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## 第9章 まだそれやるんだ

『もしもし』 「……久世さん?」  名前を口にした瞬間、心臓が大きく鳴った。  七年ぶりだった。  電話の向こうが静かになる。  ほんの数秒だったはずなのに、ひどく長く感じた。 『……HARU?』  息が止まった。  覚えている。  七年も経っているのに。  番号なんてとっくに消されていると思っていた。声を聞いたところで、誰だと訊かれるかもしれないとも思っていた。  それなのに、一度名前を呼んだだけで分かった。 「……はい」 『……』 「あの。久しぶりです」 『そうだね』  声が冷たい。  そう感じてから、悠麻はすぐに打ち消した。  もともと、こんな声だったかもしれない。  和真は昔から騒がしく喋る男ではなかった。落ち着いていて、自分から話すよりHARUの話を聞いていることのほうが多かった。  七年も前だ。  自分の記憶のほうが、都合よく変わっているのかもしれない。 「今、ちょっと大丈夫ですか?」 『大丈夫だよ』 「よかった」  そこで、言葉が途切れた。  久しぶりです。  元気でしたか。  あのときは何も言わずに辞めてすみませんでした。  七年間、一度も連絡しなくてすみませんでした。  言わなければならないことなら、いくらでもある。  けれど、どれも遅すぎた。 『どうしたの?』 「あ……」  悠麻はベッドの上で膝を立て、額を押しつけた。 「久世さん、今度……会えません?」  言った。  返事がない。 「ちょっと、話したいことがあって」 『電話じゃ駄目なの?』 「できれば、会って話したくて」 『……そう』  また沈黙が落ちる。  断られる。  そう思った。 『いつ?』  悠麻は顔を上げた。 「え?」 『会うんでしょ』 「あ、はい」  慌てて予定を確認する。 「俺は、久世さんに合わせられます」 『じゃあ――』  日時と場所を告げられた。 「分かりました」 『それじゃ』 「あ、久世さん」  切られる。  そう思って、咄嗟に呼び止めた。 『何?』 「……」  今だ。  謝るなら。  何も言わずに辞めたこと。  七年間、一度も連絡しなかったこと。  ずっと、引っかかっていたこと。 「……いや」  喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。 「なんでもないです」 『そう』 「じゃあ……その日に」 『うん』  電話が切れた。  悠麻はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。  やがて画面を見る。  通話終了。 「……会うのか」  自分から言ったくせに、胃が痛くなった。  *  約束の日。  悠麻は鏡の前で、三度目の着替えをしていた。 「……違うな」  黒いシャツの裾を引っ張る。  普段なら、これで十分だった。  バーへ出るにも困らない。  けれど今日は、妙に地味に見える。 「何着てたっけ、俺……」  クローゼットを開ける。  ホスト時代の服は、ほとんど残っていない。  高価なものは辞めてから少しずつ手放した。残っていたとしても、三十一になった今では着ようとも思わないようなものが多い。  それでも奥を探し、普段より少し派手なシャツを引っ張り出した。  着替える。  鏡を見る。 「……」  さっきよりは、それらしい。  髪も整え直した。  普段はつけないアクセサリーまで出した。  そこまでしてから、鏡の中の自分と目が合った。 「何やってんだ、俺」  本当に。  久世和真に会うだけだ。  もう自分はホストではない。  和真だって客ではない。  それなのに。  白河悠麻のままで会うことが、どうしても怖かった。  和真が知っている自分は、HARUだ。  売れない頃も知っている。  けれど、和真が大きな金を使うようになったのは、そのあとだった。  ランキングが上がった。  服が変わった。  喋り方が変わった。  高い酒をねだるようになった。  客との距離の詰め方を覚えた。  No.1になった。  それでも和真は来た。  何度も。  何度も。  頼めば酒を入れた。  笑えば笑い返した。  最後まで、莫大な金を使った。  だから悠麻は、ずっとそう思っていた。  久世さんが気に入っていたのは、あのHARUだ。  今の自分ではない。  小さなバーで酒を作っているだけの、三十一歳の男。  昔みたいな高い服もない。  派手な暮らしもしていない。  客に甘い言葉を囁くことも、高い酒をねだることもない。  そんな白河悠麻を見せたところで、和真には何の価値もない。 「……」  鏡に向かって、口元を上げた。 「久世さん、久しぶり」  違う。  もう一度。 「久しぶり、久世さん」  少しだけ顎を引く。  目を細める。  口角を上げる。 「……うん」  今度は、それらしく見えた。  七年前、何百回、何千回とやったことだ。  客が喜ぶ顔。  相手が気分よくなる声。  何を言われても傷つかないように見える振る舞い。  できないはずがない。  むしろ、このほうが楽だった。  白河悠麻として和真に会えば、七年前のことを考えなければならない。  どうして何も言わずに辞めたのか。  どうして七年間連絡しなかったのか。  どうして今になって連絡したのか。  そして。  どうして今日、会いたいと言ったのか。  全部、自分の言葉で話さなければならない。  HARUなら。  笑っていればいい。 「……よし」  悠麻は鏡から離れた。  *  約束の場所には、和真が先に来ていた。  入口で、足が止まった。  すぐに分かった。  七年経っている。  当然、変わっていた。  けれど、別人には見えなかった。  もともと落ち着いていた男が、そのまま七年分の歳を重ねたように見える。  三十八歳。  七年前の和真は三十一歳だった。  今の自分と同じ歳。  そう思うと、妙な感じがした。  和真がこちらを向く。  目が合った。 「……」  帰りたくなった。  今ならまだ、何か理由をつけて帰れる。  何を馬鹿なことを考えている。  話があると言ったのは自分だ。  悠麻は一度だけ息を吸った。  口元を上げる。 「久世さん」  歩いていく。 「久しぶり」 「……久しぶり」  和真の視線が、悠麻の顔から服へ落ちた。  髪。  アクセサリー。  そして、また顔へ戻る。  その視線に気づいて、悠麻は笑みを深くした。 「何?」 「いや」 「七年ぶりだからって見すぎじゃない?」 「そう?」 「そうだよ。俺、そんな変わった?」  和真がもう一度見る。 「少し」 「どこが?」 「年取った」 「ひど」  反射的に返した。 「久世さんのほうが年取ったでしょ」 「七歳上だからね」 「おっさんじゃん」 「HARUも三十一でしょ」 「俺はまだいいの」 「何が違うの?」 「見た目?」  自分の顔を指す。 「ほら。まだいけるでしょ」 「何が?」 「何がって……」  思わず吹き出した。 「そういうとこ、変わんないなあ」  和真の口元が、ほんの少し緩んだ。  その瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。  大丈夫。  話せる。  昔と同じだ。  二人で席についた。 「何飲む?」 「なんでもいい」 「じゃあ適当に頼むね」 「久世さんの奢り?」  昔みたいに言ってみる。 「いいよ」 「やった」  笑う。  これでいい。  昔なら、こんなやり取りはいくらでもした。  飲み物が運ばれてくる。  悠麻はグラスを手に取った。 「久世さん、今も仕事忙しいの?」 「まあ、それなりに」 「まだ働いてんだ」 「働くよ」 「もう一生遊んで暮らせるくらい持ってるでしょ」 「それとこれは別」 「ああ、そういう人だったね」 「覚えてる?」 「そりゃ覚えてるよ」  胸の奥が、わずかに詰まる。  七年前のことを忘れた日はなかった。  けれど、そんな顔はしない。 「久世さん、仕事の話すると長かったもん」 「HARUが聞くからでしょ」 「俺、聞き上手だったから」 「自分で言うんだ」 「売れっ子だったんで」  軽く胸を張る。 「No.1だよ、No.1。忘れた?」 「忘れてないよ」 「だよね」  忘れるはずがない。  和真は、自分を一位にした男だ。  売上が上がるたびに喜んだ。  順位が上がるたび、次はどこだと笑った。  大きな金を使った。  だから。  これでいい。  このHARUなら、和真も知っている。 「久世さんは?」 「何?」 「俺が辞めてから。あの店行った?」 「行ってない」 「へえ」  予想していなかった。 「一回も?」 「うん」 「なんで?」  和真はグラスへ視線を落とした。 「行く理由がなくなったから」  悠麻の指が止まった。 「……そっか」  胸の奥がざわついた。  考えるな。  別に、深い意味なんてない。  それなのに、口が勝手に動いた。 「俺いなくなったら行かなくなったんだ」 「そうだね」 「そんな俺のこと好きだった?」  言ってから、自分でも驚いた。  けれど、もう遅い。  昔のHARUなら、このくらい言った。  和真は答えなかった。  ただ悠麻を見る。 「……何?」 「いや」 「そこで黙る?」 「何て言ってほしいの?」 「普通、好きだったよ、とか言うとこじゃない?」 「そうなの?」 「そうでしょ」 「知らなかった」 「相変わらずだなあ」  悠麻は笑った。  和真は笑わなかった。  沈黙が落ちる。  悠麻はグラスへ口をつけた。  何かがおかしい。  電話のときから感じていた。  昔の久世は、もっと――  いや。  七年前だ。  自分が勝手に美化しているだけだ。 「久世さん、俺が辞めたときびっくりした?」 「したよ」 「だよね」 「うん」 「まあ、急だったし」 「そうだね」 「俺もいろいろあってさ」 「うん」  待った。  けれど、和真は何も訊かなかった。  何があったのか。  どうして辞めたのか。  それからどこへ行ったのか。  七年間、何をしていたのか。  何一つ。  訊かれたら困ると思っていた。  それなのに、訊かれないことのほうが苦しかった。 「……怒った?」 「何に?」 「俺が辞めたこと」 「辞めるのはHARUの自由でしょ」 「まあ、そうだけど」 「俺が決めることじゃない」 「じゃあ……」  言葉が詰まる。 「連絡しなかったことは?」  とうとう、自分から言った。  和真が悠麻を見る。  逃げたくなった。  謝れ。  今だ。  ごめん。  何も言わなくて。  それだけでいい。  それなのに。 「まあ、久世さんなら別に気にしないかなって思ってたけど」  出てきたのは、正反対の言葉だった。 「……そう」 「客いっぱいいたし。俺以外にも遊ぶとこあったでしょ?」 「うん」 「でしょ?」  笑う。  和真は何も言わない。  その沈黙が怖くて、悠麻はさらに喋った。 「それに七年前だよ? 今さらそんな気にしてないでしょ」 「HARUは?」 「え?」 「HARUは気にしてないの?」  不意に返された。 「……俺?」 「うん」  心臓が鳴った。 「別に」  すぐに笑った。 「昔のことじゃん」 「そう」 「そうだよ」  大丈夫。  笑えている。  ちゃんとHARUだ。  何も気にしていない顔。  誰に何を言われても笑っていた頃の顔。  久世の金を当然のように受け取っていた頃の顔。  弱いところなんて、一つも見せなかった―― 「まだそれやるんだ」  和真が言った。 「……え?」  笑顔が止まった。  和真はグラスに触れたまま、悠麻を見ている。 「何が?」 「それ」 「それって?」 「その喋り方」  胸の奥が冷たくなる。 「……何、急に」 「その笑い方も」 「は?」  笑おうとした。  反射だった。 「久世さん、何言って――」 「もうホストじゃないでしょ」  遮られた。 「……」 「俺も客じゃない」  静かな声だった。  怒っているわけではない。  責めてもいない。  それなのに、逃げ道を塞がれたような気がした。 「何それ」  悠麻は笑った。  さっきより少しだけ、頬が重かった。 「七年ぶりに会ったと思ったら説教?」 「説教じゃないよ」 「じゃあ何?」 「別に」 「別にって」 「ただ」  和真が悠麻を見る。 「まだやるんだなと思っただけ」 「……」  何が悪い。  これがHARUだ。  久世が知っているHARU。  久世が金を使ったHARU。  一位になって。  派手な服を着て。  生意気なことを言って。 『久世さんなら平気でしょ』  そう笑っていた。  それでも和真は通った。  何度も来た。  何度も金を使った。  だから。  これでいいと思った。 「……久世さん、こういう俺のほうが好きだったじゃん」  気づけば、口にしていた。  和真の眉がわずかに動く。 「俺が?」 「だってそうでしょ」 「……」 「俺が売れてからのほうが、いっぱい来てたし」  言葉が止まらない。 「いっぱい金使ってたじゃん」 「……そうだね」 「一位にしたの、久世さんでしょ」 「したね」 「だったら――」  言葉が止まった。  だったら。  何だ。  自分でも分からない。  ただ、間違っていないはずだった。  七年前。  和真が選んだのは、No.1のHARUだ。  そう思っていたから、今日ここへ来られた。  今の白河悠麻ではなく。  久世が知っているHARUになれば。  七年間のことも。  何も言わずに辞めたことも。  今さら会いに来た理由も。  全部、笑って誤魔化せると思った。 「……違うの?」  口から零れた。  自分でも驚くほど、小さな声だった。  和真はすぐには答えなかった。  その沈黙が怖かった。  悠麻はまた口角を上げようとした。  笑えばいい。  いつもそうしてきた。  笑えば、HARUでいられる。  けれど。  今度は、うまく上がらなかった。

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