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Chapter22

海外での活動を終え、 1週間ぶりに日本の空気を吸った誠一郎は、 愛おしそうに脇に抱えた小袋を撫でた。 中には空港へ向かう途中で立ち寄った店で買った小さなウェルシュケーキが4つ入っている。 海外へ行くと、 紫音に一つ土産を買って帰る。 いつからか、それが恒例になった。 今回は彼の祖母の住むウェールズの伝統菓子にしてみた。 イギリスで活躍するピアニストである 彼の祖母は、私と紫音を引き合わせてくれた人物でもある。 気に入ってくれるだろうか......? マンションのエレベーターが 今夜はやけに遅く感じる。 玄関を開ければーー いつも嬉しそうに駆け寄って この胸に飛び込んで来る紫音。 その彼を 受け止めることが待ち遠しかった。 ーーのだが......。 ......静かすぎる。 いつもなら真っ先に現れる 色素の薄い猫っ毛が見えてこない。 それどころか 部屋の明かりすら灯っていない様だった。 「......紫音?」 「............」 返事はない。 彼の革靴もスニーカーもある。 ならば帰宅しているはずだ。 誠一郎は胸に小さな違和感を覚えながら リビングへ足を運んだ。 「......紫音? いるんだろう?」 やはり返事はない。 真っ暗なリビングの電気を点ける。 静まり返った空間に一つ、 紫音が鼻を啜る様な音がした。 誠一郎は視線を落とす。 「あぁ、こんな所に...」 ソファーの足元。 そこには 小さく縮こまるように両膝を抱いた紫音がいた。 テーブルには丸められたティッシュが幾つも積んである。 誠一郎は 手にしていた紙袋をテーブルへ置き、 ゆっくりと膝を折った。 そして困ったように 小さく首を振る。 「私は......思っていたより 君を困らせてしまったかな?」 柔らかな猫っ毛をそっと撫でる。 「紫音、顔を上げて?」 紫音は小さく首を振った。 「......さぁ、顔を上げなさい。」 もう一度促すと、 紫音は鼻を啜りながら、 ゆっくり顔を上げた。 ーーあぁ、なんて事だ。 目も鼻も 白い肌の上で痛々しいほど赤くなっている。 瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。 誠一郎はその頬を優しく撫で 親指で涙を拭った。 紫音は困った様に眉を顰めて瞳を閉じる。 「私が泣かせてしまったかな?」 「......うっ......ズッ......。」 紫音の頬をまた涙が伝う。 誠一郎は何も言わず その体をそっと引き寄せた。 そして、 紫音の髪に顔を埋めた その時だったーー ーー!! 微かに、 紫音から...... 誠一郎の知らない香りがした。 甘く。 どこかオリエンタルな香りーー。 だがーー 誠一郎にはこの香りに心当たりがあった。 ーーJo Malone London。 紫音のものではない。 ーーあぁ......。 ......私は遅かったのか。 「......紫音?」 誠一郎は抱きしめた腕を緩めずに 紫音の名を呼んだ。 紫音の引き攣るような呼吸を 耳元で感じる。 「Jo Maloneの彼に会ったんだね?」 「ーーー!!!」 紫音の体が強張る。 ハッと息を止め、 腕の中でもがくように身じろぎをした。 咄嗟に誠一郎の腕に力が入り、 紫音を強く引き寄せる。 「......まさか酷い事をされたのかい?」 「違ッ......!」 紫音は慌てた様子で首を振った。 「そんなんじゃ......!!」 「ならば......。」 誠一郎の声は低く冷たい。 「何故、他の男の匂いを纏って ここにいるんだい?」 「......。」 紫音は答えない。 ーーいや。 答えられないのだろう。 「紫音」 それが分かっていてーー 「答えなさい。」 こんな聞き方......。 全く、私らしくない。 「.....答えられないんだね。」 誠一郎は紫音の体を離して 紫音の華奢な顎に手を伸ばした。 「......ッ!」 紫音は その手を拒むように 小さく顔を逸らす。 「......それが答えかい?」 その小さな拒絶が、 誠一郎の苛立ちに拍車をかけた。 じわりじわりと迫っていた 強い衝動が一気に込み上げていく。 「ぅあっ!」 気がつくと誠一郎は ラグの上に紫音を押し倒していた。 「俺に答えられないような事をしたのか?」 両手を押さえつけられて 紫音は小さく悲鳴を上げた。 「痛ぁッ......!」 紫音の綺麗な顔が苦痛に歪む。 「ち、違う......!!」 否定されればされるほど、 誠一郎の胸は掻き乱された。 「なら、何でーー」 「......ぃや...!」 紫音の目に、 恐怖の色が滲んでいくーー。  「......イヤだぁ......ッ」 「............!」 ーー私は、 今...... 何を......。 誠一郎は我に返ると ゆっくり紫音の手を離した。 「......すまない。」 体を離すと、その場に膝をつく。 「少し......取り乱してしまった。」 メガネを外し、目元を押さえた。 紫音は体を起こさず顔を覆っている。 思っているより混乱している自分に嫌気が差した。 一旦頭を冷やさなければならない。 ーーそう思った時だった。 「......った。」 「......うん?」 「ナギに...会った......。」 絞り出す様な声で紫音は話し始めた。 ーーナギ。 やはり彼がJo Malone の男だったかーー。 紫音は顔を両手で覆っていて その表情は窺い知れない。 「......わざわざ私の留守中にかい?」 言ってから、 誠一郎は自分自身にため息を吐いた。 ーーなんて意地の悪い言い方だ。 随分余裕を失っているらしい。 「ち、違う......!」 紫音が慌てて体を起こした。 「さっき、駅で......偶然......。」 「......そうか。」 そう答えながらーー ーー納得などできない。 胸の奥へ冷たいものが沈んでいく。 「今までのこと、ちゃんと......」 震えて縮れた声で、 だが、 初めて私の顔を見て 彼のことを真っ直ぐに話す紫音。 「ちゃんと、謝ってくれて......。」 「............。」 「......また。」 ...... 紫音の言葉が詰まる。 ...... 「また、会いたいって......。」 紫音の唇が震えた。 「俺......。」 真っ赤になった目から、 また涙が溢れる。 「......俺......。」 紫音は言葉にならない嗚咽をもらす。 「............。」 誠一郎は、しばらく何も言えないでいた。 聞かなくても...... 先が分かってしまうのが怖かった。 「......ふぅ。」 誠一郎は目元を押さえて、 ため息を漏らす。 静かすぎるマンションの 見晴らしのいいはずの窓から見える夜景が こんなにバカらしく見えたのは初めてだった。 「............君は。」 「......。」 「......彼に会いたいんだね。」 「......それは......ッ!」 紫音は唇を噛んで、 言葉を探しているようだった。 「......分からない......。」 「......うん?」 両膝を抱え込んで 猫っ毛を掻き乱す紫音。 「......あんなヤツ......!」 「............。」 「嫌いに......なりたいのに......ッ!」 両手はシャツを抉って、 固く握られている。 「......誠一郎が......好きなのに......!! 会えたらーー ......会いたいって言われたらーー」 ......嬉しいなんて......ッ どうしたらいいか...... 分からない......ーー!!」 ぐちゃぐちゃになりながら 胸元を掻き毟るように強く握っている紫音を、誠一郎はただ静かに見つめていた。 何故だか彼を責める気にはなれない。 ......思い返せば 初めて彼の祖母の楽屋会った時から 彼は......私には到底触れられないような 底知れぬ悲しみを微笑みの中に潜ませていた。 それに気付いていながら 私は彼に一目惚れしたのだ。 全く、最初から私らしくなかった。 こんな一回りも歳が離れている彼に 夢中になってしまうだなんて。 誠一郎はゆっくり息を吐くと テーブルの上に置かれた小さな紙袋へ手を伸ばした。 「......これは、ウェルシュケーキだ。」 「......?」 紫音は濡れた瞳を瞬かせ、 呆然とその袋を見つめる。 「君へのお土産さ。」 「......。」 紫音は黙ってその紙袋を手に取った。 「......私は............ 君の喜ぶ顔を楽しみに帰宅したのだよ。」 「......!」 彼は紙袋を見つめて抱き寄せた。 そして、 絞り出すように、 「ごめんなさい......。」 と呟いた。 「......いいんだ。もう今日は休もう。 私も君も混乱している。」 「............。」 「......私はね、紫音。」 誠一郎は紫音の華奢な体を引き寄せて 優しくその背中に手を回した。 彼は拒否しなかった。 「どんな君であったとしても...... ーー愛しているよ。」 精一杯の愛の告白ーー もう、 そんなことしか私に出来る事はない。 紫音は小さく震えて、 嗚咽を殺していたがーー その腕が再び 私を抱きしめる事はなかった......。

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