5 / 8
第5話
二人が家に帰ると、玄関の前に小さな動物の姿が見えた。
二人に気が付くと、駆け足で駆け寄ってくる。
「ニャーニャー」
「猫だ!」
セラードが屈んで手を伸ばすと、猫は甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らしながら、その脚に身を寄せた。
「これ、よく、ネットの短い動画で飼う流れになるやつ見たぞ!」
「うちには、既にでっかい犬がいるので飼えませんよ」
「犬なんかいたか?」
「ニャー」
猫は足元から、じっとセラードを見上げている。
賢い猫だ。
「猫も俺から離れたくないってさ」
犬が自分のことだと気づいていないのか、足元の猫を見ながらセラードは嬉しそうに微笑んでいる。
その無邪気な横顔に、ソリスは思わず頬を緩めた。
「仕方ないですね。セラードの封印が解けたら、飼っていいですよ」
「えっ!?」
セラードの目が、大きく見開かれる。
「どうかしました?」
「……いや。嬉しい」
泣きそうになるのを堪えるように、セラードはその場に座り込むと、猫の背をそっと撫でた。
大きな手のひらが、慈しむように何度も小さな体を往復する。
「封印が解けたら、必ず飼ってやるからな。また、家の前に来いよ」
「ニャーっ」
猫は応えるように一声鳴くと、名残惜しげにセラードの脚に頬を擦り付けてから、夕闇の中へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ソリスは目を細める。
「賢い猫ですね。もしかしたら、人間の言葉が分かるのかも」
「そうかもしれないな」
まだ、猫の消えた方を見ているセラードの背中が、少しだけ寂しそうに見えて、ソリスは家の扉を開けながらそっと付け加えた。
「餌くらいなら、あげてもいいですよ」
「いいのか!やった!」
たちまち破顔したセラードに、ソリスはくすりと笑う。
二人は寄り添うようにして、家の中へと入っていった。
家に入ると、ソリスはセラードをソファに座らせ、薬箱を持ってきた。
「手を、出してください」
差し出された拳は、皮が裂けて土と血が混じっている。骨は無事そうだ。
ソリスは水で汚れを流してから、薬箱の小瓶を取り出した。
中身は、昨日のうちに調合しておいた軟膏だ。前にセラードに使ったものより効き目は緩やかだが、魔力を持たない身体でも痛まない。
「今度は、痛くないですから」
「……あぁ」
返事は短かった。
セラードは自分の手元を見ているようで、どこも見ていない。
塗り込んでも、指を曲げても、反応がない。
沈黙が、部屋に降り積もっていく。
血を拭う手が、ふと止まる。
さっき、ジグナードはこの紋章の呪いでセラードが死ぬと言っていた。
でも、変だ。
処刑したと偽ってまで生かしたのに、死の呪いをかけるだろうか。
生かした手と、殺そうとする手。
同じ人がやったにしては、ちぐはぐすぎる。
——もしかしたら、封印と呪いは、別の人間の仕業なんじゃないだろうか。
少なくとも、この呪いをかけた誰かはセラードの力を、心底恐れていた。
「……俺は、また殺されるのか」
包帯を巻く手が、止まった。
絞り出すような声だった。
「わけもわからず封印されて、目が覚めたら、今度は一ヶ月で死ぬときた。……俺の命は、いつも他人に握られてる」
セラードの握りしめた拳が、小さく震えていた。
ソリスは、その手をそっと包み込む。
固く閉じられた指を一本ずつほどくように開かせると、自分の指をその隙間に滑り込ませた。
大きな手だった。骨ばっていて、傷だらけで、まだ冷たい。
その指の間に、自分の指が収まっていく。
まるで、最初から二人で一人だったみたいに。
「……ソリス?」
顔を上げたセラードと、目が合う。
紫の瞳が、頼りなく揺れていた。最強の魔道士と呼ばれた男の、こんな目を見るのは初めてだ。
胸の奥が、静かに焼ける。
「セラードの封印は、俺が必ず解きます」
握る手に、力を込めた。
「大丈夫。あなたは、一人じゃない」
言葉にした瞬間、腹部の痣がふわりと熱を帯びた。
痛みではない。あの焼けるような熱とは違う、心から温まるような心地よい温もり。
セラードの首筋の紋章も、呼応するように淡く光っている。
まるで、二つの印が共鳴しあっているようだった。
繋いだ手のひらから、静かに何かが流れ込んでくる。
——あぁ、そうか。
この人を死なせたくないんだ。
薬師として救いたいんじゃない。責任を感じているからでもない。
ただ、セラードに生きていてほしい。
「……ソリスは」
セラードが、握り返してきた。
「ソリスは、不思議なやつだな」
出会った日と同じ言葉。
けれど、あの時より、ずっと近い。
しばらく、二人はそのまま動かなかった。
やがて、ソリスは名残惜しさを振り切るように、そっと手をほどく。
「それに、まだ、調べていないものがありますし」
言いながら、視線を落とした先は、セラードの腹部だった。
シャツの下に、あの本が隠されている。
図書館で、あの老人から渡された本が。
「この本、明らかに怪しいけどな」
セラードが、片手で服を捲って本を取り出す。
その拍子に、またもやセラードの白い肌がちらりと見えてしまい、途端に、ソリスの頬が赤く染まる。
「どうかしたのか?」
「なっ、なんでもないです! 本! 本を見ましょう!」
ソリスは真っ赤になりながら、立ち上がると、台所に向かった。
台所に行くと、二人分の茶を淹れる。
高ぶった気持ちを鎮めるように、湯気の立つカップをセラードの前に置く。
「まずは、少し落ち着きましょう」
「俺は、落ち着いてるけど」
セラードは両手でカップを包み込むと、その温もりを確かめるように、ゆっくりと口をつけた。
冷え切っていた指先に、少しずつ血の色が戻っていく。
それを見届けてから、ソリスはセラードの隣の椅子に座り、テーブルの上に、置いてある本を見た。
図書館で、あの老人から渡された古びた本。
表紙には、セラードの紋章とよく似た模様が、色褪せて刻まれている。
「……開きますよ」
ソリスがそっと表紙をめくると、古い紙の匂いが立ちのぼった。
ともだちにシェアしよう!

