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第6話 初めての指名
「遅い」
初めての接客当日、待ち合わせの二時間前に事務所へ入ると、梓はすでに応接スペースへ座っていた。
「梓さんと決めた確認開始時刻より、十分早いです」
「初回だけは三十分前に来い」
「それなら、先に言ってください」
「今言った」
「次からですね」
星愛が鞄を置くと、梓は当日の予定表を机へ広げた。
「待ち合わせは十一時、駅前の時計台。そこから予約済みの店で昼食を取って、近くの公園を歩く。終了は三時だ」
「確認しました」
「緊急連絡先は」
「会社の緊急番号と、本日の連絡担当である直先輩です」
「俺の番号も入れろ」
「梓さんは接客中では?」
「出られなくても通知は残る。何かあったら迷わず送れ」
差し出されたスマートフォンへ番号を登録する。
表示された『綺羅梓』の文字を見ただけで、掌に残っていた熱を思い出した。
「抑制剤は」
「服用済みです。パッチも今朝替えました」
「予備は」
「鞄の内側です」
「充電」
「百パーセント」
「帰りの経路」
「確認済みです」
「ならいい」
梓は予定表を閉じた。
そこまで細かく確認するなら、最初からチェック表を渡せばいいのにと思う。けれど、一つずつ自分の返事を待つ梓を見ていると、不思議と嫌ではなかった。
「水沢さんは、どうして僕を選んだと思いますか?」
「本人に聞け」
「研修では答えを考えろと言ったでしょう」
「考えたうえで、本人に聞け。勝手に決めつけるな」
「……はい」
「緊張してるのか」
見抜かれ、星愛は誤魔化すのをやめた。
「少し」
「失敗しないやつはいない」
「梓さんも?」
「最初から完璧だったと思うか?」
「思っていました」
「喧嘩を売ってるのか」
「褒めたつもりです」
「それなら、見る目がない」
梓は椅子から立ち上がり、星愛の前へ来た。
「全部うまくやろうとするな。何を話すか分からなくなったら、相手を見ろ」
「梓さんが何度も言っていたことですね」
「覚えてるなら使え」
「はい」
「時間だ。行ってこい」
背中を押されることはなかった。
選ぶのも、足を踏み出すのも自分だ。
「行ってきます」
◇
待ち合わせの十分前、時計台の下にはすでに一人の男性が立っていた。
紺色のシャツに、細身の黒いパンツ。何度もスマートフォンを確認し、近づく人がいるたびに顔を上げている。
「水沢さんですか?」
「はい。千影さん?」
「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。僕のほうが早く来すぎただけなので」
プロフィール写真どおりの人だった。
ただ、画面で見た印象よりも表情が硬い。星愛が一歩近づくと、水沢の指がスマートフォンを強く握った。
「緊張していますか?」
「すみません。こういうサービスは三回目なんですけど、初めての人と会うのは慣れなくて」
「僕も、今日が初めての接客です」
「そうなんですか?」
「はい。だから、二人でゆっくり慣れましょう」
水沢の肩から、わずかに力が抜けた。
「予約した店まで、十分ほど歩きます。隣を歩いてもいいですか?」
「もちろんです」
星愛は水沢の歩調に合わせ、駅前の通りを進んだ。
◇
昼食の席では、会話が何度も途切れた。
趣味を尋ねても「特にない」と返り、休日の過ごし方を聞いても「家にいます」で終わる。沈黙を埋めようとするほど、水沢の表情が硬くなっていった。
研修で梓を相手にしたときと同じだった。
質問を重ねれば、答えることが負担になる人もいる。
星愛は窓の外へ目を向けた。
「今日は天気がよくて安心しました」
「雨の予報でしたよね」
「はい。傘を持ってきたのに、使わずに済みそうです」
「僕も持ってきました」
「同じですね」
二人の足元には、使われない傘が一本ずつ置かれている。
それだけの話だった。けれど水沢は、初めて自分から窓の外を見た。
「このあと、公園ですよね」
「疲れていませんか?」
「大丈夫です。むしろ、少し歩きたいです」
「では、食べ終わったら行きましょう」
急いで次の話題を探さなくてもいい。
同じ料理を食べ、同じ景色を見る。沈黙が訪れても、そこから逃げなければいい。
店を出るころには、水沢からも少しずつ話題を出してくれるようになっていた。
◇
公園の木々は、やわらかな日差しを受けて揺れていた。
並んで歩いていると、前方から子どもたちが走ってくる。水沢が避けようとした拍子に、星愛の手へ指先が触れた。
「すみません」
水沢は慌てて手を引く。
「大丈夫です」
「手を繋ぐプランにしていたんですけど……お願いしてもいいですか?」
「はい」
答えたものの、水沢の手は伸びてこなかった。
握った指が、わずかに震えている。
「今も、繋ぎたいですか?」
「え?」
「予約したときと、今の気持ちは違っていても大丈夫です」
水沢は自分の手を見下ろした。
「正直に言うと、少し怖いです。恋人らしくしなきゃと思って申し込んだだけで」
「では、繋ぐのはやめましょう」
「でも、料金に入っているのに」
「使わなければいけない決まりではありません」
星愛は手を差し出さず、代わりに水沢の隣へ並び直した。
「このまま歩きませんか」
「……はい」
触れなくても、歩幅は揃えられる。
水沢はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「今日、僕の誕生日なんです」
「そうだったんですか」
「一人で過ごしたくなくて。でも、誰かと会っても何を話せばいいか分からないから、恋人役なら困らせないと思って」
「僕を選んだのは、プロフィールに静かな時間と書いていたからですか?」
「はい。黙っていても怒られない気がして」
星愛はようやく、指名された理由を知った。
派手な台詞も、完璧な笑顔も求められていなかった。ただ一人にならず、沈黙を責めない相手が必要だったのだ。
「水沢さん」
「はい」
「お誕生日、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「今日、一緒に過ごせてよかったです」
恋人らしい正解かどうかは分からない。
それでも、その言葉だけは演技ではなかった。
◇
接客を終えて事務所へ戻ると、直が入口まで迎えに来た。
「おかえり、星愛。どうだった?」
「緊張しました。でも、最後まで終えられました」
「お疲れさま」
梓は自分の机で報告書を確認していた。朝とは違う服を着ている。梓も接客を終えて戻ったばかりらしい。
「問題は」
「ありませんでした」
「接触は」
「手を繋ぐ予定でしたが、ご本人が怖いと感じていたのでやめました」
「そうか」
「勝手に変更して、よかったでしょうか」
「本人が望んでないなら、それでいい」
梓は報告書へ目を戻した。
「十点」
「それは指名を取ったときにいただきました」
「今日は接客の採点だ」
「別枠なんですね」
梓が睨んできたが、星愛は少しも怖くなかった。
管理画面に、新しい通知が届く。
「水沢さんから評価が来たよ」
直が内容を読み上げた。
「『無理に恋人らしくしなくても、一緒にいられる人でした。また千影さんへお願いしたいです』だって」
「よかった……」
安堵すると同時に、胸の奥へ喜びが広がった。
初めての接客で、初めて誰かから選ばれた。運命でも属性でもなく、自分が差し出した時間を、もう一度望んでもらえた。
「おめでとう、星愛」
「ありがとうございます、直先輩」
梓は何も言わなかった。
自分も今日、同じ言葉を何度も聞いたはずだった。
それなのに、星愛へ向けられた『また』だけが、胸から消えなかった。
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