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第18話
ノイズシュタイン邸の自室で、ティルはリュートを待っていた。
図書館で騒いでしまったのもあり、何となく居心地が悪くなった二人は、揃って外に出た。自転車を駐輪場に取りに行って、リュートと少し街路樹の歩道を歩いたが、リュートは意気消沈が続いていた。それはそうだ。自分の心の中に仕舞っていた見たくない過去を、暴かれたのだから。
(……元気づけたい)
そこでティルが思いついたのが、今晩の花火大会に一緒に行くことだった。
そして今――ノイズシュタイン邸で浴衣に着替えているのを待っているということになる。ティルはとうに着せられた。チャコールグレーの綿絽の着物。ノイズシュタインの商会で取り扱っている一級品だ。
花火大会に誘ったとき、リュートはかなり戸惑っていた。そんな気分じゃないというのが本音だったのだろう。だが、そこを無理に押し切った。浴衣を着るのも躊躇していたのだが、使用人が盛り立ててくれて、着替えに行った。
(思い出作るのも悪くない……それに、少し前を向けるようにしておかねぇと)
今日の一件で、リュートの心のガラスのような表面はすっかり見えなくなってしまった。元々、リュート自身の精神力で根を抑えつつ、主神の保護膜が根の定着を妨害、ティルの言葉で侵食を抑えるというつもりだったのだが、リュート自身の心が落ち切っている今、押し留める力は強くない。
もう、猶予はない。
それにしても、何故リュートが神を降ろせる稀有な体質だったのだろうか。そんなクソみたいな体質がなければ、今だって普通に暮らせたはずなのに。
家族が大好きで、猫のことも大好きで、何でもできるのにちょっと抜けた、そんな奴。
幸せになって欲しい。その幸せの中に俺がいなくても、お前だけは幸せに笑っていて欲しい。そう願うことすらも、今の状況では難しい。
こんこん、と控えめなノックの音。リュートの着付けが終わったのだろうか。
「おう、入っていいぞ」
ティルが答えると、そっと扉が開いて、ちょこんと頭だけ覗かせたリュートがいた。
「……何してんだ?」
「……恥ずかしくて」
「浴衣着たことが?」
「着慣れてないし……似合わないと思うから」
そんなことございませんよ!と使用人数人の声がした。というかリュートが着て似合わない服なんてないだろうと真面目に思う。
ティルは座っていたソファから立ち上がって、扉に向かう。それを見たリュートが扉を引いて閉めようとしたので、手で引っ掴んで止めた。
「ティル……」
「いいから見せろって」
ひょい、と扉を開ける。
「……」
絶句した。夏の女神か?とどこか沸いた頭で考える。
淡いラベンダー色の綿絽。同系色の帯。白い肌が綺麗に映えて、その首筋に幾重にも印を押し込みたい気持ちになる。
「どうです坊ちゃん。アルトフェルト様、お美しくていらっしゃるでしょう?」
着付けを手伝った使用人がどこか誇らしげに言う。いや全くそのとおりだ。こんな美しい生き物、存在したら駄目なんじゃないかと思う。
「大袈裟ですよ……」
リュートが小さく言う。ふと彼の耳朶を見ると、橙色の宝石の小さいイヤリングをしている。おい。
「誰だ、リュートの耳にイヤリングつけたの」
「お嫌でしたか?」
「ボーナス弾むから後で名乗り出ろ」
使用人たちがわあわあと騒ぎだしたのを横目で見つつ、リュートの手を優しく引いて、扉を閉める。
夜の色に染まり始めた空から、淡い光が差し込む。薄い光でぼんやりとした室内で、ティルはリュートの頬にそっとキスを落とす。
「似合ってる」
耳元でそう言えば、リュートはくすぐったそうに肩を竦める。そして、ぽつりと言った。
「いいのかな」
「何が」
「……楽しんでも」
強過ぎる自責の念が、リュートに楽しむことすらも禁じているらしい。そんな馬鹿な話はない。そもそもあの話を思い出す限り、リュートに瑕疵はない。そもそも親が家で話す程度のことで、商売が潰れることなんてまずないのだ。それはティルも父親の業務を手伝っているからわかる。リュートの父親がどんな人物かは知らないが、会社の機密を家で話すことはないだろう。従業員に課せられる秘密保持の義務に反するからだ。
「……リュート」
だが、そんな話をしても、今のリュートには届かないだろう。何なら届くだろうかと考えながら、ティルは言葉を紡ぐ。
「俺と出かけるのは、楽しくないのか?」
「そんなこと!でも」
「俺はリュートと出かけるのが楽しみだよ。きっと一生忘れられない花火大会になるって、思ってんだけどな」
「ティル……」
リュートの薄い紺の瞳が揺れる。戸惑いがちにリュートがティルに手を伸ばして、そっと人差し指だけ握る。弱々しいその手を包むように握り返した。
「リュート。花火大会、行かね?」
そう問うと、リュートは薄っすらと微笑んで、一つ頷いた。
車を出してもらって、会場に向かう。出遅れているので、既に周辺道路は渋滞、使用人が困ったようにティルに言った。
「これ以上ここにいると、始まってしまいます。歩いて会場に向かわれては」
「そうだな。下りるわ」
「ありがとうございました」
二人で車を下りて、歩道に出る。周囲を見回すと、花火大会の会場に向かって人が流れている。
「どうする?花火の真下で見たいか?」
「うーん。少し遠くてもいいから、静かに見たいな」
「それなら」
ティルはスマホで地図を出して、花火の打ち上げ場所の近くで人の少なそうな場所を探す。リュートもおずおずとスマホを覗き込んで、画面の明かりがぼんやりとリュートを照らす。暫くそうして二人でスマホを眺めて――
「この神社にすっか」
「うん」
下ろしてもらった場所から、徒歩で十分ほど。二人でゆっくり歩いて行く。リュートが少し歩きづらそうにしていたので、手を取って、握って、支える。
「ティル」
「嫌か?」
「……ううん。違う。ありがとう」
リュートが小さく首を横に振る。どこか儚げなその仕草に、やはり相当参っているなと感じる。
(やっぱあいつ殴っとけばよかったかな)
物騒なことを考えながら歩いていると、目的地の神社に到着した。目論見どおり人は少ない。近くの打ち上げ場所から見る人の方が圧倒的に多いので、わざわざここで見る人はいないのだろう。
神社の境内を見回すと、数人の人がいるが、互いに距離を取って場所を確保している。ティルとリュートは手水所の近くに陣取って、花火が始まるのを待つ。
「ティルはさ」
「ん?」
「俺の……昔の話を聞いても、何も思わないの?」
横を向いて、リュートの瞳を覗きこむ。不安そうに揺らぐその瞳に、何とも言えない気持ちになりながらも、ティルは言った。
「何も。俺は聞く限りお前は何も悪くないと思ってっしな」
「そんなこと!」
「騙した奴と騙された奴がいたら、普通はどっちが悪いんだよ」
「……騙した方」
「お前が騙したのか?あの野郎を」
「違うけど……」
「じゃあお前は悪くない。簡単なことだ」
「……」
「納得いってないのはわかるよ。お前にだって思ってることもあるだろうけど、お前は悪くないって思ってるやつがいることは、忘れんな」
ティルがそこまで言った、そのときだった。ひゅるるる……と音がしたので、二人で空を見上げた瞬間、腹の底に響く重い音と共に、夏の夜空に花が咲いた。咲いた途端にきらきらと火の粉になって消えていく。その潔い姿すら美しくて、ティルはすげぇな。とリュートに言った。
「……うん、綺麗だね」
どこか消え入りそうな声で、リュートがそっと零す。ティルはリュートの方に腕を伸ばして、その腰に手を回して引き寄せた。あまり抵抗もなく、ふらっとティルの身体に凭れ掛るリュート。それをぐっと腕で支えて、ティルは言った。
「お前、軽いな」
「そうかな」
「軽すぎて、不安になる――お前が、どこかに行っちまう気がして」
「……」
視線を感じたので、そちらを向く。リュートが、ほんのりと微笑んでいた。
「行かないよ……行けないよ」
「そうか?お前強いしな。俺のことなんて置いてどこにでも行けるだろ」
「俺が自ら、ティルから離れることはないよ……でも」
リュートが、ティルの肩の辺りに頭を凭れさせる。耳元のオレンジの宝石が、鈍く光った。
「……最近、よく夢を見るんだ」
「夢?」
「そう。ずっと――暗い穴の底に落ちていく夢」
動揺するな、と咄嗟に言い聞かせたためか、表情にも、身体にも、最低限の変化しかなかったように思う。大袈裟に反応したりしたら、リュートのことだ。何かに勘づく。
(根が精神に干渉してるのか……?夢に明確に見る程に侵食されてるってことでもある……)
リュートを失う可能性が、日に日に高まっていく。そんなこと絶対に許さない。そう思っていても、こうして実際にリュートの身に変化はあって、何も止められていない。
「その夢は本当に怖くて堪らなくて、いつも目が覚めてしまうんだけど……そういうとき、ティルのこと思い出すようにしてるんだ」
「え?俺?」
きょとんと問い返すと、それが面白かったのか、リュートがくすくすと笑った。
「笑ってるティル、怒ってるティル……どんなティルでも、すごく安心する」
「……そうか」
「その後少し眠れるようになるんだ……朝陽が差すように、夢も明るくなって」
「つーことはお前、寝不足なのか?」
「ちょっとだけ」
よくよくリュートの顔を見るが、白い肌に隈が浮いているということはない。ぱっと見どこもおかしくないように見えるのが、リュートらしいというか、何と言うか。
幾つもの花火が、咲いては散っていくのを、二人は結局見ることはなかった。ただ互いの瞳に互いだけを映したまま、言葉を重ねる。
「今日、うち泊まっていくか?」
「え?」
突然の提案にリュートが驚く。それはそうだろうなと思いつつも、もう放っておけなくて。
「うちのことは気にすんな。突然の泊り客なんてよくあるし」
「……母さん、いいって言うかな」
「聞いてみろよ」
「うん」
リュートがスマホを取り出して、ぽちぽちとLINEを開いて、メッセージを送る。暫く無言で見守っていると、リュートはスマホを仕舞った。
「どうだった?」
「いいって。あんまり気にしてなさそうだった」
「もう高校生だしな。ダチの家に泊まって帰るのもそんなに珍しくないだろ」
リュートの母親はレオンのことを知っているだろうから、リュートがそうして友達と過ごすことを、どこか安心して見ているのだろうと、ティルは推察した。海に行ったときも心から嬉しそうに笑って見送っていたし、ずっと心配していたのだろう。その気持ちはわかる。
「花火、見たか?」
「見てなかった。何しに来たんだろう」
「本当それな」
二人で小さく笑って、もう一度空を眺める。フィニッシュの一発が空高く上がって、花を咲かせて、散った。
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