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第10話 今までありがとうございました

「……はい、生きてますよ。桐嶋さん」 インターホンを鳴らして数秒後、インターホン越しに聞こえる蓮水さんの声。 その声に日に日に張りが出てきたのを確認して、俺は小さく息を吐く。 「ならいいです。今日はこれ、駅前で見つけた美味そうな惣菜。一人じゃ多いんで、半分食べてください」 「……いつもすみません。ちょうど、お味噌汁作ったので、桐嶋さんもいかがですか?」 そんなやり取りが、二週間、一ヶ月と続いた。 俺はいつの間にか、タワーマンションの無機質な廊下を歩く自分の足音が、少しずつ軽くなっていくことに気づく。 蓮水さんは、俺に心を許してくれているのだろうか。 それとも、俺というお節介な隣人を、亡くなった旦那さんの面影を追わないための拠り所にしてくれているだろうか。 それでも構わなかった。 彼が包丁を握り、出汁の匂いをさせ、明日も俺がインターホンを鳴らすのを待っていてくれたら。 それだけで、俺の合理主義は十分に粉砕されていた。 このまま、穏やかにあの人の傷が癒えていけばいい。 けれど、現実はそれほど甘くなくて。 ドアが開くたび、俺の視線は無意識に彼の左腕へと向かう。 あの夜、飛散したガラスが深く突き刺さった箇所には、まだ痛々しい保護テープが貼られたままだ。時折、彼が腕を動かすたびに僅かに眉を顰めるのを見て、俺の胸はちくん、と焼けるような感覚に陥る。 脚のギプスもまだ外れない。 ギプスで歩く事には随分慣れたようだが、それでも狭いキッチンで片脚立ちになり、重心を預けながら鍋を火にかける彼の姿は、危なっかしい。 病院の定期検診へ向かうタクシーの手配は、俺のルーティンになった。 「無理しないでって言ってるのに」 「……すみません。でも、こうして動いてないと、余計なことばかり考えちゃうから」 キッチンに立つ彼の背中には、まだ消えない悲しみの輪郭が張り付いている。 リハビリを兼ねて少しずつ歩く練習を始めた彼は、一歩踏み出すたびに、まるで見えない重りを引きずっているかのように慎重で、ひどく脆い。 リビングの特等席に置かれたライムの木は日に日に元気を取り戻し、緑の葉を広げている。 あの日、バルコニーの隅で蹲っていた枯れ木はこんなに生きようとしているのに。 俺が注ぎ続けた水と、再び灯るようになった光を吸い込んで、その枝先には新しい命の芽吹きさえ感じられた。 癒えていく傷と、癒えない傷。 その両方を、俺はただ隣で見守ることしかできない。 俺は蓮水さんの部屋のダイニングチェアに腰掛け、彼が差し出してくれた味噌汁を啜る。 湯気の向こう側で、少しだけ頬の削げた彼が、俺の美味しいという言葉で弱々しくも笑ってくれる。 その歪な依存関係を、俺は隣人の親切というラベルで必死に偽り続けていた。 季節が巡るのは、俺の焦燥を置き去りにするほど早かった。 あの事故があった冬を超えた春先、蓮水さんの脚からギプスが外れる日が来た。 「……桐嶋さん、見てください。やっと普通に歩けます」 リハビリを終えた蓮水さんが、玄関でしっかりと両足で立って見せた。 松葉杖のない彼の身体は、俺が思っていたよりもずっと細く、頼りない。 「……おめでとうございます。長かったですね」 俺は精一杯の祝辞を口にする。 けれど、視界の端、リビングの奥に置かれたままのあの白い骨箱が目に入り、胸の奥が冷たく凪いだ。 身体の傷は癒え、生活の光は戻った。 けれど、あの箱の中にある時間は、蓮水さんの心は、きっと一秒たりとも動いてはいない。 「本当に、桐嶋さんのおかげです……毎日、あんなお節介まで焼かせてしまって……でも、もう大丈夫ですから」 もう大丈夫。 その言葉が、俺たちの間に引かれた境界線を再び鮮明に描き出す。 お節介な隣人と、不幸な未亡人。 その歪なパズルのピースが、彼の回復と共に、本来のただの他人という形に戻ろうとしていた。 「……そうですか。それは、良かった」 俺は、自分の声が不自然なほど乾いているのに気づく。 彼は、俺をもう必要としていない。 俺がインターホンを鳴らす理由も、彼が俺のために味噌汁を作る理由も、完治という言葉で、すべて消えてしまう。 「……じゃあ、俺の役目も終わりですね」 冗談めかして言ったつもりだったが、蓮水さんの表情が一瞬、硬くなった気がした。 けれど彼はすぐに、穏やかで、それでいてどこか遠い微笑みを浮かべて頭を下げた。 「……はい……本当に、今まで、ありがとうございました」 完成された、完璧な拒絶。 感謝の言葉が、これほどまでに残酷な別れの合図に聞こえるなんて知らなかった。 「もし、また、何か困った事があれば連絡ください」 「はい、ありがとうございます」 社交辞令でしかない台詞を告げて、いつも通りみたいに別れて。 自分の部屋に戻り、一人でバルコニーに出た。 いつものように煙草に火を点ける。 晴海ふ頭の夜景は相変わらず煌びやかで、どこまでも無関心だ。 ——これでいいんだ。 そう自分に言い聞かせても、肺に落ちる煙はいつになく苦い。 隣の窓からは、今日も温かなオレンジ色の光が漏れている。 けれど、もう俺がその光の一部になることはない。

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