9 / 28
Chapter9
紫音に合鍵を投げつけてから
3日が経った。
もちろんだけど
紫音からの連絡はない。
『こんな関係終わりにしたい。』
『帰って』
壊れたボイスレコーダーの様に
何度も紫音の声が頭の中で再生される。
ーー何だって言うんだ...!!
「......。」
この名前の付けられない苛立ちを感じる度に、煙草の数が増えた。
「ねぇ奈義?財布、取りに行くんでしょ?」
綾乃が奈義の膝に手を伸ばすと
奈義は我に帰って視線を車内に戻した。
「あ、あぁ。」
煙草を捻り消してドアを開ける。
冷たい夜の風が暖房を蹴散らすように
車内に滑り込んだ。
「さむぅい」と綾乃は身をすくめる。
11月に入ってからはめっきり朝晩の冷えが強くなっていた。
また、あの西側の窓と、
知らない色の瞳を思い出して
奈義は小さく頭を振った。
「やっぱり私も行っていい?」
綾乃に呼び止められた奈義は
少し考えて「部屋汚ねぇからダメ。」
と綾乃を車内に残した。
「ねぇ!少しでいいから!」
綾乃は車内から飛び出して
奈義を追いかけ腕を絡ませた。
「......。」
結局奈義は綾乃を連れて、古いアパートの階段を登り始めたのだった。
ーーーー
あれからまだ3日しか経ってないのか。
紫音は久しぶりにTVのスイッチを入れて、漠然と画面を眺めていた。
世間は浮かれたクリスマスモードになりつつある。
好きだった菓子パンを齧ってみたが
相変わらず味はしなかった。
経口補水液を流し入れる。
あの日から3日間
キャンパスにはとても行く気になれずにいる。
昨日コインランドリーに向かう前に
買った覚えのないコンビニの袋の中身が飛び散っているのを見つけて、奈義がここに来たのは夢ではなかったんだと肩を落とした。
拾い上げたその袋から
自分のよく食べていたスナック菓子が
転がって「バーカ」と小さく呟やいた。
どこまでいってもあの男が
堪らなく愛おしいのが
滑稽で悔しくて情けなかった。
『お望み通り、もう来ねぇよ。』
頭の中で繰り返される度に
胃の中が冷たくなる。
『これで良かったんだ』と思わないと
眠れなかった。
ーーいっそ嫌いになれたらいいのに。
そう考えてみた所で
意味のないことだった。
紫音は西側の窓を閉めて深呼吸をする。
jo malone londonの香りは
もう何処にも残っていなかった。
コンビニの袋から出てきた
スナック菓子をかじってみる。
ほんの少しチョコレートの味がした。
ーーー
古いアパートの階段は、いつも派手な音がする。
綾乃のハイヒールはよく響いた。
「奈義の部屋楽しみ〜。」
するっと腕を絡ませた綾乃からは
甘い香りが匂い立つ。
素直に甘えて
気取っていない綾乃の様な子は可愛い。
......なのに...
ー......オレも相当イカれてるよな。
紫音の部屋の前でほんの少し足が止まりそうになったのを堪えて、自分の部屋のドアを開けた。
紫音は帰っているだろうか。
そんなどうしようもない事を
考えていた。
「えー!何だぁ!綺麗にしてるじゃん!」
綾乃はそう言うと、ハイヒールをポイポイっと脱ぎ捨てて嬉しそうにベッドの上に腰掛けた。
「私この香水の匂い好きぃ。
奈義って感じで忘れらんないかも。」
綾乃はヘッドボードの棚の香水を
手にとった。
「あんま触んなよ。」
奈義はチェストの上に置き忘れた財布を握ると、ジーンズのポケットに捩じ込んだ。
用事はたったこれだけ
ーー......の、はずだった。
「ねぇ、なぎぃ」
気がつくと綾乃は奈義の後ろから
腰に絡みついていた。
ーーオイオイ。マジか。
「おい、離れろって。」
奈義は綾乃を振り返って制したが
彼女はクスクスと笑って首に手を回した。
ぴったりと体を付けられ
否応なしに彼女の甘い香りを
感じてしまう。
「ねぇ、いいでしょ?」
研究され尽くした上目遣いは
文句なしに可愛い。
『こんな関係終わりにしたい。』
まただ...。
ーー何なんだよ!!こんな時にまで!!
奈義は頭の中の声を払拭するかのように
綾乃に唇を寄せた。
どうしようもない苛立ちを抱えたまま
小さい腰を寄せて首筋に舌を這わせる。
「...ァン!」
徐々に綾乃の声は艶めいて上気し始めた。
ーーコトン。
「......!」
隣の部屋から僅かに紫音の気配を感じた奈義は、一瞬舌を這わせるのを止めた。
ーー紫音、居るのか......。
『もう、勝手に入って来ないで。』
「......ッ!」
ーー知るかッ!
聞こえたって構わねぇッ!
奈義は慣れた手つきで
綾乃の上着を剥ぎ取る。
紫音の部屋の壁は
すぐそこにあった。
ーーー
古いアパートの階段から
足音が聞こえて来たのは
テーブルに腰をかけて
スナック菓子の3つ目を口に
運んでいる時だった。
奈義だとすぐに分かったが
今夜はお客があるようだった。
コツ、コツ、コツ
とヒールの音に可愛らしい女性の声が混ざっている。
ーー珍しいな。
奈義が彼女を部屋に連れて来るのは
紫音の記憶にはこれが初めてだった。
2人の足音は派手な音を立てながら
当たり前のように紫音の部屋を通り過ぎていく。
紫音は顔を手で覆って
大きくため息を吐いた。
あの足音が通り過ぎてしまう事が
こんなにも......
......こんなにも寂しいだなんて。
紫音は水を少し口に含んで飲み下した。
女の子の弾んだ声は、薄壁一つ隔ててよく聞こえて来た。
紫音はテレビのボリュームを
少し上げてみたが
耳は勝手にそばだててしまう。
『......ァン!』
「......ッ!」
......ゴトン!
女の子の声が嬌声に変わり
思わずスマートフォンと食べかけていた
スナック菓子が床に滑り落ちる。
心臓が一気に緊張し、
息が喉に詰まると嫌な汗が全身を巡った。
............。
『...んッ...あン...ァ』
「......ッ!」
............
触れているのか。
奈義に。
......
『アぁん...アッ...ァッ!』
「......ッ!!」
紫音は洗面所まで走ると胃の中のものを
全部吐き出した。
自分に触れていた
あの手が
あの目が
他の人に触れているなんて...ッ!
ーー ギシッ...!
ギシッ! ギシッ! ギシッ!
やめて...ッ!
お願いヤメテッ!!!
紫音は
怒りとも悲しみとも違う衝動に
突き動かされるように
財布とスマートフォンだけ握りしめて
部屋を飛び出した。
階段でよろけて
何度も滑り落ちそうになりながら
追い立てられるように
アパートから遠ざかる。
夜の風が冷たく紫音の肺を締めつける。
苦しくて、何度も立ち止まったが
アパートの灯りが見えなくなるまで
紫音は一度も振り返れなかった。
ともだちにシェアしよう!

