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第9話 生存確認のインターホン

「三ヶ月、前……会社の飲み会があって……早く帰るって言ったのに、俺が、たまには行っておいでって……」 蓮水さんの声が、後悔の念で震える。 「……そしたら、帰りのタクシーが……俺が、あんなこと言わなければ。もっと早く帰ってきてって言ってれば……」 自分も、旦那さんも、タクシーの運転手だって、誰も悪意なんて持っていなかった。 ただの日常の延長線上にあった、ほんの少しの歯車の狂い。 なのにこの人はそのあまりにも巨大な不条理を、三ヶ月も自分のせいにして一人で背負い続けている。 「そうだったんですね……」 それしか、言えなかった。 「あなたのせいじゃない」なんて言葉が喉の奥まで出かかって、そのまま飲み込んだ。 そんな安っぽい慰めをぶつけたところで、この人が自分に科してきた罰を解くことなんてできない。 ——誰も悪くない。 送り出された旦那さんも、楽しんでおいでと言った蓮水さんも、その夜道を走っていたタクシーも。 誰も悪くないからこそ、行き場を失った怒りや悲しみは、すべて一番優しい人の内側へと向かって、鋭いナイフのように突き刺さっている。 ダイニングテーブルの上では、蓮水さんが不自由な体で一生懸命に準備した食事が、静かに熱を失っていく。 今は、この温かい匂いも、せっかく炊き上がった米の香りも、あまりに痛い。 それでも、俺は腕を離せなかった。 ここで離してしまったら、彼はまたあの冷え切った冬の夜に、一人で帰ってしまうような気がしたから。 「……ごはん、落ち着いたら、温め直しましょうね」 耳元で、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。 「全部、俺が温めますから」 俺の胸元で、蓮水さんが小さく、本当に小さく頷いた。 二人ともしばらく動けなかった。 どれくらいの時間が経ったのか分からない位の静かな時間が流れて、蓮水さんがふ、と小さく息を吐いた。 「ありがとうございます。ちょっとだけ、すっきりしました……」 弱々しくそう告げて、蓮水さんはようやく俺の胸から顔を上げた。 俺もそれに合わせるように、抱きしめていた腕を緩める。 「それなら良かった。ごはん、食べましょうか。お腹すきましたね」 温め直した食事は、驚くほど優しい味がした。 特別な高級食材が使われているわけじゃないだろうけど、彼がこれまで積み重ねてきた丁寧な生活の跡が滲んでいる。 咀嚼するたびに、この部屋に確かに存在していた幸福の残像を見せられているようで、胸の奥がじんわりと熱くなる。 「……美味しかったです。手料理なんて、ほんと、久しぶりで」 最後の一口を飲み込み、俺は心からの言葉を口にした。 外食やデリバリーで済ませる俺の食事には、こんな風に喉を通り抜けた後に体温が上がるような感覚はない。 「……そっか…良かった、です」 蓮水さんは、空になった俺の茶碗を見て、安心したように眉を下げて弱々しく笑う。 自分のために何かをする気力はなくても、誰かのため、という役割があれば、この人はかろうじてこちらの世界に踏み止まれるのかもしれない、ふとそう思った。 「コーヒー、飲まれますか?」 「あ、俺がやります。その体じゃ大変ですから」 「でも」 「大丈夫。それくらいやらせてください」 さっきまであんなに泣いていたのに、今の彼は驚くほど静かで、柔らかな空気を纏っている。 誰にも吐き出せなかった懺悔を、少しは俺が受け止められたと勘違いしてもいいだろうか。 「どうぞ。……ブラックで良かったですか?」 「はい。ありがとうございます」 一口啜ると、苦味の奥にほんのりと甘い香りがした。 「……落ち着きますね」 俺がそう言うと、蓮水さんは自分のカップを両手で包み込むようにして、部屋の隅へ視線を向けた。 そこには、俺がリビングへと運び入れたライムの木が、室内の光を受けて静かに佇んでいる。 「……桐嶋さん……本当に、今まで、色々、ありがとうございました」 「今までありがとうございました」という言葉が、まるで人生の幕を下ろす最後の一言のように聞こえて、心臓が冷たく跳ねる。 これだけ尽くして、部屋を明るくして、ライムを凍える夜から救い出したのに。 この人はまだ、あの白い箱がある場所へ、自分も引きずり込まれようとしているんじゃないか。 そんな嫌な予感がして、俺は手にしたマグカップを少しだけ強く握りしめた。 「……蓮水さん」 不意に名前を呼ばれて、細い肩がぴくん、と跳ねた。 「お礼を言われるのは構いませんけど、そんな、今夜で最後みたいな顔しないでください」 蓮水さんは、弾かれたように顔を上げた。 「あ……すみません。そんなつもりじゃ……」 「なら良かった」 少しだけ安堵して、コーヒーを一口飲み下す。 けれど、目の前で揺れる淡い色の髪の奥にある瞳は、まだどこか遠い。 俺が差し出した生のきっかけを、彼はただ申し訳なさそうに受け取っているだけだ。 このまま「おやすみなさい」と言ってドアを閉めたら、この人はまた、あの白い箱の前で透明な存在になってしまうんじゃないか。 そんな焦燥感が、俺を突き動かす。 「ねぇ、蓮水さん」 俺はコーヒーカップをテーブルに置いて、居住まいを正した。 「……俺、あなたが心配です」 直球すぎる言葉に、蓮水さんは呼吸を止めたように硬直した。 「……え」 「昨日までのあなたは、死ぬのを待っているみたいだったから……そんな人を放っておけるほど、俺の心臓、強くないんですよね」 仕事人間だと思っていた自分の中に、こんなにも泥臭い感情があったのかと、自分自身でも驚く。 けれど、今の俺を突き動かしているのは、キャリアでも論理でもない。 ただ、目の前のこの人の明日を約束させたいという身勝手。 「だから、約束してください」 「……約束……?」 「明日も、仕事が終わったらインターホンを鳴らしに来ます。ドア越しに生存確認だけはさせてください」 「……桐嶋さんって、意外とお節介なんですね……」 蓮水さんは、困ったように、けれど本当に微かに、花が綻ぶような笑みを浮かべた。 その笑顔があまりに儚くて、今すぐ指ですくわなければ、そのまま消えてなくなってしまいそうな気がして。 「……言ってたでしょ。お節介だって。まぁ、俺がこんなに他人の家のドアを叩きたがる人間だったのは意外です」 俺はあえておどけて、重苦しくなりそうな空気を軽口で払う。 絶望の底にいる人間には、同情なんて重荷でしかない。 多分、これくらい過剰なお節介で、相手の日常を侵食してしまうくらいがちょうどいい。 いつか見たモノクロの喜劇映画みたいだ。 「じゃあ、明日。また、来ますから」 「……はい」 その返事を聞いて、俺はようやくマグカップを置いた。 玄関へ向かう俺の背後を、松葉杖のコツ、コツという頼りない音が追ってくる。 ドアを開け、外廊下の冷たい空気が流れ込んできた。 振り返ると、蓮水さんはドアの隙間から、不安げにこちらを見つめていた。 「……おやすみなさい、桐嶋さん」 「おやすみなさい、蓮水さん……ちゃんと、寝てくださいね」 ぴ、と鍵が閉まる音。 自分の部屋のドアを開け、一歩踏み込んだ瞬間、そこにあるのは雑然とした、独身男性らしい俺の城だ。 片付けるのは得意じゃ無いし、料理もできない。 洗濯は辛うじてできているけど、仕事以外にはどうもだらしない。 俺はネクタイを緩め、バルコニーの窓へ歩み寄った。 サッシを開けると、冬の夜気が容赦なく肌を刺す。 煙草に火を点ける。 紫煙が夜の闇に溶け、ゆっくりと、晴海ふ頭の暗い水面へと溶けていくみたいだ。 対岸には、宝石をぶち撒けたような東京の夜景。 規則的にまたたくオレンジの光が、網膜に焼き付くみたいにきらきらしている。 「……ふぅ……」 肺を温める煙と共に、自嘲気味な溜息が漏れる。 ただのお節介だ。 そう、ただのお節介で、こんなに他人の人生に深く介入しようと思ってしまったのは、人生で初めてだ。

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