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第3話 同じ大学の先輩
翌日の昼休み、星愛は図書館へ向かっていた。
鞄の中には、梓から渡された研修資料が入っている。講義の合間に宿題を片づけようとしたものの、「客が恋人へ求めるもの」を十個も挙げるのは、思っていた以上に難しかった。
優しさ。安心感。楽しさ。
三つ書いたところで手が止まり、そのまま次の講義が始まってしまった。
「大路先輩!」
中庭を横切ろうとしたところで、聞き覚えのある名前が耳に入る。
数人の学生に囲まれた男が、呼びかけた後輩へ手を上げた。昨日、事務所で星愛と梓のやり取りを笑いながら見ていた大路直だった。
「この前は、履修相談ありがとうございました」
「ちゃんと登録できた?」
「はい。先輩が確認してくれたおかげです」
「ならよかった。次は締切前に相談するんだよ」
「気をつけます」
別の学生からサークルの書類を渡されると、直はその場で内容を確認し、不足している箇所を指し示した。誰に話しかけられても嫌な顔をせず、相手が納得するまで付き合っている。
「直さん?」
思わず呼ぶと、直が振り返った。
「千影くん?」
互いに数秒、顔を見合わせる。
「どうしてここにいるんですか?」
「それは俺の台詞。この大学だったの?」
「はい。文学部の三年です」
「俺は経済学部の四年。昨日、契約書で大学名を見て気づいたんだけど、仕事の話しかしてなかったから言いそびれた」
「では、最初から知っていたんですね」
「黙していたわけではありませんよ」
「急に他人行儀にならないでください」
周りにいた学生たちが、直と星愛を交互に見る。
「大路先輩の知り合い?」
「昨日から同じ会社で働いてる後輩」
「新しいバイト?」
「うん。まだ研修中だけどね」
直は学生たちから渡された書類をまとめ、それぞれの持ち主へ返した。
「俺はこれから昼だけど、みんなは?」
「午後の講義があります」
「じゃあ、また何かあったら連絡して」
学生たちは礼を言い、それぞれの校舎へ向かっていく。残った直が、今度は星愛の隣へ並んだ。
「これから昼?」
「図書館で宿題をするつもりでした」
「大学の?」
「会社のです」
「梓から出されたやつ?」
「どうして分かったんですか?」
「あいつが新人に課題を出すところ、何度か見てるから。内容もだいたい同じ」
「毎回、あんな教え方なんですか?」
「千影くんには、いつもより厳しい気がする」
「嫌われているんでしょうか」
「それなら教育係を引き受けないよ」
「社長命令だと言っていました」
「本当に嫌なら、梓は命令でも断る」
意外だった。
口では拒絶しながら、梓は研修資料を用意し、接触の確認まで実演した。思い返すと、掌に残った熱まで蘇る。
「俺も昼を食べてないんだ。一緒に行っていい?」
「先ほどの皆さんは?」
「午後の講義が別だから、ここで解散」
直は返事を急かさず、星愛の答えを待っている。
梓なら「行くぞ」と勝手に決めそうだと思い、二人の違いが少しおかしかった。
「一緒に行きましょう」
「よかった」
◇
図書館の一階にあるカフェは、昼時にしては空いていた。
星愛が紅茶を選ぶと、直は何も言わず、窓際の静かな席へ向かった。人の出入りが多い中央ではなく、星愛が落ち着けそうな場所を選んだらしい。
「宿題、見てもいい?」
向かいへ座った直に尋ねられ、星愛はノートを開いた。
書けたのは三つ。余白ばかりが目立っている。
「優しさ、安心感、楽しさか」
「直さんなら、何を書きますか?」
「そうだな。自分だけを見てくれること」
「独占欲ですか?」
「いきなり悪く言うね」
「違うんですか?」
「誰にでも同じ優しさを配る人より、自分を特別にしてくれる人がいいってこと」
「直さんは、誰にでも優しそうですけど」
「それと恋人は別だよ」
直は星愛のペンを借りる前に、手のひらを差し出した。
「借りてもいい?」
「どうぞ」
受け取ったペンで、四つ目の項目を書く。
『自分を選んでくれること』
「これ、客が求めるものですか?」
「俺が恋人に求めるもの」
昨日、梓へ同じ質問をした。
けれど梓は答えられなかった。直は迷いながらも、自分の欲しいものを言葉にできる。
「梓にも聞いたの?」
「はい。答えてくれませんでした」
「だろうね」
「分かるんですか?」
「あいつは、相手が求めるものなら何でも分かる。でも、自分が欲しいものには興味がないから」
「興味がない?」
「ないというより、考えないようにしてるのかも」
直はそれ以上、梓について話そうとしなかった。
家族ぐるみの知り合いなのか、会社で長く一緒にいるだけなのか。二人の距離は近いようで、触れてはいけない場所もあるらしい。
「千影くんは?」
「僕ですか?」
「恋人に求めるもの」
星愛はノートへ並んだ言葉を見つめた。
優しさも、安心感も、楽しさも欲しい。けれど、それだけでは足りない気がする。
「僕を、僕として見てくれる人です」
「Ωだからでも、運命の番だからでもなく?」
「はい」
「運命の番を探してるのに?」
「矛盾していますか?」
「少しだけ」
直は頬杖をつき、星愛の答えを待つ。
「運命は、相手と出会うきっかけにはなると思います。でも、運命だからという理由だけで愛されたくはありません」
「じゃあ、運命の相手じゃなくても、好きになる可能性はある?」
「あると思います。まだ、分かりませんけど」
「βでも?」
その問いに、星愛は顔を上げた。
直は笑っていたが、冗談だけで尋ねたようには見えなかった。
「属性だけで、最初から誰かを除外するつもりはありません」
「そっか」
短く答えた直は、星愛のノートへ五つ目の項目を書き加えた。
『その人自身を見てくれること』
「星愛」
突然、名前を呼ばれた。
「……何ですか?」
「会社では千影くんだけど、大学では星愛って呼んでもいい?」
「どうして分けるんですか?」
「仕事の後輩と、大学の後輩は違うから」
「同じ僕です」
「じゃあ、どっちでも星愛でいい?」
断る理由はなかった。星愛が頷くと、直は満足そうにペンを返した。
「僕も、大学では直先輩と呼んだほうがいいですか?」
「うん。そのほうが嬉しい」
「では、直先輩」
初めて呼んだだけなのに、直は少し驚いた顔をした。
「何ですか?」
「いや。思ってたより、いいなと思って」
昼休みの終わりを知らせるチャイムが、窓の向こうから聞こえてくる。
「次の講義があるので、僕は行きます」
「うん。また会社で」
「ありがとうございました、直先輩」
星愛はノートを鞄へしまい、図書館を出ていった。
◇
一人になった直は、星愛が座っていた席を見つめた。
ノートへ書いた二つの言葉が、頭に残っている。
『自分を選んでくれること』
『その人自身を見てくれること』
それは、直が初めて誰かに求めた願いだった。
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