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Chapter8
あの時に戻れたらーー……。
そう何度も思う。
もう誰も居なくなった隣の部屋の前で、足が止まってしまうのも。
うんざりするくらい繰り返す、この後悔も。
何処まで遡ったら、塗り替えられるのだろうか……。
きっと
何処まで遡っても。
同じ結末を迎えてしまう。
そんな気さえしている。
まだ冷たい朝の空気を吸い込むと、新幹線の時間をもう一度確認してスーツケースを握り直す。
朝焼けが目に染みた。
ーーー
キャンパス内は学園祭の準備が佳境を迎え、お祭りの興奮に包まれつつあった。
奈義は、その中心にいながら、背中を流れる冷たいものを確かに感じ始めていた。
ーーアイツ凄ぇな。
「紫音、もう卒論仕上げ段階らしいぞ」
そう博樹から聞いたのは、つい1時間ほど前の事だった。
ーー何だよ……。
......卒論出来てんのかよ!!
嫌なものが一気に噴き出るように、奈義の背中から胸までいっぱいに広がっていく。
ーーじゃぁ何で……
スマートフォンに手を伸ばして
メッセージアプリを開く。
紫音からの連絡はない。
昨晩送ったメッセージは、今朝『ごめん寝てた』と返事が来たが、ここのところ、そんな返事しか見ていなかった。
ーーったく、何だっつーんだよ......ッ!
奈義はスマートフォンをポケットに捩じ込んで、学園祭の準備に没頭している振りをした。
「ねぇ、奈義くぅん」
不意に甘ったるい声がして振り返ると、
そこには一学年下の綾乃が自慢の双丘を見せつける様にしてこちらを見上げていた。
「絵里奈さんと別れたって......本当?」
「あぁ、うん。本当」
「え〜! 何でぇ?」
「......さぁ〜?
何か、浮気してるんだろってフラれた」
「傷心なの」と軽口を叩くと、綾乃はあからさまに饒舌になった。
オレみたいなチャランポランに寄って来る女の子は、駆け引きを楽しむというよりストレートに恋愛を楽しむタイプが多い。
深く踏み込んで来ないし、柔らかくて可愛くて分かりやすい。
一瞬、ほんの僅かな瞬間、
紫音のアッシュの瞳が頭を過る。
ーー......分かんねぇのは、
アイツだけだって......ッ!
「ねぇ? 奈義くん? 聞いてる?」
我に返ると綾乃が覗き込んでいた。もちろんあざといボディタッチ付きだ。
「ん? あぁ、ワリ、ちょっと待って」
奈義は自分の袖を掴んでいる綾乃の腕をゆっくり離した。
そして、視線は綾乃のずっと向こうの渡り廊下に吸い寄せられる。
見間違えるわけがない。
「しーちゃん!!」
呼び止めると、僅かにアッシュの髪が揺れる。
その人影は確かにこちらを向いていたと思ったが、そのまま人混みの中へ消えていってしまった。
ーー......今、気付いてたよな?
何なんだよ......!!
「あれ、長谷川君? よくわかったねぇ〜」
綾乃は目を細めて紫音の消えていった方を見つめていた。
「最近めちゃくちゃ痩せちゃってるって聞いたけど、大丈夫なのかな?」
ーーは?
紫音が……何だって……?
「……」
奈義は答えられなかった。
「長谷川君と同じゼミの子が、病気じゃないかって気にしてたのよね」
痩せてる?
暇があったら腹減ったっつってる、
あの大食いがかよ......!
ーーいや、知らねぇって……!!
「え? ちょっ……奈義くん!?」
気がついたら奈義は、綾乃に返答もせず走り出していた。
紫音を見失った渡り廊下まで行くと、学園祭の準備に追われて群がる人を掻き分けて、北棟エントランスを見回す。
ーー紫音ッ!
呼吸が浅く、喉の奥がヒリヒリと焼ける。心臓とうるさい。動悸が胸を内側から打ち叩いていた。理由も分からないまま、ただ足だけが焦りで突き動かされる。
何度辺りを見渡してみても、アッシュの髪は何処にも見当たらない。
ーー......チッ!
奈義は舌打ちをして、行き場のない拳を握りしめた。
もう紫音の返事を待っていられなかった。
ーーー
その日のバイトは、何をやっても紫音の事が気になって時計ばかり眺めていた。
自動車整備工場の終業時間ぴったりにタイムカードを押すと、親父さんが「オイ奈義坊!」と呼び止めるのを振り切るようにして車に乗り込んだ。
いつものように煙草に火をつけ、いつものコンビニに寄って晩飯を買い込む。
アイツの好きなスナックも握ってカゴに投げ込んだ。
いつもの様に古い階段を登り、ドアに合鍵を差して回す。
ガチャン、と重い音がしてドアが開き、いつものように間接照明に照らされた紫音の部屋がある
ーーはずだった。
……。
おい。
......何だよ、コレ......。
ドサッ、と手に持っていたコンビニの袋を足元に落とした。
奈義は床に転がった資料を跨いで、ゆっくり部屋の中へ足を踏み入れる。
……。
「オイ......紫音......?」
部屋の中は不気味なくらい静まり返っていた。
コツン、と何かが足に当たり転がる。
鎮痛薬の箱から錠剤が飛び出ていた。
「......寒ッ」
西側の窓が大きく開け放たれ、カーテンが冷たい風に揺れていた。上着を着ていても肌が寒さと不気味さに粟立つほどだった。
「おーい......紫音......いんだろ?」
足元の惨状に目を泳がせながら、奈義は荒れた部屋の奥へと進み、大きく開いた窓に手をかけて閉めた。
そのまま脇にあるデスクに視線を移す。
デスクの上にも資料が積み上がって雑然としていた。
その資料に埋もれる様にして、何かが突っ伏している。
「......オイッ!......紫音......!?」
奈義が紫音の肩に手を触れると、触れた瞬間に骨の形が伝わるほど細く、骨張った肩がビクンッと跳ねた。
ハッと紫音が目を覚ます。
ゆっくりと目が合う。
「......!!」
ーー何て......顔してんだよ......。
痩せた頬。
生気の通わない唇。
知らない色の瞳。
奈義は立ちつくした。
痩せてなお美しすぎる彼に、
怖ろしさすら感じるほどだった。
「何」
思っていたより低い声が、静かな部屋にポツリと落ちた。
……。
「何……ってお前……」
……。
オレは何でここにいるんだ……?
紫音を心配したから?
それとも
普段通りの紫音を期待したから?
……
奈義は答えられなかった。
紫音は奈義が逡巡している間、ゆっくり視線を窓へ向けてぼんやりと瞬きをしている。
そしておもむろに、
はぁ、
と短くため息を吐くと、
「......セックス、しに来たの?」
と、何でもないように呟いた。
「......はぁッ!?」
ーーなんでそうなんだよ!!
「......テメッ......心配して来てやったのに何なんだよ......ッ!!」
奈義は怒りに任せて紫音の肩を乱暴に掴んだ。
「痛ッ......!!」
紫音の痩せて浮いた鎖骨に奈義の大ぶりのリングが食い込んで、紫音は小さく悲鳴を上げた。
「何とか言ったらどうなんだよ......!」
悲鳴も震えも構わず、
奈義は紫音の顎を掴んで
強引にこちらを向かせた。
「こっち向けって」
紫音の瞳が一瞬だけ奈義を捉えて、
また逸れる。
奈義は抑えようのない苛立ちを力一杯込めて、紫音の顔を近づけた。
「……」
鼻の先が触れ合うと、
紫音の口元は小さく震えていた。
チッ、と奈義は舌打ちをして力無く手を離し、項垂れた。
ーー......何でこんな弱るまで、
オレに何の相談もなかったんだ......?
これじゃ、まるでオレのーー......
「......もう」
ーーえ?
「勝手に入って来ないで」
……ッ!!
「は!?......なんで!?......今更!」
動揺が体全体を包んで、視界が沈んで見えた。
「もう、こんな関係終わりにしたい」
……!!
「は? いや、だから何でそうなんだよ!」
......これじゃ、まるでオレの......
「......紫音!」
......オレの所為みたいじゃないか......。
「……」
紫音は何も答えなかった。
......ああ......。
そうか......。
「......そういう事かよ」
......ーーー
『帰って』
ーーー。
あの日の言葉が頭ん中に蘇る。
「......そこまで追い詰められるほど、俺のことが嫌だったのかよ............!!」
「......!!」
紫音は僅かに眉間に皺を寄せ、目を伏せた。
「どうなんだよ!!」
「............。」
紫音からの返事はない。
「......分かった。」
奈義は手に握っていた合鍵を、デスクに放り投げた。
硬い金属音が響き、デスクの上を転がる。
「お望み通り、もう来ねぇよ」
奈義は捨て台詞を吐くと踵を返し、足元に落ちていたコンビニの袋を蹴り飛ばした。
紫音の好きなスナック菓子が床に転がり出るのも構わず、勢いのまま部屋を後にする。
バタンッ、と叩きつけるように閉めたアパートのドアが、大きな音を立てて響いた。
逃げる様に車に乗り込むと
煙草を取り出し火をつける。
しかしライターは
火花を散らすだけだった。
ークソッッ!!
何でこうなった!?
奈義は苛立ちに任せて
アクセルを踏み込んだ。
派手なエンジン音と共に
テールランプが揺れる。
迷わずスマートフォンを開いて
着信履歴の二番目に表示された名前をタップした。
ディスプレイには『あやの』の文字。
奈義は通話ボタンに手を伸ばした。
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