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第8話 言い訳は鉢植えの移動
自分の部屋に戻り、デスクに向かってPCを開く。
さっきまでの会議の議録を確認し、次のタスクを整理しなければならない。
——が、驚くほど手がつかない。
キーボードを叩く音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
壁一枚隔てた向こう側からは遮音性の高い壁に阻まれて何も聞こえない。
不意に、バルコニーの窓が開く、重厚な金属音が聞こえた。
俺は無意識に立ち上がり、煙草とライターを手に取ってバルコニーへ出た。
吸うつもりなんてなかった煙草に火をつけ、薄い煙の向こう側に視線を向ける。
案の定、そこには薄手のカーディガンを羽織っただけの蓮水さんが、不自由な脚でしゃがみ込み、あの大きなライムの鉢植えをあの傷だらけの腕で抱えようとしていた。
「……蓮水さん?」
「あ……桐嶋さん。すみません、またお仕事の邪魔を」
「それ、俺が後で運びに行って良いですか? その脚と腕じゃ無理ですよ」
俺が苦笑混じりに声をかけると、蓮水さんは鉢植えを抱えようとしたまま、少し俯く。
「……思い立ったらなんだか、寒そうで……かわいそうに思えてきちゃって」
「……確かにライムは寒さには弱いですね」
わかってる。
そんな事が言いたいんじゃない。
「昨日、桐嶋さんが水をくれたから……」
「わかりました。今から行きます……窓、開けておいてください」
「あ、いや、お仕事の邪魔……」
「じゃあ、19時まで待てますか? 仕事が終わったら行きますから」
俺がそう告げると、蓮水さんは申し訳なさそうに、身を縮めた。
「あ、はい……もちろん、急ぎじゃないので。すみません、急にこんなこと……」
「いえ。その代わり、19時まではその鉢植えには触らないでください。約束ですよ」
念を押すように言うと、彼は「はい」と小さく頷いた。
バルコニーから部屋へと戻る彼の後ろ姿を見届けてから、俺も部屋に戻る。
仕事に戻らなければならない。
19時に、あの場所に堂々と踏み込むための免罪符を手に入れるために。
デスクに座り、再びPCに向き合う。
さっきまであんなに散漫だった集中力が、嘘みたいに研ぎ澄まされていた。
最短で、かつ完璧に。
残されたタスクを一つずつ、機械的に片付けていく。
午前中の会議の議事録を共有し、明日以降のスケジュールを確定させたところで、時計は18時50分になっていた。
玄関に届いていた宅配の小さな箱を手に取る。
中身は、昨日手配しておいた植物の栄養剤だ。
栄養剤の補充と鉢植えの避難。
完璧な口実を揃えて、俺は19時ちょうどに隣のインターホンを押した。
ぴ、と短い電子音がして、扉が僅かに開く。
「……あ、桐嶋さん……お疲れ様です」
ひょこ、と顔を出した蓮水さんの表情は、昼間の病院の時よりもいくらか柔らかい。
それと同時に、廊下の無機質な空気を塗り替えるように、部屋の奥からふわっと温かい匂いが流れてきた。
キッチンのシーリングライトは取り外されたままで薄暗い。
けれど、手元を照らす小さなライトが灯り、そこだけがぽっかりと暖かな避難所のように見えた。
昨日の、あの死を待つような冷え切った静寂は少し薄れているようだ。
……何か、作ろうと思えたんだな。
「お仕事、終わりましたか?」
「ええ、完璧に……約束通り、ライムを中に入れに来ました。あと、これ。栄養剤も届いたので」
俺は手に持った小さな箱を渡して、迷いなくバルコニーへと向かう。
「あ、すみません……」とひょこひょこと後を追ってくる蓮水さんの気配を感じながら、俺は冷たい夜気にさらされていた大きな鉢植えを、両腕でしっかりと抱え上げた。
それをリビングの陽当たりの良さそうな場所へ下ろすと、丸まっていた葉が、室内灯の微かな光を受けて安堵したように錯覚する。
「……ありがとうございます……やっぱり、こっちの方が……あったかいですよね」
鉢植えの横に座り込み、愛おしそうに葉を撫でる蓮水さんを見る。
小さく蹲る背中が頼りなくて、寂しそうで、手を伸ばしたくなった。
それを押し殺すようにぎゅ、と自分の手を握りしめる。
「これで大丈夫ですね……じゃあ、俺はこれで。また何かあったら遠慮なく」
そう言って玄関へ向かおうとした時、背後から躊躇いがちな声がした。
「あの、桐嶋さん……」
振り返ると、蓮水さんがキッチンの入り口で、自分の手を握りしめたまま俯いていた。
「昨日から、お世話に、なりっぱなしで……お礼、って言ったら変なんですけど。その……ご飯、作ったんで……食べていかれませんか……」
蓮水さんが恐ろしいほどに消え入りそうな声でそう言いながら俯いている。
スープを一口飲んだだけで泣きだしたあの人が。
食事を、作った。
「……いいんですか? 」
「あ、はい… あの……多めに作っちゃった、みたいで……食べて、もらえたら……」
そう言って顔を上げた蓮水さんの瞳と目が合う。
きっと自分のためじゃない。
その思考にたどり着いた時、俺は思わず口元を押さえた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……実は、ちょうど腹減ってたんです」
俺がそう言うと、蓮水さんは今日一番の本当に小さな安堵の息を吐いた。
「よかった……今、準備しますので、座っててください」
不自由な足取りでキッチンに立とうとする背中を見て、俺は居ても立ってもいられず椅子から立ち上がった。
「蓮水さん、危ないから。手伝わせてください」
「えっ、でも、お客様にそんな……」
「お客様、なんて大したもんじゃないですよ。お節介な隣人です」
そう言って笑うと、蓮水さんも弱々しく笑う。
食器の場所を聞きながら、皿を運び、茶碗を並べる。
不慣れなはずの他所の台所なのに、なぜかこの場所にしっくりと馴染んでいる自分に驚く。
だが、ふと振り返ると、指示を出していたはずの蓮水さんが口を噤んでいた。
「……蓮水さん?」
見ると、彼は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせていた。
「……あ、ごめ…な…さ」
掠れた声。
きっと、こうして二人でキッチンに立ち、騒がしく準備をする日常が、この部屋にはあった。
俺が動けば動くほど、かつての主がそこにいた記憶を、残酷なほどに鮮明に呼び起こしてしまったんだろう。
「ごめ、なさ……思い出し……」
溢れ出した涙が指の間からこぼれ落ちる。
その背中のあまりの小ささに、隣人としての一線を意識している余裕なんてなかった。
考えるより先に足が動く。
俺は蓮水さんの正面に回り込み、彼を抱き寄せた。
一瞬、蓮水さんの身体が強張る。
それでも、拒絶されることはなかった。
彼は行き場を失っていたその顔を俺の胸に埋め、声を上げて泣き始めた。
その涙が、俺のシャツをじわじわと濡らしていく。
誰にも頼れず、凍てつくような孤独の中で、一人でその巨大な喪失を抱え込んできた背中が、俺の腕の中で子供のように激しく波打っている。
この人にかける慰めの言葉なんて、俺には見つからない。
俺にはそこまで愛した人も居なければ、その喪失も知らない。
ただ、このまま本当に壊れて消えてしまいそうなこの魂を、自分が繋ぎ止めることができたら。
「大丈夫ですよ」とも「泣かないで」とも言えず、俺はただ、彼の嗚咽が静まるまで、その細い肩を壊さないように抱きしめ続けた。
「……すみません……また、俺……」
「いいんです……少し、落ち着きました?」
俺が腕の力を少しだけ緩めると、彼は離れるのが怖いと言わんばかりに、一度だけ俺のシャツをぎゅっと掴んだ。
それから、俺の胸に顔を埋めたまま、掠れた声でぽつりぽつりと溢し始めた。
「……事故……だったんです」
どくん、と心臓が跳ねた。
——事故。
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