだけなら、人形でもできます」
「言うじゃん、千影くん」
離れた机で作業していた直が、耐えきれずに口を挟んだ。
「直。黙ってろ」
「はいはい」
梓はソファへ戻り、机の上に置かれた研修資料を星愛へ差し出した。
「接客の基本だ。全部覚えろ」
「最初から渡してください」
「読めば仕事ができるようになるなら、教育係はいらない」
「今のところ、いなくても困らない気がします」
「なら帰るか?」
「教育係が逃げるんですか?」
梓の眉間に皺が寄る。
星愛も引かずに見返した。腹は立つが、ここで負けを認めるつもりはない。
「二人とも、初日から相性悪すぎない?」
直が呆れたように言う。
「俺に聞くな」
「梓が喧嘩を売ってるからでしょ」
「先に噛みついてきたのはこいつだ」
「僕は間違っていると思ったことを伝えただけです」
「それを噛みつくって言うんだよ」
「梓も同じことしてるけどね」
直の一言で、梓が黙る。
星愛は受け取った資料を開いた。身だしなみ、待ち合わせ、会話の作り方、緊急時の対応。後半には、接触に関する規則が細かく記載されている。
「手を繋ぐことも、毎回確認するんですね」
「当然だ」
答えた梓の顔から、苛立ちが消えた。
「プランに入っていても、その日の体調や気分で嫌になることはある。前回許可されたからって、次もいいとは限らない」
「確認すると、恋人らしさがなくなりませんか?」
「なくさずに聞くのが仕事だ」
梓は立ち上がり、星愛の前へ右手を差し出した。
「手、繋いでもいい?」
ただ尋ねられただけなのに、胸が大きく脈打った。
触れていないはずの手に、自分の指が重なる光景を、身体だけが覚えている気がする。
「千影?」
「あ……はい」
「何に対する返事だ」
「繋いでもいい、です」
「曖昧に答えるな。嫌なら断れ」
「嫌ではありません」
「なら、自分から選べ」
星愛は迷いながら、差し出された手へ自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、懐かしい熱が掌から腕へ駆け上がる。
梓の指も、わずかに動きを止めた。
「梓さん?」
「……何でもない」
すぐに手が離れた。
「今の聞き方なら、確認されている感じがしなかったでしょう」
「そうですね」
「客が安心して選べる形を作る。恋人らしく見せるのは、そのあとだ」
星愛は資料へ目を落とし、接触確認の項目へ印をつけた。
横柄で、口が悪く、説明も足りない。けれど、相手の意思に関わる部分だけは決して曖昧にしないらしい。
「少しだけ、教育係らしく見えました」
「お前、俺を何だと思ってる」
「最悪の教育係です」
「帰れ」
「勤務時間中です」
直が堪えきれずに吹き出す。
梓は苛立たしげに髪をかき上げ、別の資料を星愛の前へ置いた。
「明日までに、客が恋人へ求めるものを十個考えてこい」
「人によって違います」
「だから十個だ。自分の正解だけで客を見るな」
悔しいが、筋は通っていた。
星愛は新しい資料も受け取り、鞄へしまう。
「分かりました。梓さんも考えてきてください」
「俺は必要ない」
「では、梓さんが恋人へ求めるものを一つ教えてください」
梓は答えなかった。
誰からも求められる恋人を演じられるくせに、自分が何を求めるかは分からないらしい。
「宿題にします」
「勝手に決めるな」
「教育係だけが宿題を出せるという規則は、資料にありませんでした」
梓が何か言い返すより先に、星愛は頭を下げた。
「本日の研修、ありがとうございました」
事務所を出ても、触れ合った掌の熱は消えなかった。
◇
扉が閉じる。
梓は誰もいなくなった応接スペースで、自分の右手を見下ろした。
指先に残る熱は、ひどく懐かしかった。
「……何なんだよ、これ」
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