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Chapter3

奈義がいなくなり、静まり返った部屋は さっきまでより少し広く見えた。 あれほど煩かった蝉の声も、 夜の帳が下りるにつれて鳴りを潜めている。 紫音はノースリーブのハイネックニットを頭から被ると、 財布とスマホをポケットへねじ込んだ。 何処でもいい。 とにかく、気を紛らわせたかった。 逃げるように部屋の鍵を閉めた、その時。 スマホの着信音が鳴った。 ディスプレイには **『スギ』**の文字。 ーーーげ。 紫音は反射的に通話終了ボタンへ指を伸ばした。 ……が、一瞬だけ迷い、 そのまま通話を押す。 「もしもし!?  もしもし!? 紫音!?」 返事をする間もなく、 電話の向こうは勢いよく喋り始めた。 「良かったー!! 出た!! やった! マジで出た!!」 「……やっぱ出るんじゃなかった。」 紫音は小さく呟き、 もう一度通話終了ボタンへ指を伸ばす。 「だーーーっ!! 待って待って待って!!」 「……何だよ。うっせぇな。」 眉をひそめる。 電話の喧しい声の主は杉浦大河。 通称、スギ。 大学の同期であり、 騒がしさだけなら奈義を軽く超える男だ。 とにかく声が大きい。 そのうえ、デリカシーという言葉を この男は知らない。 そんなスギが言うには、 今夜のコンパに来ていた 超上玉のカワイコちゃん達が 『イケメンを呼んでくれるなら クラブまで付き合ってもいい。』 と言っているらしい。 ーー何だそれ。 「そんなのナギ呼べばいいじゃん。 あいつなら今日は呼ばなくても クラブに転がってるだろ。」 「だー!!ダメダメ!! アイツ呼んだら全員食っちゃうから!!」 「……じゃあ何。俺はダシかよ。」 「そんなワケないって!! 神様仏様紫音様!! お願いだから!!」 「……ってか、 俺、イケメンになるの?」 「バカかお前!!俺が保証する!!」 「…………。」 「学食1週間分!!これでどうだ!!」 「1週間か……。」 結局。 紫音は学食1週間分と引き換えに、 スギの誘いを受けることにした。 ーーー スギに指定されたクラブは、 電車で10分。 駅から歩いて五分ほどの場所にあった。 入口で年齢確認とボディチェックを済ませ、地下へ続く階段を降りていく。 狭い通路を一段、また一段と下るたび、 床を震わせる重低音が少しずつ近付いてきた。 フロアの熱気が、 地下から漏れ出してくるようだった。 入口ではスギが 今か今かと待ち構えている。 「おーーー!! 紫音!! マジで来てくれた!! ありがとーーーー!!」 紫音の姿を見つけるなり、 犬のような笑顔で大きく手を振る。 「今日も色気ヤバいな!! そのハイネック逆にエロいって!!」 ーー本当にデリカシーがない。 紫音は眉間に皺を寄せると、 何も言わずスギの背中を軽く押した。 「いいから行け。」 2人はそのままフロアへ足を踏み入れる。 腹の底まで響く重低音。 若者たちの熱気。 眩しく明滅する照明。 DJブースを囲むように踊る人影。 奥にはラグジュアリーなソファが並び、 酒を片手に談笑する男女の姿があった。 さらに奥、 角に設えられたバーカウンターには 色とりどりのボトルが美しく並び、 まるで一つのインテリアのように 柔らかな灯りを受けて輝いている。 思っていたよりずっと小さな店だった。 だが、 騒がしさの中にも品があり、 紫音は少しだけ肩の力を抜いた。 スギは紫音の手をグイグイ引き 奥のスタンディングテーブルへ 連れて行く。 スギが連れていた女の子は2人。 紫音が姿を現すと感嘆の声を上げた。 魅せ方を熟知したメイク 大きく開いた胸元 彼女達はスギが"超上玉"と 明言するだけあって 自分が可愛いことを知っている。 でも、そんな事は紫音にとって どうでもいい事だった。 紫音の視線は何気なく ゆっくりフロアを一 1周して、 バーカウンターの奥で止まる。 L字になっているバーカウンターの 奥の、奥。 ーーーー奈義だ。 そこには同期の神田博樹と 酒を飲んでいる奈義の姿があった。 こちらに気が付いている様子はないがー...... 奈義が不意にこちらを振り返る。 ーーあ。 目が合う ほんの1秒にも満たないわずか。 しかし奈義は少しだけ眉を上げて 何の愛想もなく博樹の方へ向き直した。 ーーそれだけかよ。 たったの、一瞬。 紫音は視線を戻した。 スギはショートの子が狙いだからと 上手く話を盛り上げている。 よく笑う口元は笑窪を浮かべ オーバーリアクションで笑いを誘う。 デリカシーはないがこういう所が 彼の魅力なんだろう。 ーー羨ましい。 素直に何でもストレートで。 そんな事をぼんやり考えながら 適当に相槌を打っていると 不意に ヒヤリ、と 剥き出しの二の腕に 何かが押し当てられた。 「......ひゃぁ!!」 思わず肩が跳ね上がる。 押し当てられたのは キン、と冷えた ビールのジョッキだった。 それからわずかに jo malone londonの香り。 ーーあ。 紫音は横目でその人影を確認する。 「......? どした? 紫音?」 「...いや、何でもない。」 その横顔は 一度も振り返る事はなかったが 満足そうに口の端だけ吊り上げて、 人混みのダンスホールに消えて行った。 ーー何だアイツ。 紫音は握っていたジン・ソーダを 一気に喉へ流し込んだ。 「ーーなぁ、紫音ってさ。」 そうスギが切り出したのは、 女の子たちが化粧直しに 席を立った時だった。 「何。」 紫音はグラスを指先でゆっくり回す。 氷が、カランと鳴った。 「女の子口説いたりしねぇの? 今日の子、めちゃくちゃ可愛いじゃん。」 「……。」 「タイプじゃない?」 紫音はジン・ソーダを一口飲む。 「別に。興味ない。」 「えぇ!? もったいねぇ!」 スギは頭を抱えて大袈裟に騒ぐ。 「じゃあさ。」 少し身を乗り出して、 「もしかして……ゲイとか?」 「ーーッ。」 紫音は思わず酒を吹きかけた。 奈義の顔が一瞬、脳裏を掠める。 慌てて首を振った。 「……違う。」 「だよなぁ!」 スギはケラケラ笑う。 「ビックリした。」 その無邪気さに、 紫音は乾いた笑みを浮かべた。 「……逆にさ。」 「ん?」 「お前、そんな必死に女口説いて、 どうしたいわけ。」 「は?」 スギはキョトンとして笑った。 「決まってんじゃん。」 そして迷いなく言う。 「いいなぁ〜と思う子がいたら 彼女にしたいじゃん!」 「……。」 「一緒に遊んでさ、飯食って、 笑って、エッチして。」 少し照れ臭そうに鼻に皺を寄せた。 「そういうのしたいじゃん。」 紫音は何も返せなかった。 スギは不思議そうに首を傾げる。 「紫音は違ぇの?」 「……。」 「エッチだけ出来れば それでいいとか?」 紫音は氷を回す手を止めた。 「......そうじゃない。」 はっきりと答えられない。 「だよな! そんな都合がいいだけの関係 オレは嫌だね〜」 ーー都合がいいだけの関係...。 その言葉が 重低音を遠ざけるように 頭に残った。 「ま、奈義くらいクソ野郎になれば そんなんもアリなんだろうな!」 紫音は何も言えなかった。 ーー......ホント デリカシーないなぁコイツ。 そう思いながら 前方のダンスフロアに視線を移す。 そこには女の子の腰を抱いて 体を寄せ合っている 奈義の姿があった。 ほんの少し前に 自分を抱いていたその腕で 今度は女の子の細い腰を抱いている。 自分だけ取り残された様な虚しさが グラスの中の氷と混ざって 溶けていく様だった。 紫音はビールジョッキを 押し当てられた腕を無意識に撫でた。 ーー別に 奈義とどうこうなりたい わけじゃない。 そう言い聞かせて 気の抜けたジン・ソーダを 口に流し入れる。 ーーー構わない。 そう思わなければ もう引き返せない所まで来ていた。

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