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第12話 季節外れのタルト
バルコニーの手すりを握りしめ、まだ肌寒い春先の夜気の中で煙草を吸い終える。
隣の窓からは、相変わらず眩しい光が漏れている。
……けれど、その光の中にいる男が、今にも消えてしまいそうなほど頼りないことを、俺の直感が告げていた。
勝手なのは分かってる。
傲慢なのも分かってる。
仕事のデスクの上に置かれた、有名店の紙袋。仕事帰りに、無意識に買っていた『季節外れのフルーツのタルト』。
「もう大丈夫」と言われたのに。
もう、生存確認のインターホンなんて必要ないはずなのに。
認めよう。
俺の合理性は完全に死んだ。
煙草を灰皿に押し付けた。
ピンポーン——。
一晩も空けていないのに、その音は驚くほど静かな廊下に響き渡った。
返事はない。けれど、中に気配はある。
俺はインターホン越しではなく、ドアに向かって声をかけた。
手には無意識に買ったタルトの紙袋。
「……蓮水さん?ちゃんと生きてますか?」
それはいつもの合言葉。
沈黙。
数秒、あるいは数分に感じられた時間の後、内側からぱた、ぱた、とゆっくりした足音が聞こえた。
鍵が外れる、電子音。
ゆっくりと開いたドアの隙間から、床に座り込んでいたのか、乱れた髪のまま見上げてくる蓮水さんの姿があった。
その腕には、あの白い骨箱が抱かれている。
「……桐嶋、さん……」
その声を聞いた瞬間、その姿を見た瞬間、俺の理性は消え失せた。
何も言わずに、玄関の中に踏み込む。
ドアを閉めると同時に、震える彼の身体を骨箱ごと強く抱きしめる。
「な……して、っ、もう大丈夫、だって、言っ、……っ」
「嘘つき」
蓮水さんの片方の手が、迷うように俺の背中に回された。
そして、堰を切ったように、彼は俺の肩に顔を埋めて泣き始めた。
骨箱を抱えたまま、剥き出しの感情で俺に縋りつく。
その重みが、彼が今まで一人で耐えてきた絶望の重さだ。
ずるずると床に座り込む蓮水さんと一緒に、床にしゃがみ込んだ。
酷い嗚咽の中から、蓮水さんが必死に声を絞り出す。
「……っ、こわく、て……これか……ら……ずっと、なのに……裏切っちゃ……いけ、ない……のに」
俺の肩を濡らす、熱くて激しい涙。
抱きしめた腕の中に伝わる、蓮水さんの震え。
その腕にはまだ、亡くなった男の重みがしっかりと抱えられている。
……そりゃそうだよな。
愛する人を亡くして、半年近く。
傷も癒えないうちに、土足で踏み込んできた隣人の温もりを心地いいと思ってしまう自分を、この人はどれほど軽蔑して、どれほど責めてきたんだろう。
自分がした事が、蓮水さんを苦しめていた事に、今更気付く。
「……ごめん」
気づけば、俺の声も掠れていた。
視界が滲んで、鼻の奥がツンと痛い。
「……ごめん、蓮水さん。俺が、強引すぎた……でも、放っておけなかった」
俺は、自分でも驚くほど子供のように、涙を溢れさせながら彼を抱きしめた。
床には、買ってきたばかりの華やかなフルーツタルトの袋が、無残に転がっている。
生を象徴する鮮やかな果物と、彼が抱える死を象徴する白い骨箱。
そのあまりに歪な光景の中で、俺たちは二人で泣いた。
エリート社員も、未亡人も、そこにはいない。
ただ、夜の静寂に耐えかねた二人の人間が、互いの存在を確かめ合っているだけだ。
「……泣かないで、桐嶋さん……」
蓮水さんが、震える指先で俺の頬を伝う涙を拭う。
自分の絶望で精一杯のはずなのに、彼のどうしようもない根底にある優しさが胸に突き刺さる。
「……泣かせてるのは、誰」
俺は、彼の指先を自分の手で包み込んだ。
涙で濡れた視界の先、彼と目が合う。
絶望と、安堵と、かすかな熱が混じった、言葉にできない色。
「……ごめんね」
呟くと、俺はそのままゆっくり彼の唇に指先で触れた。
蓮水さんが小さく肩を震わせて、静かに目を閉じる。
それから怯えるみたいに俺のシャツをぎゅう、と掴んだ。
ゆっくりその乾いた唇に、唇で触れた。
それは救いなんて綺麗なものじゃない。
彼が抱える過去の重みも、罪悪感も、全部一緒に背負って溺れたいという、俺の身勝手な誓いだ。
——涙の味がする。
それと、二人の身体の間に割り込むようにして存在する、あの骨箱の、硬くて冷たくて、どうしようもなく無機質な感触。
旦那さんをその腕に抱いたまま、別の男である俺と抱き合い、キスをすることがどれほど蓮水さんにとって恐ろしい事か。
その罪悪感に震える彼の肩が、自分は最低な人間だと叫んでいるのが痛いほど伝わってきた。
絶望に身を任せて一人で朽ちていくことを選ぼうとしていた彼が、キスの直前に目を閉じた理由。
俺がこの数ヶ月、彼に干渉し、生きたいと思ってくれた彼の心の変化だと、思っていいだろうか。
自分が彼にしてきた事への、そして彼への、言葉にできない感情が、溢れて止められない。
罪悪感なんて、消えなくていい。
亡くなった人への申し訳なさに、一生苛まれればいい。
その地獄を、俺が全部一緒に背負うから。
「……きりしま、さん……」
唇が離れた瞬間、蓮水さんが掠れた声で俺の名を呼んだ。
それは助けを求める声なんかじゃない。
自分を現世に繋ぎ止め、共犯者に仕立て上げた俺を、二度と逃さないためのお呪いだ。
「大丈夫。ごめんね。全部、俺が悪い」
「ちが……ごめんな、さい……俺が、中途、半端で……」
しばらく二人でしゃがみ込んで泣いている間、骨箱はずっとそこで二人を見守っている。
ようやく二人分の鼻をすする音が止んで、俺は蓮水さんを解放する。
「……ケーキ、買ってきたんです。もう来なくて良いって、言われたのに」
そう言うと、蓮水さんは涙目のまま俺を見上げて小さくふふ、と笑った。
転がった紙袋を拾い上げ、ほんの少しだけ使い慣れたキッチンへ向かう。
まだ震える手で豆を挽いて、コーヒーを淹れる。
どうせ今日一日、彼はろくに何も食べていないはずだ。
テーブルに、向かい合って座る。
箱を開けると、中には春先には似つかわしくない、名前通りの『季節外れのフルーツタルト』が二つ。
艶やかなシャインマスカット。
薄く扇状に並べられた洋梨。
小さく切られた無花果と、宝石みたいなザクロ。
本来なら同じ季節に並ぶはずのない果実たちが、白いクリームの上で肩を寄せ合っていた。
落とした衝撃で、鮮やかな果実は少しだけ崩れ、タルトの端には亀裂が入っていた。
「……少し、崩れちゃいましたね」
蓮水さんが、赤く腫らした目のまま、小さく声を漏らす。
俺は、苦いコーヒーを一口飲み、その不恰好で歪なケーキを見つめた。
「最高に俺たちらしいと思いますよ」
俺がそう言うと、蓮水さんは一瞬驚いたように目を見開き、それから今日初めて、心細そうに笑った。
「……そうですね……本当に」
蓮水さんの隣には、相変わらずあの白い骨箱が置かれたままだ。
けれど、コーヒーの香りと、バターの香ばしさ、季節から外れた歪な組み合わせの果物。
それらが混ざり合うこの空間は、穏やかで、歪で、愛おしい。
ぐちゃぐちゃな感情も、消えない罪悪感も、全部この崩れたタルトみたいに全部まとめて飲み込んでしまえば良い。
「……美味しいですね。桐嶋さん」
「……そう。なら良かった」
夜景の見えるタワマンの一室。
煌々としたシーリングライトの下で、俺たちは、崩れたケーキを分かち合いながら、地獄のような幸福な夜を静かに過ごした。
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