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第13話 最低な二人

ふと目が覚めると、視界には見慣れたはずの天井。 間取りも、壁紙の色も、照明の位置さえ俺の部屋と全く同じなのに網膜に映る景色は、これまでの人生で一度も見たことがないほど鮮烈で、どこか非現実的なものに感じられた。 そうだ、あのまま、リビングのソファで慰め合うみたいに抱きしめ合って、二人して眠ったんだ。 (……仕事……っ) 跳ね起きようとした俺の思考を、カレンダーが引き止めた。 ——土曜日。 安堵と共に深く息を吐き出し、俺は自分の腕の中に視線を落とした。 そこには、俺のシャツを掴んだまま眠りに落ちている蓮水さんがいた。 朝日が、重いカーテンの隙間から漏れている。 その光に透ける彼は、あまりにも静かで、まるで死んでいるみたいだ。 部屋の隅のライムはわずかな朝日を受けて、精一杯の呼吸をしている。 目の前の柔らかそうな毛先。 けれど、その根元の方は随分黒い地毛が覗いている。 ああ、きっと。 あの時から、彼は美容院へ行く余裕なんて一秒もなかったんだ。 俺は、今まで一度も触れることができなかったその髪に、初めて指を伸ばした。 指先に伝わる、驚くほど柔らかい質感。 ……生きてる。 髪の根元の黒い部分は、彼がこの時間を、泥を這うようにして生きてきた証拠のようにも見えた。 愛おしさが、喉の奥まで込み上げてくる。 「……蓮水さん」 小さな声でその名を呼んでみる。 彼は微かに眉を動かし、俺の胸にさらに深く顔を埋めた。 その無防備な仕草に、俺はもう一度、彼の髪を撫でる。 それが例え亡き旦那さんの幻影を追っているものだとしても、彼が安心できているならそれでいい。 蓮水さんの隣には、朝日に照らされた白い骨箱が、昨日と変わらずそこにある。 しばらくぼうっとそれを眺めていると腕の中の体温が微かに動いた。 蓮水さんがゆっくりと瞼を持ち上げ、俺と目が合う。 「……あ……え」 一瞬の空白の後、彼は弾かれたように上体を起こした。 「すみません……っ、俺、いつ寝たんだろう……だらしないな、本当に……」 気まずそうに視線を泳がせ、ぐしゃぐしゃになった髪を抑えながらしょぼんとする姿は、昨夜の悲痛な叫びが嘘のように日常の顔をしていた。 けれど、その瞳の奥には、すぐにいつもの、あの鋭い自責の念が浮かび上がる。 最愛の人を亡くして、まだ半年。 死ぬことばかり考えていたのに、自分は今別の男の体温に包まれて朝を迎えてしまった。 その事実が、彼の心を裏切りという冷たい刃で刺しているのが分かる。 「ちゃんと眠れたみたいで、良かったです」 俺はあえて、その自責には触れずに穏やかに言った。 「……すみません……最低だな……俺」 蓮水さんは、隣にある白い骨箱に一度視線を向け、それから苦しそうに顔を伏せた。 昨夜のキスも、腕の中の温もりも。 これから彼が生きていく上で、何かを美味しいと感じることも、誰かと笑い合うことも、そのすべてに彼は申し訳ないと自分を責め続ける宿命がのしかかっている。 「……いいんじゃないですか。最低で」 俺の言葉に、彼が驚いたように顔を上げる。 「これから先、何をしたって、蓮水さんは自分を責めるんでしょう? 旦那さんを裏切ったとか、自分だけ生きてて恥ずかしいとか。それは誰がどう否定しても、蓮水さんの中にある感情だから拭えない」 俺はソファから立ち上がり、カーテンを大きく開けた。 眩しい光が、部屋の隅のライムを、そして白い骨箱を容赦なく照らし出す。 「全部抱えたままでいいと思います。蓮水さんが最低だって泣くたびに、隣で俺がそれでいいって言いますから」 それは、あまりに身勝手で、あまりに重い生の肯定だ。 蓮水さんは、呆然と俺を見つめた後、また少しだけ瞳を潤ませて、俺を見つめ返した。 「……桐嶋さん……なんか、ずるいですね」 「それで蓮水さんの心が少しでも軽くなるなら、いくらでも」 俺は小さく蹲っている彼の隣に座り直し、その細い肩をそっと抱き寄せた。 耳元で、彼を急かさないように言葉を紡ぐ。 「今じゃなくていい。すぐじゃなくていいから。……蓮水さんの気持ちが少し落ち着いたら、納骨に行きませんか」 抱きしめた身体が、一瞬だけびくりと強張る。 部屋の中にある白い箱を、彼はまだ離せずにいる。 「彼も、いつまでもリビングの隅じゃなくて……いるべき場所に、居させてあげませんか」 死者を追い出すためじゃない。 彼が彼として、安らかに眠れる場所へ。そして蓮水さんが、彼を箱としてではなく記憶として愛せるようになるために。 沈黙が部屋を支配した。 朝日の中で、埃の粒がキラキラと舞っている。 長い、長い沈黙の後、蓮水さんが小さな声で応えた。 「……そうですね」 その同意は、諦めよりも、どこか深い安堵を含んでいるように聞こえた。 俺は彼のこめかみをそっと撫でて、付け加える。 「ただの隣人ですけど……俺も、ついていっても良いですか」 その言葉に、蓮水さんはふっと、泣き笑いのような顔をして俺を見上げた。 「……ただの隣人が、こんなに一緒に泣いてくれて、髪まで触るんですか?」 「……お節介な性格なもんで」 俺がはぐらかすと、彼は今度こそ、深く、深く俺の胸に顔を埋めた。 「……お願いします……一緒に、来てください」 その言葉を聞いた瞬間、俺はこの部屋に置かれたライムの木が、いつか実をつけるところを想像していた。 誰に祝福されるわけでもなく、それでも季節が来れば花を咲かせ、実をつける。 そう話してからは、俺と蓮水さんが一緒に過ごす静かな時間が流れた。 俺の生活圏は、職場と、玄関を出て右に数歩、という極めて狭い範囲に固定された。 仕事が終われば、自分の部屋の鍵を開ける前に、まずは隣のインターホンを鳴らす。それが俺にとっての帰宅になっていた。 「ただいま、蓮水さん」 「おかえりなさい、桐嶋さん……今日も、早いですね」 少し時間が経った初夏、バルコニーに移動したライムは白い小さな花を咲かせた。 時折、蓮水さんは過去に引きずられるような暗い眼差しを向ける夜もあったけど、そのたびに俺が強引に飯を食わせ、外に連れ出し、温もりを押し付け、現世へと繋ぎ止めてきた。

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