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第9話
目を開けると、見慣れた天井があった。
白い。消毒の匂いがする。
(ソルヴァンの病院……?)
身体が重い。特に右肩が、脈打つように熱を持っている。
「動くな」
聞き慣れた声がした。けれど、いつもの気だるげな響きじゃない。
視線だけ動かすと、ベッドの脇に弟が立っていた。眼鏡の奥の目が、傷口だ
けをまっすぐに見ている。
「ソルヴァン……」
「肩の脱臼は戻した。肋骨にヒビ。頭は打ってない。運がよかったな」
淡々と、事実だけを並べていく。手は止まらない。包帯を巻く指先に、迷い
がない。
「今から鎮痛の魔法をかける。息を吐いて」
言われるまま、息を吐く。
温かいものが、肩の奥に染み込んでいった。熱が引いていく。自分が使う回
復魔法とは、桁が違う。
「……ありがとう」
「礼はいい。無駄に、俺の魔力を使わせるようなことを今後はするな」
ソルヴァンの言葉に、ソリスは身を縮めた。
魔法が免許制となり、魔力を生み出す根源も乏しい今の時代、無制限に魔法
が使えるわけではない。
そして、使った分、体力の消耗も激しい。
包帯を留め終えると、ソルヴァンはようやく顔を上げた。
そして、部屋の隅に目をやる。
ソリスもつられて視線を追った。
セラードが、そこに立っていた。
壁際に寄りかかり、濡れた髪も服もそのままに、黙ってこちらを見ている。
「……で、そちらは?」
ソルヴァンの声が、いつもの気だるげなものに戻っていた。
「兄さんを担いで駆け込んできて、受付で自分の名前も言えずに、ソリスが怪
我をしたから俺を呼んでくれって叫んでたって」
ソリスは、セラードを見た。
雨に濡れたシャツが、まだ肌に貼りついている。腕には、木の枝で切ったの
だろう擦り傷がいくつも走っていた。手当てをした様子はない。
自分の治療が終わるまで、ずっとそこに立っていたのだ。
「セラード……」
呼びかけると、セラードは一度だけ目を合わせて、すぐに逸らした。
「……俺が、悪かった」
それだけ言って、また黙る。
ソルヴァンが、深いため息をついた。
「で、兄さん。何があったか聞いていいか?」
椅子を引き寄せて、ベッドと壁の間に座る。ちょうど、二人の真ん中だ。
「こいつは何者なんだ?」
沈黙が落ちた。
セラードは、壁際で不安そうに目を伏せている。
もう、そんな顔はさせたくないと、ソリスはソルヴァンにこれまで起こった
ことを話した。
「信じ難いし、色々と言いたいことはあるが、あの森には二人で行くって約束
しただろ」
ソルヴァンは、眼鏡を押し上げた。
「兄さん、昔から人のために動きすぎるんだよ」
「……ごめん」
「俺に謝られても困る」
弟の視線が、壁際に移る。
「あんたも、ずっとそこに立ってるけど、その擦り傷、痛いだろ」
セラードが、わずかに顔を上げた。
「……大したことない」
「患者が言う『大したことない』を、俺は信用しないことにしてる」
ソルヴァンは立ち上がると、救急箱と、塗り薬の入った瓶を、セラードの近
くのサイドテーブルに置いた。
「ソリスが作った軟膏だ。自分で塗れるか?」
セラードは置かれた瓶を見つめたまま、動かない。
その様子を眺めて、ソルヴァンはもう一度ため息をついた。
「……あのな。二人とも」
眼鏡の奥の目が、初めて呆れたように細くなる。
「言いたいことが、あるんだろ」
ソリスの肩が、跳ねた。
「俺は席を外すから、その間に仲直りしろ。素直になれば、大抵のことは上手
くいく」
「ソルヴァン、俺は別に……」
「兄さん」
弟は扉に手をかけて、振り返らずに言った。
「大怪我負うまで追いかけといて、それはないだろ」
扉が閉まる。
病室に、二人だけが残された。
沈黙が、病室に落ちる。
雨はまだ、窓を叩いていた。
セラードは、置かれた瓶を見つめたまま動かない。ソリスも、何から言えば
いいのか分からなかった。
(言いたいこと、あるんだろ)
弟の声が、耳に残っている。
あるに決まっている。あるのに、言葉にした途端に今のセラードとの関係が
壊れてしまいそうで、怖い。
「……セラード」
呼ぶと、肩がわずかに揺れた。
「こっちに来て、座ってください」
「……いい。俺は」
「風邪をひきます」
言い切ると、セラードはようやく壁から背を離した。
のろのろと歩いてきて、さっきまでソルヴァンが座っていた椅子に腰を下ろ
す。ベッドとの距離が、拳ひとつぶん空いていた。
近くで見ると、ひどい有様だった。
髪から水が滴っている。腕の擦り傷は、雨で洗われて血が止まったまま放置
されていた。指の関節が、切れている。
「手、見せてください」
「……治療されるのは、お前のほうだろ」
「俺はもうだいぶ治りました。でも、セラードはまだです」
反論を待たずに、ソリスは瓶に手を伸ばした。左手だけでは蓋が開かない。
「貸してみろ」
セラードが取り上げて、あっさりと開ける。
そして、開けた瓶を持ったまま、また動かなくなった。
「……なんで、追ってきた」
低い声だった。
「あんな雨の中を。傘も持たずに」
「セラードが、急に飛び出していったからです」
「はぁ?」
「追うことしか考えてなくて、傘のことなんて忘れてました」
セラードが、顔を上げた。
呆れたような、それでいて泣きそうな目をしていた。
「……馬鹿だろ、お前」
「よく言われます」
「俺のせいで、死にかけたんだぞ」
「セラードのせいじゃありません」
「俺が出ていかなければ」
「俺が泣かなければ、あなたは出ていかなかった」
セラードが、言葉を失う。
ソリスは覚悟を決めて、瓶を持つ大きな手に、そっと自分の手を重ねた。
「……あの時、なんで俺が泣いたか、聞いてもらえる?」
答えはない。けれど、手は振り払われなかった。
「呪いを解くためだって言われて、それでキスされるのが、嫌だった」
「……嫌」
「違う。キスされるのが嫌なんじゃなくて」
顔が熱い。それでも、目は逸らさなかった。
「理由が、それだけなのが、嫌だった」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
セラードは、瓶を持ったまま固まっている。耳が、みるみる赤くなっていく
のが見えた。
「……それは」
「はい」
「それは、つまり」
「はい」
「……いや、待て。待ってくれ」
セラードは空いた手で顔を覆うと、椅子ごと後ろに下がった。
「頭が、追いつかない」
「また頭を冷やしに行く?」
「行かねぇよ!」
叫んでから、はっとしたように口をつぐむ。ここが病院だと思い出したらし
い。
その慌てぶりがおかしくて、ソリスは思わず笑ってしまった。
笑うと、肋骨が痛んだ。
「……痛むのか」
「少しだけ」
セラードは、ようやく瓶の中身を指先にすくった。
その指は、彼自身の腕ではなく、ソリスの手の甲へと伸びた。
擦り傷が、いくつも走っていた。斜面で枝を掴もうとした時のものだ。
「……こっちが先だ」
大きな指が、驚くほど慎重に軟膏を塗り込んでいく。
不器用で、遅くて、けれど丁寧だった。
腹部の痣に、静かな温もりが灯る。
「……キスしようとしたのは、呪いのためだけじゃない」
手を止めないまま、セラードが言った。顔は上げないが、首筋が赤くなって
いる。
「それだけは、言っておく」
「セラード……」
「これ以上は聞くな。……俺にも、まだ、はっきりは分からねぇ。でも、ソリ
スの言葉も敬語が抜けたのも……」
セラードは照れくさいのか、声を次第に小さくして、途中で黙り込んでしま
う。
「その先、聞かせて」
ソリスがセラードの手を握りながら、優しく微笑む。
セラードは恥ずかしそうに俯きながら、震える声で呟いた。
「嬉しい」
言い終わったセラードは、首筋まで真っ赤になっていた。
そんなセラードを、ソリスは愛おしい気持ちで見守る。
「……セラード」
「なんだ」
「次は、セラードの傷を治す番」
塗り終えた指が、ぴたりと止まった。
「は?」
「まだ手当てしてないでしょ」
「俺のは、いいって言ってるだろ」
「それだけは、聞いてあげない」
セラードが顔を上げた。呆れた顔をしている。けれど、耳はまだ赤いまま
だ。
「動けるのか、その身体で」
「腕は動くから、手を出して」
しばらく睨み合ったあと、先に折れたのはセラードだった。舌打ちひとつし
て、大きな手をベッドの上に投げ出す。
手に取ってみると、思っていたよりずっとひどかった。
指の関節が、どれも皮が剥けている。斜面を降りる時、木の幹や岩を掴んだ
のだろう。爪の間に土が入り込んで、乾いた血と混ざっていた。
「……これ、痛かったでしょう」
「覚えてねぇ」
「嘘」
「本当だ」
セラードは、ふいと横を向いた。
「あの時は、痛いとか、そういうのが全部どっかに行った。首の紋章の熱が、
いきなり引いて、それしか頭になかった」
ソリスは、手を止めた。
「……俺の痣も、熱くなってた」
「ソリスもか。紋章から、ソリスの温かい気配がずっと届いてたんだ」
さらりと言われた言葉に、心臓が跳ねる。
(ずっと、感じてくれてたのか)
「それが、急に途切れた。……あの時ほど、魔力がねぇことを呪ったことはな
い」
悔しさの滲む声だった。
ソリスは黙って、湿らせた布で土を拭った。乾いた血が少しずつ落ちて、傷
の形が見えてくる。
思ったより、深い。
「セラードは、あの崖をどうやって降りたの?」
「降りたっつーか、落ちた」
「落ちた?」
「ソリスと同じところをな。斜面の上から見て、あそこにお前がいるって分か
ったから、そのまま行った」
ソリスは、思わずセラードの顔を見た。
「……道を探さずに?」
「探す時間が惜しかった」
なんでもないことのように、セラードは言う。
雨の中、暗い森の斜面を、魔法もなしに滑り降りた。そして、人ひとり抱え
て、また登った。
(この人は)
胸の奥が、じんと熱くなる。
「俺のを塗るなら、痛くねぇやつにしろよ。最初のあれは二度とごめんだ」
「あれは魔力がある人用だったから。今は大丈夫」
軟膏をすくって、剥けた皮の上にそっと乗せる。指の腹で伸ばすと、セラー
ドの手が小さく震えた。
「……痛む?」
「いや」
「じゃあ、なんで」
「うるせぇ」
顔を背けたまま、耳がまた赤くなっている。
その様子がおかしくて、ソリスは笑いを噛み殺しながら、丁寧に塗り込んで
いった。
包帯を巻き終える頃には、雨音が少し弱まっていた。
「……傷、早く良くなるといいなぁ」
「あぁ」
セラードは巻かれた手を眺めて、それから、ぽつりと言った。
「お前、いつもこうやって人を治してんのか」
「うん、そうだけど」
「そうじゃなくて」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
「自分がボロボロでも、他人を先に治すのか」
「……そうかも」
「馬鹿だな」
「知ってる」
ふ、とセラードが笑った。
出会ってから見た中で、いちばん自然な笑い方だった。
その時、扉が二回叩かれた。
「入るぞ」
返事を待たずに、ソルヴァンが入ってくる。ちらりと二人を見て、それから
包帯の巻かれたセラードの手に目をやった。
「……仲直りは済んだか」
「それなりには」
「で、この人の治療は兄さんがしたのか」
ソリスは、ぐっと言葉に詰まった。
「そうやって、自分の怪我より人を優先する。そんなことしてたら兄さん、い
つか身体を壊すぞ」
弟は呆れたようにため息をつくと、カルテを捲る。
「兄さんは今夜だけ入院。明日には帰れる。ただし」
眼鏡越しの目が、まっすぐこちらを向いた。
「肋骨のヒビは、魔法じゃ完全には治らない。骨は時間をかけてくっつくもん
だ。二週間は無理をするな」
「二週間……」
一ヶ月しかないのに。
表情に出たのだろう。ソルヴァンが眉を上げた。
「その顔はなんだ」
「……なんでもない」
「まあいい。それとな」
ソルヴァンはカルテを閉じると、思い出したように言った。
「知り合いが温泉宿をやってる。山の方で、湯治用の古い宿だ」
「温泉?」
「兄さんの骨にも、そこの湯は効く。……それに」
ソルヴァンがちらりと、セラードを見る。
「そっちの人。百年ぶりに目が覚めて、いきなり呪いだの何だので、休む暇も
なかったんだろ」
セラードが、意外そうな顔をした。
「あんた、俺の心配してんのか」
「してない。兄さんが心配してる顔を見るのが面倒なだけだ」
言い捨てて、ソルヴァンは扉に向かう。
「話は通しておく。二人で行ってこい」
「二人で……」
「他に誰が行くんだ」
扉が閉まる音がした。
病室に、また二人だけが残される。
ソリスは、包帯の巻かれた手を見つめているセラードを、そっと窺った。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
次の日、退院の許可が出て、二人は家に帰った。
すると、家の玄関の前に猫が座っていた。
「あっ。あの猫」
セラードに、飼ってもいいと約束した猫だ。ソリスがはしゃいで駆け寄る
と、その後をセラードも追う。
猫のほうも二人に気づいて駆け寄ってくると、目の前で立ち止まった。
ソリスはしゃがんで、猫の目を見ながら頭を撫でる。
「お腹空いてるの?」
「ニャーッ」
「ささみ茹でるから、ちょっと待っててね」
ソリスは立ち上がると家に入っていく。
残されたセラードはしゃがみ込むと、猫を睨みつけながら舌打ちをした。
「チッ。なんだよ。ソリスの方が猫にデレデレじゃん」
猫もしゃがみ込んで、セラードを見ながら、目を細めて嬉しそうに鳴いた。
「ニャーッ」
「ちげぇ! 妬いてないからな!」
ソリスが、茹でて冷ましたささみを乗せた皿を持って、家の扉を開けると、
猫を睨みつけながら顔を真っ赤にしているセラードと、毛繕いをしている猫が
見えた。
「でっかい犬と猫の争いは、猫が勝ったのか。やっぱりこの猫、賢いな」
ソリスに気づいたセラードと猫がこちらを見ると、競うように駆け寄ってく
る。
「どういうこと⁉」
足元に擦り寄ってくる猫の前に茹でたささみを乗せた皿を置くと、それを見
たセラードが吠えた。
「俺にも茹でたささみくれ!」
「いや、セラードには別の夕飯作るって。今日はささみの大葉巻きフライだ
よ」
「なんだそれ! 美味そう。怪我、まだ完治してないだろ。俺も手伝う」
猫は夢中になって、ささみを食べていた。
その姿を見たセラードは、心配そうに眉をひそめる。
「ところでこいつ、俺たちが留守の間、大丈夫か?」
「うーん。心配だから、ソルヴァンに頼んでみる」
「あの強気な弟が、猫に餌あげて猫じゃらし持ってる姿、ちょっと見てみたい
かもな」
「ソルヴァンは昔から動物に好かれやすいし、この猫もすぐに懐くと思う」
猫がささみを食べ終えると、ソリスはしゃがんで猫の頭を撫でる。
「明日から、しばらく温泉に行ってくるから、その間、俺の弟に面倒見てもら
ってね」
「ニャーッ」
頭から手を離すと、猫は名残惜しそうに手に顔を擦り付けてから走り去る。
ソリスは、猫が消えた方をしばらく眺めていた。
「あの猫、ソリスに懐いてるな」
セラードの方を向くと、彼はささみの入っていた皿を持ったまま、不貞腐れ
たように猫のいた地面を眺めていた。
その姿にソリスは頬を赤く染めながら、口角を上げる。
「もしかして、セラード。猫に嫉妬してる?」
セラードの顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。
「ちげぇ! 妬いてないからな! 腹減ったし、家の中入るぞ!」
皿を持って立ち上がったセラードは、赤くなった顔を隠すように、玄関へと
向かっていく。
「あ、その皿、セラードが洗ってくれるの?」
ソリスが後をついていくと、セラードが振り返った。
「今日はな」
そう言って照れながら笑うセラードと西陽が重なって眩しく見え、愛しさに
胸がいっぱいになる。
家の中に入ろうとした時、ふと視線を感じて振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
(前にもこんなことがあったような……)
「ソリス、どうしたんだ?」
「なんでもない」
不安をかき消すように家に入り、扉を閉めて鍵をかける。
明日からは温泉に行く。きっと国の監視もそこまでは届かないだろう。
「夕飯食べ終わったら、明日の準備しなきゃ」
妙に張り切るソリスの隣で、セラードは警戒するように扉の方を見つめてい
た。
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