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第23話
ある日のこと。
家に帰ったリュートは、玄関に父の靴があることに気が付いた。珍しい。父は多忙で、土日も出勤するほどだ。それがこんな明るい時間に家にいるなんて。休みが取れたのだろうか。
会って話がしたい。ティルのことも話したい。
アルトフェルト家は家族仲が良いので、何でも割と素直に話すことができる。ふと鼻を掠めたのは甘い焼菓子の匂い。オレンジピールの爽やかな香りがする。母がパウンドケーキを焼いているのだろう。
慌てて靴を脱いで、リビングに向かう。うきうきと心を躍らせて、リビングの扉を開ける。ソファには父が座っていて、母がその前にオレンジピールのパウンドケーキを出している。コーヒーも置いてあった。
「おかえり、リュート」
「おかえりなさい、今日は何もなかった?」
父と母が続けて言う。それにふにゃっと笑いながら、
「ただいま。何もなかったよ」
と告げる。そそくさとソファに腰かけて、母に、俺も。と視線で訴える。母のパウンドケーキが好きなのだ。はいはい、と母が笑って、台所に下がっていく。戻ってくるのを心待ちにしていると、父がそういえば、とリュートに言った。
「最近、随分元気がなかったと聞いたが、大丈夫だったのか?」
今更、と思うかもしれないが、ある程度仕方がないことだった。父はリュートが参っていた頃、ちょうど海外出張に行っていた。そして、二学期が始まる頃に戻ってきた。
リュートの様子を母から聞いていたのだろうが、心配をかけたことは事実だ。リュートは頷いて、
「もう大丈夫」
と、笑ってみせる。父は、そうか。と小さく呟いて、コーヒーを飲んだ。かた、とソーサーにカップを戻して、言う。
「何があったのかは、聞かない。お前は昔から――」
「何?」
「……昔から、変なことに巻き込まれやすかったからな。今更何が起こっても驚かない」
「……」
幼い頃のことは、全く覚えていない。ただ祖父母から、赤ん坊の頃光に包まれて浮いていたとか、そんな馬鹿なと思う話は聞いたことがある。
(……今思えば、主神様だろうな。それ)
何があってそんなマジカルな演出をしたのかは不明だが、犯人は当たっているだろう。
「それに、ノアもな……」
父の言葉に、リュートも頷く。
ノアの加齢が止まっている可能性は、気付いている。主神の仕業であろうことも。
父の心境を思う。普通の家のつもりなのに、リュートが主神に愛されているが故に超常的な何かが起こってしまう家。表情を見るに諦めの境地なのだろうが、心労が尽きないな、と父のことを心の中で労う。
「リュート、紅茶でいいのよね」
「うん、ありがとう」
母が台所から戻ってきて、リュートの前にパウンドケーキと紅茶を並べる。わあ、と表情を緩め、皿を持ち上げて母のパウンドケーキを口に運ぶ。甘すぎない、爽やかなオレンジピールの苦みを感じる。おいしい、と口を動かしていると、父が、母に座ってくれ、と言う。リュートの横に腰かけた母が、不思議そうに父に言った。
「そういえば、今日は早いのね」
「ああ。リュートに話があって」
「俺?」
むぐむぐとパウンドケーキを飲み下して、首を傾げる。
「リュート、見合いの話が来た」
皿を落とすかと思った。慌てて指に力を入れる。パウンドケーキを落とす訳にはいかない。というか、父は何と言った?見合い?俺が?
「何で?」
あまりにも意味不明過ぎて、そのまま問い返す。すると父は、実はな、と前置きして、言う。
「弊社と取引のある財閥の家のお嬢さんが、今年中学三年生だそうでな」
極めてどうでもいい情報である。
「お前の話を聞いて、興味を持たれたそうで」
それも極めてどうでもいい話だ。
「で、見合いの場を一度設けさせてほしいと……本人たちが希望すれば、早期の婚約も視野に入れるとのことだ」
本当に、どうでもいいことだ。一体誰が、その見知らぬ人と婚約するって?
リュートは残ったパウンドケーキを一口で口に入れて、むすっとしながら口を動かす。母が横でくすくすと笑っている。
「リュート」
父が言うので、リュートはパウンドケーキを飲み込んで、言った。
「やだ」
父が面食らったように目を見開く。嫌に決まってる。
「俺にはティルがいる」
「……は?」
父がぽかんと口を開ける。
「……その、随分……男性名のお嬢さんなんだな?」
「男だけど」
「は?」
父が今度こそ固まる。そして困惑の視線を母に向けた。母もおっとりと笑いながら、
「初めて聞いたわ」
と言う。それはそうだ。初めて言ったんだから。
「リュート、ティルって、あの子ね?橙の目の、男の子」
「うん」
母は既にティルのことを見ている。名前を聞いたら大体理解できたらしい。それはそうだろう。夏休みの後半は毎日家に出入りしていたし、母もティルにリュート衰弱の理由を尋ねたりしていた。
「しっかりしたお坊ちゃんだったわね」
「うん、ティルはしっかり者だよ」
「そうね。母さんはいいと思うわ」
「ありがとう」
「いや、纏めるな。ちょっと待て」
父が母とリュートの会話を止める。何が待て、なのだろうか。
「……リュート、男性と付き合うということか?」
「駄目なの」
「……多様性には寛容なつもりだが、我が子が突然それを選択したら、動揺するのが親だ」
「……」
そこで、リュートは父の懊悩を知る。わかってはいたことだ。世間の常識が男女にあるのなら、自分たちはその常識の外にいる。それを受け止める者がいる一方で、排他的な者もいる。
そういった困難に直面するであろう我が子を、親として、心配に思い、不安に思うことを、誰が責められるだろうか。リュートはそこに思い至り、口を閉ざす。
沈黙の下りたリビングで、父はすっとコーヒーを一口飲んだ。
「リュート」
「はい」
「お前が選んだことだ。もういい年だし、何も言わない。それはそれとして、見合いには行ってくれ」
「何で?」
「会社としての付き合いってものがある。会いもせずに断るのは先方に失礼に当たる。一応会って、こちらからお断りの連絡を入れる。それでいいだろう?」
「……」
正直言って、嫌だった。何が嫌って、この話を聞いたらティルが絶対に悲しむから。リュートがどれだけ言葉で、身体で、ティルへの愛を示したとしても、絶対落ち込む。ティルはメンタル乙女だから。
何とか黙っておく方法はないだろうか。ティルに知らせずに終わらせたい。だがティルは勘がいいから、すぐに気付かれそうだ。それなら最初から話してしまうか……いやでも。
「やっぱり嫌なんだけど」
ぐるぐる巡る思考の結果そこに至るのだが、父は首を横に振る。
「そこを何とか折れて欲しい。ホテルのラウンジで一杯紅茶を飲むついでにちょっと相手のお嬢さんと話すと思えば」
「……」
そうして結局、リュートは折れることになる。
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