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03 二度とせん
掌にいつの間にか爪が食い込んでいた。握り込んでいたらしい。
先ほどまで温かかった指先は、すっかり冷えている。
ゆっくりとその指を開く。何故か硬直して、うまく動かしにくい。
「勘違いした。すまん」
手早くベッドから下り、床に散乱していた下履きとズボンに足を通す。
そのまま上着を掴んで袖を通し、ボタンを留めようとして、指先が思うように動かず、穴をひとつ違えて留めてしまった。
すぐに気付いたが、直す気にはなれず、そのまま手を下ろす。
「あ、アレクセイ……?」
ヨゼフが上掛けを撥ね除ける音がしたのに、振り向く気になれない。
「ま、待って、アレクセイ、なあ」
歩き出そうとした途端、腕を掴まれる。
振り払おうとしたが、力ではヨゼフの方が上で、うまくいかなかった。
「な、なあ。なあなんか喋って……」
「………」
「ちが、ちがうんだって。その、俺、あの……」
「………」
「だから、あの、」
少しだけ振り返って、掴まれた腕に視線を落とす。
ヨゼフの白い指が、俺の褐色の肌に食い込んでいる。
「………ヨゼフ・バーチャ」
「えっ、は、はい」
「離せ」
「……っ!」
名前を呼んだだけで、ヨゼフの手がわずかに強張った。
それから、するりと指がほどける。
自由になった腕をすぐに引き寄せた。
ほっと息が漏れたことが、何だかおかしかった。
いつもの俺なら、名残惜しんだだろうに。
「ア、アレクセイ……」
「………」
困らせている。
何か言わなければと思った。
このままでは、ヨゼフに変に気を使わせてしまう。
「………しつこくして悪かった」
「えっ」
「悪かった、ヨゼフ・バーチャ。二度とせん」
「えっ」
それ以上は、何も言えなかった。
ヨゼフの顔を見ないまま、踵を返す。掛け違えたボタンも、そのままだった。
扉を開け、そのまま外へ出る。
「えっ……ア、アレ、アレクセイ、……まっ、まって、なあ、」
水の中から突然打ち上げられた魚にでもなった気分だ。呼吸がひどく苦しい。息がうまくできない。
それなのに、心臓の音だけがどくどくとやけに煩い。血が巡っている。巡っているのに、いやに寒い。
朝の寮の廊下を歩く足音だけが、妙に大きく耳に響く。
背後で何か声がした気がしたが、振り返らなかった。
◇
帰りたい。
そんなことを思う自分が、悔しかった。
国のために来た。兄上や姉上、父上母上のために、たくさん学んで帰るのだと胸を張って出てきた。優秀な人材だって必ず連れて帰ると豪語した。
それなのに、異国に来て数週間。十歳の俺は学院の中庭で、膝を抱えて泣いていた。
「……うぅ……っ」
鼻を啜る音が自分でも情けなくて、膝に顔を押しつけた。
帰らない。帰るものか。
海や山々に囲まれた俺の国は、生活必需品である魔導具を動かす為に必要な魔鉱石等の資源が豊かなこともあって、数々の同盟国に恵まれている。気候も常に温かく、人々もおおらかで、貧富の差もあまりない。笑顔の絶えない素晴らしい国だ。
でも魔術だけは、他の国より少し遅れている。
父上も兄上も、それを心配していた。今は豊富な魔鉱石と同盟国に守られている。でも、それが永遠に続くとは限らない。
必要なのは、身を守る術だ。魔術だ。先進国に並ぶほどの魔術への理解と発展が、平和を続ける何よりの近道だった。
みんな、分かっている。きっと分かっているのだ。分かっているのに、誰もそこに手をつけようとしない。
今の時代の幸福をただ授与している。
それではだめだ。
今の俺たちだけでは意味がない。未来だ。未来に、この幸福をつなげるのだ。
誰もやらないのなら、俺だ。俺がやればいい。幸い、俺の家は公爵家。権力も資金も豊富で、俺がやりたいと言えば誰も止めない。
この国では、次男以下はみな他国へ留学し見識を深めるのが常識となっている。ならば、俺は魔術が豊富な国へ留学する。
立派になって、兄上と姉上と父上と母上に褒めてもらうのだ。技術も知識も人も、持って帰れるものは全部持って帰る。
そう決めて海を渡ってきた。
だから帰らない。でも帰りたい。
今日の授業だって、本当ならちゃんとできた。何の問題もなかったはずだった。
魔術実践科との合同授業。俺の所属する魔術運用科でも、国土管理や防衛に必要な基礎魔術は学ぶため、こうして時折、実践科の生徒たちと合同で実技を受けることがある。
魔法陣を描くこと自体は難しくなかったし、術式だって知っている。
なのに、教師の説明が分からなかった。
早い。言葉が多い。知らない単語が混ざる。
聞き取れたところだけで何とかやろうとしたら、最後の最後で術式を反転させる場所を間違えた。
魔術科には青みがかった銀髪の子がいて、その子は教師の説明を聞くなりすんなりと術式を成功させた。
水で出来た龍が綺麗な弧を描いて宙に浮かんでいた。その後を追うように黒髪の子が続いて、銀髪の子の龍より少し小さな水の虎を出した。美しい虎が、ゆらゆらと尻尾を揺らす。
彼らの他にも少しずつ周りで術式が展開されていく。
俺の魔法陣だけが、最後まで発動しなかった。
「逆だよ。逆。違うんだ、逆なんだよ! いいかい、この魔法陣はね、川の流れと同じなんだ。ここまで集めてきた大量の魔力を、最後のこの一画で、あえて逆行させることで強い水しぶき……つまり魔法の効果を生み出す仕組みになっている。なのに君は、川の勢いをそのまま真っ直ぐ流して、魔法陣の外に逃がしてしまっているんだ。逆、リバースだよ。押し出すんじゃなくて、引き戻す。右に回すんじゃなくて、左に捻る。最後の文字のハネを、内側じゃなくて外側に向けて書くんだ。そうすることで、せき止められた魔術式がパッと反転して、バチッと火花が散る。ほら、君の国にも『陰と陽』とか『光と影』みたいな概念はあるだろう? それと同じさ。最後のピースは、今までと真逆の力を置かなければ、この陣は目を覚ましてくれないんだよ」
早口でよく分からない。
自分の描いた魔法陣を見る。何が逆なのか分からない。たぶんさっきも説明していた部分だ。折角もう一度話してくれているのに、上手く聞き取れない。
魔術を使えないわけではない。
国では褒められていた。兄上より上手くできて、兄上が悔しがったことだってある。姉上は俺の頭を撫でて、アレクセイは賢いね、と笑ってくれた。
なのに、この国では、説明ひとつ分からない。
『言葉が、分からないだけなのに……ッ!』
誰に言うでもなく、母国語で小さく吐き捨てた。
悔しい。帰りたい。
姉上は今頃何をしているだろう。兄上たちは。父上は、母上は。
国ではいつも誰かが傍にいた。姉上が髪を結ってくれたり、兄上が剣の稽古に付き合ってくれたり、母上が膝の上に乗せてくれた。
もう十歳だからやめなさいと父上に言われたけれど、父上だって俺が乗れば笑っていたではないか。
夕食はみんなで食べたい。朝起きたら誰かに会いたい。寝る前には誰かに今日の話を聞いてほしい。
ここにも世話をしてくれる者はいる。
優しい人もいる。
でも違う。俺の家族ではない。
同じ年頃の子供たちは大勢いるのに、誰も俺の言葉が分からない。俺も、みんなの言葉が半分も分からない。
それが急に、どうしようもなく寂しくなった。
『……かえりたい……』
今度は声に出た。涙がまた落ちた。
人前では泣かないようにしていた。国のために来たのに、泣いているところなんて見せられない。でも、今は誰も見ていない。
授業棟から少し離れた中庭の端は人気がない。植え込みの陰にある石の段に座っていれば、そうそう人も来ない。
そのはずだった。
「……何してんの」
びくっと肩が跳ねた。
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