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# 第8章 いなくなったHARU

 HARUが変わったと思うようになってからも、和真が店へ行く回数は減らなかった。  仕事が早く終われば向かった。  遅くなっても、営業時間に間に合いそうなら車を走らせた。  今日はやめておこう。  そう思っていたはずなのに、仕事が片づく頃にはHARUの顔が浮かんでいる。  我ながら、どうかしていると思う。 「久世さん、今週三回目じゃない?」  ある夜、HARUが笑った。 「そうだった?」 「月曜、水曜、今日」 「よく覚えてるね」 「担当なんだから当たり前でしょ」  HARUが和真の酒を作る。 「久世さん、暇なの?」 「失礼だな」 「だって忙しいって言ってるわりに来るじゃん」 「忙しいよ」 「じゃあなんで来るの?」  何気なく訊かれた。  和真はHARUを見た。  答えなら、とっくに分かっている。  酒が飲みたいからではない。  この店が好きだからでもない。  初めてここへ来た夜、早く帰りたいと思っていたくらいだ。 「……ここで飲みたいから」 「家にも酒いっぱいあるでしょ」 「あるね」 「じゃあ家で飲めばいいじゃん」 「HARU、客追い返すの?」 「あはは、確かに」  HARUが顔を上げた。 「じゃあいっぱい飲んでって」 「結局それなんだ」 「そりゃそうでしょ」  笑っている。  和真も笑った。  言わなかった。  お前に会いに来ている。  そんなことを言えば、何かが変わってしまいそうだった。  好きだと伝えたことはない。  伝えるつもりもなかった。  客とホストだ。  HARUは仕事でここにいる。  和真は金を払い、その時間を買っている。  分かっている。  分かっているからこそ、それ以上を求めるつもりはなかった。  * 「久世さん、来週いつ来る?」 「まだ分からないな」 「水曜は?」 「たぶん空いてる」 「じゃあ水曜来て」 「なんで水曜?」 「俺が来てほしいから」  和真はHARUを見た。 「何?」 「いや。ずいぶん可愛いこと言うようになったなと思って」 「何それ」  HARUが笑う。 「売上欲しいんだよ。締め日前だし」 「ああ」  胸の奥に浮かびかけたものが、すっと消えた。  そういうことか。 「来てくれる?」 「分かった」 「ほんと?」 「うん」 「じゃあ待ってる」  嬉しそうに笑う。  和真は自分の馬鹿さ加減に、少し笑いたくなった。  何を期待したのだろう。  ホストなのだから、売上が欲しい。  だから客に来てほしい。  何もおかしくない。  それでも水曜になれば、和真は店へ行った。 「ほんとに来た」 「来いって言ったのHARUでしょ」 「そうだけど」 「来たら駄目だった?」 「そんなわけないじゃん」  HARUが隣へ座る。 「ありがと、久世さん」  笑顔を向けられる。  それだけで、来てよかったと思ってしまう。  本当に、どうしようもなかった。  *  売れて、変わった。  和真はいつからか、そう考えるようになっていた。  悪いことではない。  HARUはもう、客に高い酒を勧めることすらできなかった新人ではない。  何人もの客を抱え、毎月大きな売上を作るNo.1だ。  次に来る日を聞く。  酒をねだる。  身体へ触れる。  相手が喜ぶ言葉を選ぶ。  そうやって客を繋ぎ止めるのが、今のHARUの仕事なのだろう。  自分がそこまで押し上げた。  そう思えば、誇らしくもある。  同時に、少しだけ寂しかった。  勝手な話だと思う。  売れたHARUを見たいと思ったのは自分だ。  順位が上がるたび、次はどこまで行くのかと面白がった。  本人が望んでもいないのに、大きな金を使って一番上まで押し上げた。  それなのに、いざHARUがNo.1らしくなれば、昔のほうがよかったと思っている。  身勝手なのは自分のほうだった。  それでも、ときどき。  昔のHARUが顔を出した。 「今日、暇?」 「誰が?」 「HARU」 「失礼だな。No.1だよ?」 「知ってるよ」 「じゃあもっと敬って」 「かなり敬ってると思うけど」 「どこが?」 「毎月の明細見れば分かるんじゃない?」 「金じゃん」 「最高の敬意でしょ」 「ははっ!」  HARUが吹き出した。  顔を伏せる。  肩が揺れる。 「……」  和真は黙って、その顔を見た。  目元をくしゃくしゃにして、口を開けて、本当に可笑しそうに笑っている。  綺麗ではなかった。  客に見せるために整えた笑顔でもなかった。  初めて会った頃と同じだった。 「……何?」  HARUが顔を上げた。 「いや」 「めっちゃ見てるじゃん」 「見てないよ」 「見てたって」 「気のせい」 「何それ」  HARUがまた笑う。  和真も笑った。  まだいる。  そう思った。  自分が好きになったHARUは、いなくなったわけではない。  見えにくくなっただけだ。  それだけで、十分だった。  *  だから、通った。  次の週も。  その次の週も。  頼まれれば酒を入れた。  何も頼まれなければ、いつもの酒だけで過ごした。  HARUが忙しい日は、一人で待った。  ほかの客の席で笑っている姿を眺めながら、酒を飲んだ。 「ごめん、久世さん。待った?」  戻ってくれば、HARUはいつものように隣へ座る。 「大丈夫」 「怒ってない?」 「怒ってないよ」 「よかった」  笑う。  それだけでよかった。  最初は、妙なホストだと思っただけだった。  次もあいつでいい。  また話したい。  今日はいるだろうか。  喜ばせたい。  一位にしてみたい。  気づけば、仕事をしていてもHARUのことを考えるようになった。  七つ年下の男。  自分とはまるで違う場所で生きている男。  金を払わなければ、会う理由すらない男。  それでも、好きだった。  だから、やめられなかった。  *  その日も、いつもと同じように仕事を終えた。  車へ乗り込む。 「いつもの店で」 「かしこまりました」  後部座席でメールを確認し、仕事の返信をいくつか済ませる。  その途中で、HARUとのやり取りが目に入った。  最後のメッセージは数日前。 『今週いつ来る?』  和真は、 『たぶん金曜』  と返した。  HARUからは、 『待ってる』  それだけ。  今日が、その金曜だった。  わざわざ連絡はしなかった。  行くと言ってある。  いつも通り店へ行けば、いつも通りHARUがいる。  そう思っていた。 「いらっしゃいませ」  店へ入る。 「あ、久世様」 「こんばんは」 「こんばんは。……あの」  スタッフが何かを言いかけた。  別のスタッフがやってくる。 「久世様、いらっしゃいませ」 「どうも」  いつもなら、このあたりでHARUを呼ばれる。  あるいは本人が和真に気づいて、笑いながら歩いてくる。 『久世さん、いらっしゃい』  今日は来ない。 「HARUは?」  スタッフが黙った。  ほんの一瞬。  それだけの間だった。  なのに、妙に長く感じた。 「……久世様」 「はい」 「HARUから、何もお聞きになっていませんか?」 「何を?」  スタッフの顔に困惑が浮かぶ。  胸の奥に、嫌なものが落ちた。 「何かあったんですか」 「いえ……」 「今日、休み?」 「……HARUなら、辞めましたよ」  意味が分からなかった。 「……え?」 「数日前に退店しています」 「辞めた?」 「はい」  和真はスタッフを見た。 「いつ?」 「今週の頭です」 「今週……?」  ポケットからスマートフォンを取り出す。  画面を開く。 『今週いつ来る?』 『たぶん金曜』 『待ってる』  その下には、何もない。 「……そうですか」 「てっきり、久世様には本人からお話ししているものだと……」 「いや」  驚くほど普通に声が出た。 「聞いてないです」 「……申し訳ございません」 「あなたが謝ることじゃないですよ」  その通りだった。  店の人間が謝ることではない。  辞めると決めたのはHARUだ。  何も言わなかったのも、HARUだ。 「本日は、どうされますか?」  和真は店内を見た。  いつもと何も変わらない。  音楽が流れている。  客が笑っている。  ホストが酒を作っている。  何度も来た場所だ。  ここで初めてHARUと話した。  くだらない話をした。  仕事の愚痴も聞いてもらった。  何本も酒を入れた。  ランキングを追いかけた。  一位にした。  変わっていくHARUを見た。  それでも、会いたくて通った。  そのHARUだけが、いない。 「……帰ります」 「かしこまりました」  踵を返した。  席へ行く理由がなかった。  * 「ご自宅でよろしいですか?」 「はい」 「かしこまりました」  車のドアが閉まる。  街が後ろへ流れ始める。  和真はスマートフォンを見た。  着信はない。  新しいメッセージもない。  退店するという連絡も。  今までありがとうという言葉も。  何もなかった。  あるのは、数日前の、 『待ってる』  その一言だけだった。 「……」  和真は長いこと、その文字を見ていた。  やがて、小さく息が漏れた。 「……馬鹿だな」  誰に向けた言葉なのか、自分でも分かった。  自分だ。  何を期待していた。  客とホストだ。  自分は金を払った。  HARUは隣に座った。  それだけの関係だ。  仕事だから、自分の好みを覚えた。  仕事だから、疲れていることに気づいた。  仕事だから、来てほしいと言った。  仕事だから、待っていると言った。  仕事だから、笑った。  そう考えれば、何一つおかしくない。  なのに。  和真は勝手に、そこへ別の意味をつけた。  自分が金を持っていると知る前から、同じように笑っていたから。  どうでもいい話まで覚えていたから。  大きな金を使おうとすれば、最初は止めたから。  自分が来たとき、嬉しそうに見えたから。  ほかの客とは、ほんの少しくらい違うのかもしれない。  そう思っていた。  恋人になれると思っていたわけではない。  好きになってもらえると思っていたわけでもない。  ただ。  自分はHARUにとって、金を払うだけの客ではない。  それくらいは、思っていた。  もし、本当にそうだったなら。  辞めることくらい、言ってくれたのではないか。  数日前まで普通に連絡を取っていた。  金曜に行くと伝えた。  待っていると返ってきた。  それでも何も言わずに辞めた。  和真はスマートフォンを伏せた。  それだけで十分だった。  *  それからしばらく、和真はHARUからの連絡を待った。  待っているつもりはなかった。  ただ、スマートフォンが鳴れば目が向いた。  知らない番号から着信があれば、一瞬だけ手が止まった。  メッセージが届けば、名前を確認した。  HARUではなかった。  一週間が過ぎた。  二週間が過ぎた。  一か月が過ぎた。  何も来なかった。  和真から連絡することはしなかった。  番号は知っている。  かけようと思えば、かけられた。  辞めた理由を訊くこともできた。  なぜ何も言わなかったのかと責めることだってできた。  けれど、しなかった。  連絡がないこと自体が、答えだと思ったからだ。  自分から追いかけて、その答えをもっとはっきり聞かされる必要はなかった。  *  それから七年。  白河悠麻から連絡が来ることは、一度もなかった。  久世和真も、連絡をしなかった。  HARUという男は、和真の人生から消えた。  そう思っていた。  ただ一つだけ。  どうしても忘れられなかったものがある。  金を持っていると知られる前。  ランキングなんて気にもしていなかった頃。  高い酒を勧めることすらまともにできなかった頃。  和真が、 『思ってたより楽しかったよ』  そう言っただけで、嬉しそうに笑った顔。  最後まで忘れられなかったのは、No.1のHARUではなかった。  売れない頃の、あの笑顔だった。

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