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# 第11章 戻ってたんだ

 店の場所を聞いたのは、あれから三日後だった。  HARUから送られてきた住所を見て、和真は少し意外に思った。  もっと華やかな店を想像していた。繁華街の中心にある大きな店か、高級ホテルのバーのような場所。  けれど実際に訪れてみれば、繁華街から少し外れた場所にある小さなバーだった。目立つ看板もなく、外から中の様子もほとんど見えない。 「……ここか」  ドアを開けると、小さくベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」  反射的にそちらを見る。  カウンターの中にHARUがいた。 「あ」  一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに笑う。 「いらっしゃいませ、久世さん」  先日会ったときとは違う。  派手なシャツではなく、シンプルなシャツにベスト。髪も作り込んでおらず、袖を軽く捲っている。 「今日だったんだ」 「連絡したほうがよかった?」 「いや。いつでもいいって言ったの俺だし。どうぞ」  カウンターの端を示され、腰を下ろす。 「何飲む?」 「おすすめで」 「雑だなあ」 「店を見るんだから、任せたほうがいいでしょ」 「それもそうか」  HARUは少し考えてから棚へ手を伸ばした。  ボトルを取り、酒を量る。  慣れた手つきだった。  何年もここで働いているのだから当然なのだろう。それでも、カウンターの向こうで酒を作るHARUを見るのは妙な気分だった。  七年前は、いつも自分の隣にいた。 「はい。どうぞ」  グラスが置かれる。 「甘いの、そんな好きじゃなかったよね?」  伸ばしかけた手が止まった。 「……覚えてるの?」 「そりゃ。久世さん、甘いの飲んでるイメージないもん」 「七年前だよ」 「だから何?」  HARUは不思議そうな顔をした。  そのとき、別の客から声が飛ぶ。 「悠麻くん、もう一杯いい?」 「もちろん。次も同じので?」 「いや、今日は違うのにしようかな」 「珍しいですね。先月もそれ言って、十分くらい悩んで結局いつものにしたじゃないですか」 「あれ、そうだっけ?」 「しましたよ」  客が笑った。 「よく覚えてるなあ」 「そりゃ覚えてますよ」 「じゃあ今日は本当に違うのにする。任せる」 「一番困るやつですね、それ」 「プロだろ?」 「急に圧かけないでくださいよ」  HARUが吹き出した。  和真の指が止まる。  ――あの顔だ。  目元を崩して、本当に可笑しそうに笑っている。  客に見せるために整えた笑顔ではない。  ただ、楽しいから笑った。  七年前、初めて会った頃のHARUと同じだった。 「そういや、うちの猫の話したっけ?」 「ああ、病院行くって言ってた子? どうでした?」 「大したことなかった」 「ほんとですか? よかった。食欲ないって言ってたから、ちょっと心配してたんですよ」 「今は食いすぎて困ってる」 「元気ならいいじゃないですか」 「俺の財布は元気じゃないけどな」 「そこは頑張ってください。猫ちゃん優先なんで」 「冷たいなあ」  また笑う。  和真は黙って、その横顔を見ていた。  次の注文を受け、酒を作る。その途中で別の客の空いたグラスに気づき、水を置いた。 「今日ペース早いですよ。ちょっと水飲んでください」 「まだいけるって」 「明日朝から会議って言ってたじゃないですか」 「なんで覚えてんだよ」 「昨日聞いたからですよ」  まただ。  客の話を覚えている。  その続きを訊く。  客が喜んで話し、HARUが聞く。  可笑しければ笑う。  七年前と同じだった。  いや。  七年前の途中から見えなくなったものが、ここにはあった。  和真はいつの間にか、店ではなくHARUばかり見ていた。  * 「久世さん」  客足が少し落ち着いた頃、HARUがカウンター越しに覗き込んできた。 「どう?」 「何が?」 「店。店見に来たんでしょ?」 「ああ。そうだったね」 「忘れんなよ」  HARUが呆れたように笑う。 「どうですか?」 「いい店だね」 「でしょ?」  返事が早かった。  しかも、嬉しそうだった。 「俺もそう思う」 「自分で言うんだ」 「いいじゃん。ほんとのことだし」  HARUは店内を見回した。 「狭いけど、俺これくらいのほうが好きなんだよね。客の顔見えるし」  それから、この棚は残したい、カウンターもできれば変えたくないと話し始めた。  古くなったところだけ直して、雰囲気はそのまま残したいらしい。 「常連さん、変わるの嫌がる人多いんだよ」 「HARUもでしょ」 「俺?」 「変えたくないんでしょ?」 「……まあ」  HARUの表情が柔らかくなる。 「好きだからね、ここ。せっかくマスターからもらえるんだし、ちゃんと残したい」  和真は店内を見渡した。  古いカウンター。酒の並んだ棚。常連客の座る椅子。  特別豪華でもない、小さな店。  そして、その中で笑っているHARU。  七年前、HARUは売れて変わったのだと思っていた。  自然に笑わなくなった。  高い酒をねだるようになった。  客との距離も、話し方も、笑い方も変わった。  そういう人間になったのだと。  最後には何も言わず、自分の前から消えた。  だからずっと、自分が好きだったHARUはもういないのだと思っていた。  けれど。  客に呼ばれれば振り向き、前に聞いた話を覚えている。  どうでもいい話の続きを楽しそうに聞く。  可笑しければ、目元を崩して笑う。  金を使わせるためでも、誰かに見せるためでもなく。  ただ自然に。 「……戻ってたんだ」 「え?」  HARUが振り返った。 「今なんか言った?」 「独り言」 「気になるんだけど」 「気にしなくていいよ。ほら、呼ばれてる」 「あ」  客が手を上げている。 「すみません、今行きます」  HARUが離れていく。  和真はその背中を見送った。  戻っていた。  自分の知らない七年間のどこかで。  だったら、もう一度――。  そこまで考えて、思い直す。  HARUは店を守るために自分へ連絡しただけだ。  七年ぶりに会いたかったわけではない。  分かっている。  それなのに、先日の言葉が蘇った。 『……何でもするから』  和真はグラスへ目を落とした。  何でも。  HARUは確かにそう言った。  七年前、どれだけ金を使っても手に入らなかった男。  店を出れば終わる。  自分は客で、HARUはホスト。  最後まで、それ以上にはなれなかった。  そして何も言わずに消えた。  忘れられないまま、七年が経った。  その男が今、昔と同じ顔で笑っている。  ――半年。  それくらいなら。  半年だけ、欲しかった男を自分のものにする。  終われば手放す。  HARUには店が残る。  自分も、七年前から引きずってきたものを終わらせる。 「久世さん?」  顔を上げると、HARUが戻ってきていた。 「もう一杯飲む?」 「いや。今日は帰るよ」 「あ、そう」  HARUの顔に、わずかに緊張が戻った。  店を見終えた。  次は金の話だと思ったのだろう。 「それと、店のこと」 「……うん」 「ちゃんと考える」  HARUが目を瞬く。 「それって……」 「まだ返事はしない。また連絡する」 「……分かった」  和真は席を立った。 「ありがとうございました」  HARUが笑う。 「またお待ちしてます」 「うん」  店を出る。  扉が閉まり、中の声が遠ざかった。  店は守ろう。  もう、そのつもりだった。  金を貸すだけなら簡単だ。  けれど――。 『何でもするから』  七年間忘れられなかった男が、自分から差し出した言葉。  半年だけ。  その間だけ、自分のものにする。  終われば、今度こそ手放す。  それでHARUには店が残り、自分も終われる。  和真は、そう思った。

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