9 / 27
## 第9章 まだそれやるんだ
『もしもし』
「……久世さん?」
名前を口にした瞬間、心臓が大きく鳴った。
七年ぶりだった。
電話の向こうが静かになる。
ほんの数秒だったはずなのに、ひどく長く感じた。
『……HARU?』
息が止まった。
覚えている。
七年も経っているのに。
番号なんてとっくに消されていると思っていた。声を聞いたところで、誰だと訊かれるかもしれないとも思っていた。
それなのに、一度名前を呼んだだけで分かった。
「……はい」
『……』
「あの。久しぶりです」
『そうだね』
声が冷たい。
そう感じてから、悠麻はすぐに打ち消した。
もともと、こんな声だったかもしれない。
和真は昔から騒がしく喋る男ではなかった。落ち着いていて、自分から話すよりHARUの話を聞いていることのほうが多かった。
七年も前だ。
自分の記憶のほうが、都合よく変わっているのかもしれない。
「今、ちょっと大丈夫ですか?」
『大丈夫だよ』
「よかった」
そこで、言葉が途切れた。
久しぶりです。
元気でしたか。
あのときは何も言わずに辞めてすみませんでした。
七年間、一度も連絡しなくてすみませんでした。
言わなければならないことなら、いくらでもある。
けれど、どれも遅すぎた。
『どうしたの?』
「あ……」
悠麻はベッドの上で膝を立て、額を押しつけた。
「久世さん、今度……会えません?」
言った。
返事がない。
「ちょっと、話したいことがあって」
『電話じゃ駄目なの?』
「できれば、会って話したくて」
『……そう』
また沈黙が落ちる。
断られる。
そう思った。
『いつ?』
悠麻は顔を上げた。
「え?」
『会うんでしょ』
「あ、はい」
慌てて予定を確認する。
「俺は、久世さんに合わせられます」
『じゃあ――』
日時と場所を告げられた。
「分かりました」
『それじゃ』
「あ、久世さん」
切られる。
そう思って、咄嗟に呼び止めた。
『何?』
「……」
今だ。
謝るなら。
何も言わずに辞めたこと。
七年間、一度も連絡しなかったこと。
ずっと、引っかかっていたこと。
「……いや」
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「なんでもないです」
『そう』
「じゃあ……その日に」
『うん』
電話が切れた。
悠麻はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
やがて画面を見る。
通話終了。
「……会うのか」
自分から言ったくせに、胃が痛くなった。
*
約束の日。
悠麻は鏡の前で、三度目の着替えをしていた。
「……違うな」
黒いシャツの裾を引っ張る。
普段なら、これで十分だった。
バーへ出るにも困らない。
けれど今日は、妙に地味に見える。
「何着てたっけ、俺……」
クローゼットを開ける。
ホスト時代の服は、ほとんど残っていない。
高価なものは辞めてから少しずつ手放した。残っていたとしても、三十一になった今では着ようとも思わないようなものが多い。
それでも奥を探し、普段より少し派手なシャツを引っ張り出した。
着替える。
鏡を見る。
「……」
さっきよりは、それらしい。
髪も整え直した。
普段はつけないアクセサリーまで出した。
そこまでしてから、鏡の中の自分と目が合った。
「何やってんだ、俺」
本当に。
久世和真に会うだけだ。
もう自分はホストではない。
和真だって客ではない。
それなのに。
白河悠麻のままで会うことが、どうしても怖かった。
和真が知っている自分は、HARUだ。
売れない頃も知っている。
けれど、和真が大きな金を使うようになったのは、そのあとだった。
ランキングが上がった。
服が変わった。
喋り方が変わった。
高い酒をねだるようになった。
客との距離の詰め方を覚えた。
No.1になった。
それでも和真は来た。
何度も。
何度も。
頼めば酒を入れた。
笑えば笑い返した。
最後まで、莫大な金を使った。
だから悠麻は、ずっとそう思っていた。
久世さんが気に入っていたのは、あのHARUだ。
今の自分ではない。
小さなバーで酒を作っているだけの、三十一歳の男。
昔みたいな高い服もない。
派手な暮らしもしていない。
客に甘い言葉を囁くことも、高い酒をねだることもない。
そんな白河悠麻を見せたところで、和真には何の価値もない。
「……」
鏡に向かって、口元を上げた。
「久世さん、久しぶり」
違う。
もう一度。
「久しぶり、久世さん」
少しだけ顎を引く。
目を細める。
口角を上げる。
「……うん」
今度は、それらしく見えた。
七年前、何百回、何千回とやったことだ。
客が喜ぶ顔。
相手が気分よくなる声。
何を言われても傷つかないように見える振る舞い。
できないはずがない。
むしろ、このほうが楽だった。
白河悠麻として和真に会えば、七年前のことを考えなければならない。
どうして何も言わずに辞めたのか。
どうして七年間連絡しなかったのか。
どうして今になって連絡したのか。
そして。
どうして今日、会いたいと言ったのか。
全部、自分の言葉で話さなければならない。
HARUなら。
笑っていればいい。
「……よし」
悠麻は鏡から離れた。
*
約束の場所には、和真が先に来ていた。
入口で、足が止まった。
すぐに分かった。
七年経っている。
当然、変わっていた。
けれど、別人には見えなかった。
もともと落ち着いていた男が、そのまま七年分の歳を重ねたように見える。
三十八歳。
七年前の和真は三十一歳だった。
今の自分と同じ歳。
そう思うと、妙な感じがした。
和真がこちらを向く。
目が合った。
「……」
帰りたくなった。
今ならまだ、何か理由をつけて帰れる。
何を馬鹿なことを考えている。
話があると言ったのは自分だ。
悠麻は一度だけ息を吸った。
口元を上げる。
「久世さん」
歩いていく。
「久しぶり」
「……久しぶり」
和真の視線が、悠麻の顔から服へ落ちた。
髪。
アクセサリー。
そして、また顔へ戻る。
その視線に気づいて、悠麻は笑みを深くした。
「何?」
「いや」
「七年ぶりだからって見すぎじゃない?」
「そう?」
「そうだよ。俺、そんな変わった?」
和真がもう一度見る。
「少し」
「どこが?」
「年取った」
「ひど」
反射的に返した。
「久世さんのほうが年取ったでしょ」
「七歳上だからね」
「おっさんじゃん」
「HARUも三十一でしょ」
「俺はまだいいの」
「何が違うの?」
「見た目?」
自分の顔を指す。
「ほら。まだいけるでしょ」
「何が?」
「何がって……」
思わず吹き出した。
「そういうとこ、変わんないなあ」
和真の口元が、ほんの少し緩んだ。
その瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
大丈夫。
話せる。
昔と同じだ。
二人で席についた。
「何飲む?」
「なんでもいい」
「じゃあ適当に頼むね」
「久世さんの奢り?」
昔みたいに言ってみる。
「いいよ」
「やった」
笑う。
これでいい。
昔なら、こんなやり取りはいくらでもした。
飲み物が運ばれてくる。
悠麻はグラスを手に取った。
「久世さん、今も仕事忙しいの?」
「まあ、それなりに」
「まだ働いてんだ」
「働くよ」
「もう一生遊んで暮らせるくらい持ってるでしょ」
「それとこれは別」
「ああ、そういう人だったね」
「覚えてる?」
「そりゃ覚えてるよ」
胸の奥が、わずかに詰まる。
七年前のことを忘れた日はなかった。
けれど、そんな顔はしない。
「久世さん、仕事の話すると長かったもん」
「HARUが聞くからでしょ」
「俺、聞き上手だったから」
「自分で言うんだ」
「売れっ子だったんで」
軽く胸を張る。
「No.1だよ、No.1。忘れた?」
「忘れてないよ」
「だよね」
忘れるはずがない。
和真は、自分を一位にした男だ。
売上が上がるたびに喜んだ。
順位が上がるたび、次はどこだと笑った。
大きな金を使った。
だから。
これでいい。
このHARUなら、和真も知っている。
「久世さんは?」
「何?」
「俺が辞めてから。あの店行った?」
「行ってない」
「へえ」
予想していなかった。
「一回も?」
「うん」
「なんで?」
和真はグラスへ視線を落とした。
「行く理由がなくなったから」
悠麻の指が止まった。
「……そっか」
胸の奥がざわついた。
考えるな。
別に、深い意味なんてない。
それなのに、口が勝手に動いた。
「俺いなくなったら行かなくなったんだ」
「そうだね」
「そんな俺のこと好きだった?」
言ってから、自分でも驚いた。
けれど、もう遅い。
昔のHARUなら、このくらい言った。
和真は答えなかった。
ただ悠麻を見る。
「……何?」
「いや」
「そこで黙る?」
「何て言ってほしいの?」
「普通、好きだったよ、とか言うとこじゃない?」
「そうなの?」
「そうでしょ」
「知らなかった」
「相変わらずだなあ」
悠麻は笑った。
和真は笑わなかった。
沈黙が落ちる。
悠麻はグラスへ口をつけた。
何かがおかしい。
電話のときから感じていた。
昔の久世は、もっと――
いや。
七年前だ。
自分が勝手に美化しているだけだ。
「久世さん、俺が辞めたときびっくりした?」
「したよ」
「だよね」
「うん」
「まあ、急だったし」
「そうだね」
「俺もいろいろあってさ」
「うん」
待った。
けれど、和真は何も訊かなかった。
何があったのか。
どうして辞めたのか。
それからどこへ行ったのか。
七年間、何をしていたのか。
何一つ。
訊かれたら困ると思っていた。
それなのに、訊かれないことのほうが苦しかった。
「……怒った?」
「何に?」
「俺が辞めたこと」
「辞めるのはHARUの自由でしょ」
「まあ、そうだけど」
「俺が決めることじゃない」
「じゃあ……」
言葉が詰まる。
「連絡しなかったことは?」
とうとう、自分から言った。
和真が悠麻を見る。
逃げたくなった。
謝れ。
今だ。
ごめん。
何も言わなくて。
それだけでいい。
それなのに。
「まあ、久世さんなら別に気にしないかなって思ってたけど」
出てきたのは、正反対の言葉だった。
「……そう」
「客いっぱいいたし。俺以外にも遊ぶとこあったでしょ?」
「うん」
「でしょ?」
笑う。
和真は何も言わない。
その沈黙が怖くて、悠麻はさらに喋った。
「それに七年前だよ? 今さらそんな気にしてないでしょ」
「HARUは?」
「え?」
「HARUは気にしてないの?」
不意に返された。
「……俺?」
「うん」
心臓が鳴った。
「別に」
すぐに笑った。
「昔のことじゃん」
「そう」
「そうだよ」
大丈夫。
笑えている。
ちゃんとHARUだ。
何も気にしていない顔。
誰に何を言われても笑っていた頃の顔。
久世の金を当然のように受け取っていた頃の顔。
弱いところなんて、一つも見せなかった――
「まだそれやるんだ」
和真が言った。
「……え?」
笑顔が止まった。
和真はグラスに触れたまま、悠麻を見ている。
「何が?」
「それ」
「それって?」
「その喋り方」
胸の奥が冷たくなる。
「……何、急に」
「その笑い方も」
「は?」
笑おうとした。
反射だった。
「久世さん、何言って――」
「もうホストじゃないでしょ」
遮られた。
「……」
「俺も客じゃない」
静かな声だった。
怒っているわけではない。
責めてもいない。
それなのに、逃げ道を塞がれたような気がした。
「何それ」
悠麻は笑った。
さっきより少しだけ、頬が重かった。
「七年ぶりに会ったと思ったら説教?」
「説教じゃないよ」
「じゃあ何?」
「別に」
「別にって」
「ただ」
和真が悠麻を見る。
「まだやるんだなと思っただけ」
「……」
何が悪い。
これがHARUだ。
久世が知っているHARU。
久世が金を使ったHARU。
一位になって。
派手な服を着て。
生意気なことを言って。
『久世さんなら平気でしょ』
そう笑っていた。
それでも和真は通った。
何度も来た。
何度も金を使った。
だから。
これでいいと思った。
「……久世さん、こういう俺のほうが好きだったじゃん」
気づけば、口にしていた。
和真の眉がわずかに動く。
「俺が?」
「だってそうでしょ」
「……」
「俺が売れてからのほうが、いっぱい来てたし」
言葉が止まらない。
「いっぱい金使ってたじゃん」
「……そうだね」
「一位にしたの、久世さんでしょ」
「したね」
「だったら――」
言葉が止まった。
だったら。
何だ。
自分でも分からない。
ただ、間違っていないはずだった。
七年前。
和真が選んだのは、No.1のHARUだ。
そう思っていたから、今日ここへ来られた。
今の白河悠麻ではなく。
久世が知っているHARUになれば。
七年間のことも。
何も言わずに辞めたことも。
今さら会いに来た理由も。
全部、笑って誤魔化せると思った。
「……違うの?」
口から零れた。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
和真はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖かった。
悠麻はまた口角を上げようとした。
笑えばいい。
いつもそうしてきた。
笑えば、HARUでいられる。
けれど。
今度は、うまく上がらなかった。
ともだちにシェアしよう!

