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第11話 正しい絶望の中
ぱたん、とドアが閉まる音が響く。
その瞬間、あんなに隅々まで新しく照らし出されたはずの部屋が、急に色を失ったように暗く、冷たく感じられた。
俺は、もう必要のなくなった松葉杖の代わりに、まだ少しぎこちない足取りでリビングの奥へ向かう。
あの白い骨箱の前に座り込むと、止まっていた時間がゆっくりと俺を包み込んでいく。
「……桐嶋さん、帰ったよ」
骨箱に指先で触れながら、いつものように語りかける。
事故に遭ってから今日まで、毎日欠かさず続けてきた君との会話の時間。
けれど、いつからだろう。
君に話しかける内容のほとんどが、隣に住むお節介な男のことばかりになってしまったのは。
今日はこんな惣菜を持ってきてくれたよ。
今日は作ったお味噌汁を、美味しいって二杯も飲んでくれた。
桐嶋さん、休日はピアスをつけてるんだよ。
「……ごめんね。君の話じゃなくて、桐嶋さんのことばかりで」
声が、自分でも驚くほど小さく震える。
桐嶋さんがこの部屋に持ち込む強引な生の匂いに、いつの間にか救われ、そして頼っていた。
彼がインターホンを鳴らす音で、自分がまだこの世界に繋ぎ止められていることを実感してしまっていた。
だから、言わないといけなかった。
これ以上、彼の温かさに甘えていたら、俺は君のことを、君と一緒に死にたかったあの夜のことを、本当に忘れてしまいそうだったから。
「もう大丈夫です」って、嘘を吐いた。
本当は一歩歩くたびに、隣に君がいない恐怖で足が竦むのに。
本当は明日からの19時が、永遠に続く静寂に思えて怖いのに。
ねぇ、俺、正しくできているかな。
君の妻として、ちゃんと一人で絶望の中に居られているかな。
……桐嶋さん。
もう鳴ることのないインターホンを振り返り、膝を抱えて顔を伏せた。
明るいシーリングライトの下で、俺は自分が、あの事故の夜よりもずっと深い闇の中に放り出されたような錯覚に陥っていた。
「……今日も、一緒に寝てくれる?」
骨箱をそっと抱き上げると、そのまま這うようにしてすぐ横のソファへ移動した。
君と眠っていた寝室の広いベッドに一人で横たわる勇気なんて、今の自分にはない。
“理玖は甘えん坊だね”ってベッドの中で眠りにつくまで撫でてくれた大きな手はこの白い箱に閉じ込められてしまった。
“ただいま”って玄関から帰って来て抱きしめてくれたあの笑顔は、遺影の中にしかなくなってしまった。
“いつかライムの実がなったら、理玖がライムのパイを作ってね”と楽しみにしていた時間は、あの日から止まってしまった。
クッションの間に骨箱を安定させ、その冷たい箱に額を寄せる。
こうしていれば、あの人の体温が少しでも戻ってくるのではないかという淡い期待を抱きながら。
「おやすみ……明日からは、ちゃんと一人で頑張るから……だから、怒らないでね。桐嶋さんのこと、少しだけ、頼りにしたの」
目を閉じると、暗闇の中に桐嶋さんのあの落ち着いた声が蘇る。
「ちゃんと寝てくださいね」と言った、あの少しだけ無理をしたような、温かな響き。
それを振り払うように、俺はさらに深く、骨箱を抱きしめる腕に力を込めた。
シーリングライトのスイッチは切らないままだった。
眩しいほどの光の中にいなければ、自分という存在がこのまま夜の闇に溶けて消えてしまいそうだったから。
……結局、その夜は久しぶりに、一睡もできなかった。
微かに漂う、自分の部屋のものではない煙草の匂い。
桐嶋さんが座っていた椅子。彼が置いていった空のマグカップ。
部屋をどれだけ明るくしても、彼が残していった生の痕跡が、胸をざわつかせ続ける。
——「もう大丈夫」なんて、言わなければよかった。
一度知ってしまった慰めという温もりを、どうやって忘れればいいのか分からない。
朝日が晴海ふ頭の海面を白く照らし始めるまで、俺はただ、動かない骨箱の隣で、止まった時間を抱きしめ続けていた。
春先の、冷たい床に転がったまま、動けなかった。
19時。
部屋の時計がその数字を刻んだ瞬間、俺は無意識に息を止めていた。
——鳴らない。
当たり前だ。俺が、もう来なくていいと、大丈夫だと、突き放したのだから。
骨箱を抱きしめていれば安心できたはずなのに、今の俺は、ドアの向こう側の気配を探すことに全神経を注いでしまっている。
本当に、一回言っただけで来なくなるなんて。
俺は縋り付くように骨箱を見つめた。
「ねぇ、俺、どうしたらいいの」
骨箱は答えない。
ただ、冷たいだけだ。
その時、バルコニーの扉が開く微かな音がした。
カーテンを少しだけ開けると、隣のバルコニーに人影があった。
闇の中で、小さなオレンジ色の火が灯る。
彼が呼吸をする度に、ふわ、ふわ、と蛍みたいに光る、煙草の火。
桐嶋さんが、煙草を吸っている。
俺は、夫を裏切ろうとしているのだろうか。
それとも、自分を救おうとしているのだろうか。
結局何もできずに、また骨箱を抱きしめて床に寝転がる。
「……このまま、ずっとここで朽ちるまで、君と一緒にいようか」
骨箱のサテンの冷たさが、泣いて火照った頬に心地いい。
外の世界なんて見なければいい。
インターホンの音も、煙草の匂いも、全部忘れてしまえば、またあの暗闇の中で君と二人きりになれる時間が戻ってくるはず。
けれど、薄いカーテンの隙間から漏れ聞こえる、隣のバルコニーの僅かな気配が、頭から離れない。
ライターを擦る音。深く吐き出される、呼吸の音。
……そこに、生きている音がする。
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