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第5話 なんか気になる
開店前の事務所は静かだった。
梓は自分の机に置かれた、焼き菓子の空袋を見る。昨夜、捨てるのを忘れたらしい。
甘いものは好きではない。
それなのに、星愛と直が出ていったあと、気づけば最後まで食べていた。
「何見てるの?」
背後から直に尋ねられ、梓は空袋を掴んでごみ箱へ入れた。
「別に」
「昨日、いらないって言ってたのに食べたんだ」
「置いてあったからだ」
「俺が持って帰ってもよかったんだけど」
「朝からうるさい」
直の後ろから、星愛が事務所へ入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう、星愛」
「……おはようございます、直先輩」
「大学から一緒だった?」
「正門で会いました」
それだけの会話なのに、妙に耳についた。
梓はパソコンを起動し、予約画面を開く。誰と出勤しようが、どこから一緒に来ようが、自分には関係ない。
「千影。今日、プロフィール写真を撮る」
「写真ですか?」
「写真を載せないと、客が選べないだろ」
「どんな服装がいいですか?」
「今のでいい。襟だけ直せ」
星愛が自分の襟元を見る。
「曲がっていますか?」
「ああ。触ってもいいか」
「お願いします」
許可を得て、シャツの襟を整える。
指先が首筋へ近づいた瞬間、昨日とは違う緊張が走った。中和剤に混じって、ごく薄い匂いを感じた気がする。
梓はすぐに手を離した。
「終わった」
「ありがとうございます」
「パッチは?」
「朝、替えました」
「浮いてないな」
「確認済みです」
「ならいい」
星愛が不思議そうに梓を見る。
「何だ」
「いえ。今日は最初から教育係らしいと思って」
「お前は俺を何だと思ってる」
「最悪の教育係です」
「まだ言うのか」
「事実は簡単に変わりません」
直が笑いながら、応接スペースの壁際へ簡易照明を運んだ。
「仲良くなったね」
「なってない」
「なっていません」
二人の返事が重なった。
◇
「もう少し笑って」
カメラを構えた直が言う。
白い壁の前に立つ星愛は、口元だけで笑みを作った。姿勢は悪くないが、梓が初日に指摘したとおり、表情が堅い。
「これで笑っています」
「証明写真ならね。恋人として会いたくなる写真が欲しいんだ」
「恋人として……」
「客に媚びようとするな」
梓が口を挟むと、星愛がこちらを見る。
「では、どうすれば?」
「今までの研修で何を覚えた」
「相手を見ることです」
「カメラの向こうに、会いたい相手がいると思え」
「会いたい相手」
星愛がレンズへ向き直る。
それでも表情はほとんど変わらなかった。
「駄目だな」
「梓、緊張してる人に追い打ちかけないで」
「客の前でも緊張するつもりか」
「初めてなんですから、仕方ないでしょう」
「客は初めてだからって金を返してくれない」
「それ、初日にも聞きました」
星愛が呆れたように眉を下げた。
その瞬間、直がシャッターを切る。
「今の、いいかも」
「今のですか?」
「作った笑顔より、ずっと自然だった」
直が撮影画面を見せる。
そこには、困ったように笑う星愛が映っていた。完璧ではない。けれど、向かいにいる相手へ「仕方のない人ですね」と笑いかけているように見える。
「これで載せよう」
「梓さんは、どう思いますか?」
どうして自分に聞くのか。
画面の中の星愛と、目の前で答えを待つ星愛を見比べる。
「悪くない」
「何点ですか?」
「九点」
「十一点から下がりました」
「昨日とは採点基準が違う」
「便利ですね、その基準」
「満点にしないと気が済まないのか」
「梓さんから取れるなら」
挑むように見返され、梓は画面へ視線を戻した。
「指名を取ったら十点だ」
「では、すぐに取ります」
「新人を選ぶ客は少ない」
「取らせるために教えるのが、教育係の仕事では?」
「生意気だな」
「梓さんにだけは言われたくありません」
直が二人の間で、またシャッターを切った。
「今の写真もいいね。これも候補にしていい?」
「……確認してから決めます」
「もちろん」
星愛が撮影画面をのぞき込む。
「梓と話してるときが、一番自然だから」
星愛は嫌そうな顔をしたが、梓は何も返せなかった。
◇
プロフィールが公開されたのは、その日の夕方だった。
星愛が自分で考えた紹介文には、『静かな時間も、一緒に楽しめる恋人になります』と書かれている。
「地味じゃない?」
直が画面を見ながら尋ねた。
「星愛らしくていいと思うけど、もっと目を引く言葉があってもいいかも」
「静かな時間を求めるお客様もいると思います」
「俺も変えなくていいと思う」
梓が言うと、星愛が意外そうに顔を上げた。
「梓さんが賛成するんですか?」
「お前が騒がしい恋人を演じても、すぐにぼろが出る」
「褒められたと思ったのに」
「合わない客を集めても意味がない。できることを大きく見せるより、お前に合う客を取れ」
「はい」
素直に頷かれると、それはそれで落ち着かない。
梓は予約画面へ戻り、自分の予定を確認した。今週はすでに埋まっている。明日も朝から夜まで、別々の客の恋人を演じる予定だった。
通知音が鳴る。
「早い」
直が管理画面を開いた。
「星愛に指名が入ったよ」
「本当ですか?」
星愛が直の隣へ駆け寄る。
依頼人は二十六歳の会社員。希望は休日の昼食と散歩。人と話すことに慣れていないため、ゆっくり過ごせる相手を探していると書かれていた。
「星愛のプロフィールにぴったりだね」
「初めての指名です」
「おめでとう」
直と星愛が並んで画面を見る。
梓は自分の席にいるはずなのに、依頼内容が気になった。
「その客、利用履歴は」
「三回目。過去に問題はないよ」
「評価は」
「担当したキャストからも好評価」
「当日の移動経路は?」
「これから相談する」
「帰宅時間が遅くならない場所にしろ」
直が振り返る。
「心配しすぎじゃない?」
「初回で何かあったら、教育した俺の責任になる」
「まだ日程も決まってないよ」
「先に確認しておけ」
「はいはい」
星愛が梓の机まで戻ってきた。
「僕にも、できるでしょうか」
「できないと思うなら断れ」
「やりたいです」
「なら、やれ」
「それだけですか?」
「浮かれるな。指名されたことと、満足させられるかは別だ」
厳しい言葉を向けても、星愛は引かなかった。
「分かっています。だから、もう一度練習をお願いします」
「誰に」
「教育係にです」
梓は予約表を閉じた。
「明日、時間を空けろ」
「梓さんは予約が入っているのでは?」
「朝なら一時間ある」
「お願いします」
星愛の顔に、プロフィール写真よりも自然な笑みが浮かんだ。
その笑顔が、今度は客へ向けられる。
「……何ですか?」
「何でもない」
そう考えただけで、胸の奥に小さな棘が残った。
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