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第10話
次の日、二人は山へ向かうバスに揺られていた。
山道を登るバスは、二時間に一本しかなかった。
窓の外を流れる景色から、少しずつ建物が消えていく。街の監視カメラも、
途中から見当たらなくなった。
「電波、届かないのか」
スマートフォンの画面を見て、ソリスは呟いた。
セラードは窓に頬杖をついたまま、外を見ている。
「……いや。でも、たまにはこういうのも、いいな」
セラードの言葉を聞いて、ソリスは微笑む。
百年前から来た男には、監視やしがらみのない土地のほうが息がしやすいの
かもしれない。
身体を休めるには外からの刺激がない方がいいという、ソルヴァンの計らい
でもあるのだろう。
それに、二人の時間を過ごすのにも、ちょうどいい。
呪いの期限まで、あと二十七日。
ソルヴァンに言われた『素直になれば、大抵のことは上手くいく』というア
ドバイスを、実践してみよう。そう心に決めて、ソリスは窓の外を眺めるセラ
ードを見つめた。
宿は、山の中腹にぽつんと建っていた。
木造の古い建物で、看板の文字は掠れている。
「いらっしゃい。ソルヴァン先生から聞いてるよ」
出迎えたのは、腰の曲がった老婆だった。ソリスの包帯を一瞥して、うんう
んと頷く。
「骨だね。うちの湯はよく効くよ。ゆっくりしていきな」
案内された部屋は、二階の角部屋だった。
畳の匂いがする。窓を開けると、山の空気が入ってきた。
「……部屋、相部屋なんだね。布団も一組しかない」
「聞いてなかったのか」
「聞いてなかった」
弟の顔が浮かぶ。あの気だるげな表情で、わざとやったに違いない。
セラードは荷物を置くと、部屋の隅に腰を下ろした。
この二日、ずっとこんな調子だ。近くにいるのに、一定の距離を保ってい
る。触れそうで触れない。
(意識してるのは、俺だけじゃない)
そう思えるようになったのは、進歩なのかもしれない。
ソリスは覚悟を決めると、座り込んでいるセラードに近づいた。
「一緒に温泉入ろうよ」
身を屈めると、彼はこちらを見上げながら顔を真っ赤にする。
「一緒にって……裸でか⁉」
「裸以外にどうやって入るの?」
何も言えなくなったセラードは、しばらく考え込んだ後、結んでいた口を開
く。
「仕方ない、一緒に入るか。怪我もまだ完治してないし、風呂で倒れる心配も
あるからな」
「温泉上がったら、牛乳飲もう。あと、温泉饅頭も食べたいな」
「牛乳と温泉饅頭……」
セラードは興奮したように立ち上がる。
「まだ、美味いものがあるのか! 今すぐに温泉行こう」
そそくさと温泉の準備を始めるセラードを微笑ましく眺めてから、ソリスも
支度に取りかかった。
温泉は宿の離れにあり、人の気配はなかった。
脱衣所に入ると、二人はロッカーの前で服を脱ぎ始めた。
「俺は、包帯を外すのに時間かかるから、先に入ってて」
「俺が外す」
セラードは当然のように、ソリスの前に屈んだ。
「えっ」
「肩、まだ痛むだろ」
大きな手が、包帯の端に触れる。
慎重に、ゆっくりとほどいていく。指が肌をかすめるたびに、心臓が跳ね
た。
「……セラード」
「動くな。傷に障る」
低い声が、すぐ近くで響く。
自分と同じ整髪料の香りが鼻を掠める。
セラードは、ほどいた包帯を綺麗に畳むと、ソリスにそれを差し出す。
「風呂あがったら、巻きなおしてやる」
「あ、ありがとう」
顔が熱い。包帯を受け取って見上げると、セラードも耳を赤くしながら、目
を逸らしていた。
(この人も、平気じゃないんだ)
ソリスはそこで気がつく。
この後、温泉に入るということは、セラードの肌を見ることになる。
そして、その後は一緒に部屋で食事をして、同じ布団で眠るのだ。
これは、ソルヴァンに感謝しなければいけない。
お土産は、温泉饅頭と温泉卵にしよう。そう決めて、ソリスは傷に障らない
よう服を脱ぎ、ロッカーへと収めた。
ふと、セラードの方を見ると、紫色の瞳と目が合う。
恥ずかしさで真っ赤になりながら、咄嗟に目を逸らした。
「ソリス。温泉ってタオルで身体隠したらいけないんだよな」
「隠すのはいいけど、お湯に浸けるのはダメだよ。セラードは温泉に入るの初
めて?」
「あぁ」
「じゃあ、まずは身体洗わないといけないから、俺がセラードの背中、洗って
あげる」
「せっ、背中⁉」
言いながら、耳の先まで赤く染まっていく。
「俺に洗われるの嫌?」
「嫌じゃないけど……」
セラードは赤い顔のまま、観念したように浴室に入ると、洗い場の椅子に腰
を下ろした。
広い背中が、湯気に当てられて、薄く色づいていた。
肩甲骨の形がはっきり見えて、そこから腰にかけて、鍛えられた筋肉が緩や
かな線を描いている。
(……綺麗だ)
「どうした」
「なんでもない」
顔が赤くなっているのに気づかれないように、慌てて泡立てたタオルを手に
取る。
そっと背中に当てると、セラードの肩がびくりと跳ねた。
「つっ」
「痛かった?」
「……いや。くすぐったい」
耳が赤い。
恥ずかしいのはお互い様なんだと気がつき、笑いを堪えながら、ゆっくりと
セラードの身体を洗っていった。
肩、背中、そして──首筋。
そこには、紋章があった。
赤黒い幾何学模様。生き物のように蠢いていたそれは、今は静かに肌に張り
ついている。
(セラードの命を奪おうとするこの紋章が憎い)
紋章を睨みつけていると、後ろに振り向いたセラードと目が合う。
「すげぇ怖い顔して、どうした?」
「えっ! そんな顔してた?」
確かに、紋章が憎いとは思ったが、そんな怖い顔をしていたのだろうか。
「してた。ソリスってそんな顔もするんだな。で、どうしたんだ?」
心配そうに見つめてくるセラードに、申し訳なさで心が締め付けられる。
「セラードの首筋の紋章が憎い」
手を強く握りしめながら、奥歯を噛み締める。
きっと今、自分は怖い顔をしていることだろう。
でも、紋章が憎くて仕方ないのは事実だ。
セラードは優しい目で、口を開く。
「そうだな。でも、ソリスと一緒にいると不思議とこの紋章も怖くない」
セラードは自分の首筋の紋章にそっと触れながら、ソリスの怒りを掻き消す
ように微笑む。
百年封印されて、命を狙われているセラードが、自分と一緒にいると心強い
と言っている。
それが嬉しくて、目を潤ませながら、顔を赤く染めた。
今さら、自分が何を言ったのか気づいたらしく、セラードも顔を赤くしなが
ら黙り込む。
湯の音だけが、浴場に響いていた。
湯は、白く濁っていた。
硫黄の匂いが立ちのぼっている。肩まで浸かると、骨の奥まで熱が届くよう
だった。
「……これ、効くね」
「あぁ」
隣で、セラードが目を閉じている。
湯気の向こうに見える横顔を、ソリスはそっと盗み見た。
銀色の髪が濡れて、首筋に張りついている。
「……なぁ」
「ん?」
「風呂ってのは、いいもんだな」
セラードは湯を掬って、指の間からこぼした。
「うん」
そう言って、目を閉じたまま息を吐く。
ここのお湯には、魔力が宿っているのだろう。肩の痛みが、少しずつ溶けて
いくようだった。
湯から上がる頃には、身体がぽかぽかと火照り、痛みもすっかり引いてい
た。
脱衣所で、セラードに包帯を巻きなおしてもらった後、隅に置いてある自販
機を覗く。
自販機には、ペットボトルの飲み物と一緒に、瓶入りの牛乳が並んでいた。
「どれがいい?」
「いろんな種類があって迷うな」
甘みの強い牛乳に低温殺菌牛乳、生クリームの層ができた牛乳まで揃ってい
る。
「俺は、生クリームのにする」
「俺も」
自販機で二本買うと、取り出して一本を手渡す。
セラードは瓶を珍しそうに眺めてから、プラスチックの蓋を開けた。
「こうやって飲むと、美味しいんだよ」
ソリスは腰に手を当てて、瓶を傾けて飲んでみせる。
「なんだそれは」
「美味しく飲めるおまじないみたいなもの」
「おまじない⁉」
セラードは眉をひそめながらも、真面目な顔で腰に手を当てた。一九〇セン
チの巨躯が、湯上がりに牛乳瓶を構えている姿は、妙に様になっていた。
「いくぞ」
「どうぞ」
牛乳を一口飲んだセラードの目が見開かれる。
「……コクがあって美味い。なんだこれは。骨まで染みる」
そのまま一気に飲み干して、セラードは大きく息を吐いた。
「ごちそうさま」
百年前の男が、瓶を空にして満足そうにしている。
その横顔を見ていたら、なんだか胸がいっぱいになった。
温泉から部屋に帰る途中、フロントで温泉饅頭を買った。
蒸したばかりだという。紙袋が、ほんのりと温かい。
部屋に戻って、縁側に並んで腰を下ろす。
山の向こうに、陽が沈みかけていた。空の端が橙色に染まって、稜線だけが
黒く浮かんでいる。
「はい」
饅頭をひとつ渡すと、セラードは両手で受け取った。
割ると、湯気が上がる。中の餡が、艶やかに光っていた。
「熱いから、気をつけて」
「……あぁ」
ふうふうと息を吹きかけてから、セラードが一口齧る。
そして、動きが止まった。
「セラード?」
「…………」
「美味しくなかった?」
「違う」
セラードは饅頭を見つめたまま、低い声で言った。
「美味すぎて、言葉が出ねぇ」
ソリスは吹き出した。
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃねぇ」
セラードは頬張りたいのを我慢しつつ、残りの饅頭も冷ましながら一口ずつ
噛み締めて食べていく。
「……なぁ、ソリス」
「うん」
「俺、今、すげぇ穏やかだ」
夕陽が、銀色の髪を橙に染めていた。
「百年ぶりに目が覚めて、わけも分からず追い回されて、呪いだの死ぬだの言
われて。……正直、ずっと何かに追われてる気がしてた」
セラードは膝を抱えた。
「でも今は、ソリスがそばにいてくれるから、なんも怖くねぇ」
「……セラード」
「湯に浸かって、牛乳飲んで、饅頭食って。それがいいものだって教えてくれ
たのは、全部ソリスだ」
言葉を探すように、視線が彷徨う。
「……ありがとな」
ソリスは、何も言えなかった。
言えば泣いてしまいそうだったから。
この人は、これまでこんな時間を持てなかった。戦時中に生まれて、配給食
を食べて、最後は棺に閉じ込められた。
(俺が、必ずセラードの呪いを解いて、自由にする)
そう思った時、腹部の痣が、じんわりと熱を持った。
「……あ」
「どうした」
「ううん。なんでもない」
陽が、山の向こうに沈んでいく。
部屋の中が、少しずつ暗くなっていった。
夕食は、部屋に運ばれてきた。
膳の上に、皿と小鉢がいくつも並んでいる。
「……豪華だ」
セラードが、膳を見下ろしたまま固まっていた。
山菜の天ぷら。川魚の塩焼き。すき焼き。茶碗蒸し。漬物におひたし。お吸
い物に、炊き込みご飯。デザートのあんみつまで。
「多すぎないか」
「湯治宿だからかな。食べきれなかったら、俺が食べるよ」
「馬鹿言え。全部食う」
セラードは早速、箸を手に取った。
「……これ、昨日、一緒に作ったやつと似てるな」
「これは天ぷらだよ。フライとは衣が違うんだ。横についてる塩をつけて食べ
てみて」
セラードは天ぷらを一つつまむと、塩をつけて、口に運んだ。
「──っ」
「どう?」
「衣が、さくさくする。それなのに中は」
言い終える前に、セラードは次の山菜に齧り付く。
魚を丁寧にほぐし、牛肉を頬張り、茶碗蒸しを一口食べたところで、動きが
止まった。
「柔らかい。……これは、卵か?」
「うん。出汁と混ぜて蒸してある」
「卵と出汁を混ぜて蒸す」
セラードは、スプーンを持ったまま呆然としている。
初めて食べた茶碗蒸しが、よほど気に入ったのだろう。
「俺の分も食べていいよ」
「えっ⁉ 悪いな。でも、食べたい」
「どうぞ」
セラードは茶碗蒸しを受け取ると、自分の分を平らげてから、ソリスの分に
も手をつけた。
次々と皿が空になっていく。時々手が止まり、味を確かめるようにゆっくり
噛んでいる。
その顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
「ソリスは食わねぇのか」
「あ、食べる食べる」
自分の膳が手つかずだったことを思い出し、慌てて箸を取る。
炊き込みご飯を一口食べたところで、セラードがこちらを見ていることに気
づいた。
「……なに?」
「いや」
セラードは視線を逸らす。
「俺が飯食ってる時、幸せそうな顔するんだな」
不意打ちの言葉に、頬が熱くなる。
「初めて会った日もそうだった。ポトフ作って、俺が食ってるのを、ずっと」
そこまで言って、セラードは口をつぐんだ。
耳が、赤くなっている。
(見てたんだ)
あの日、自分がセラードを見ていたように、彼も自分を見ていた。
「……セラード」
「なんだ」
「炊き込みご飯、まだあるよ」
「おかわり!」
照れ隠しのように、セラードが空になった茶碗を差し出してくる。
その仕草がおかしくて、ソリスは笑いながら受け取った。
食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
布団を敷きにやってきた女将は、寝室の畳の真ん中に、ダブルサイズの布団
を一組だけ敷いた。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言って、有無を言わせず女将は部屋を出ていく。
「……一組だね」
「……あぁ」
二人とも、それ以上何も言えなかった。
きっとセラードも頭の中で、ソルヴァンの顔を思い浮かべているに違いな
い。
弟が旅館側に、布団は一組でいいと言ったのだろう。
これは弟に、感謝すべきなのだろうか。
灯りを消すと、部屋は山の闇に沈んだ。
窓は、開けたままにしておいた。夜風が心地よい。
街と違って、外に光はなく、星だけが冴えていた。
一組の布団に、二人で横になる。
ダブルサイズとはいえ、大柄なセラードがいると、距離は近い。肩が触れそ
うで、触れない。
「……狭くないか」
「平気」
本当は、心臓がうるさかった。
隣で、セラードが仰向けになっている。天井を見つめたまま、何か考えてい
るようだった。
「セラード」
「どうした?」
「腕、まだ痛む?」
「いや。……弟の言った通り、この宿は効くな。ソリスが薬草塗ってくれたお
かげもあるけど」
会話が、途切れる。
沈黙が、気まずいわけではなかった。むしろ、この静けさが心地いい。ずっ
とこうしていたいと思うくらいに。
(あと、二十七日)
ふいに、期限のことが頭をよぎった。
この穏やかな時間には、終わりがある。何もしなければ、セラードは死ぬ。
(真の絆で結ばれることか……)
暗闇の中、ソリスは寝返りを打って、セラードのほうを向いた。
銀色の髪が、わずかな星明かりに光っている。その首筋に、紋章があった。
闇の中でも、うっすらと形が分かる。
気づけば、手を伸ばしていた。
そっと、指先で紋章に触れる。
その瞬間だった。
「──っ」
頭の奥が、白く弾けた。
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