16 / 27

第16章 夜更けの帰宅

 契約が始まって、一週間が経った。  仕事へ行く支度を終えた悠麻は、鏡の前で黒いシャツのボタンを二つ外した。細い光沢のある生地から覗く胸元へ、引き出しの奥に眠っていた銀色のネックレスをいくつか重ねる。  今の店で働くようになってから、こんな格好はほとんどしなくなった。酒を作るには邪魔だし、三十一にもなって着るには少し派手な気もする。  それでも鏡の中に出来上がった男には、よく見覚えがあった。  髪を整え、口角を少しだけ上げる。愛想よく笑いすぎず、自分が相手からどう見えているかを分かった上で向ける笑顔。七年前、HARUと名乗っていた頃には、毎晩のように作っていた顔だった。 「……まだいけるな」  久しぶりでも案外忘れていない。  部屋を出ると、リビングでは和真がノートパソコンを開いていた。この一週間で、和真は思っていた以上に家で仕事をする男なのだと分かった。外出する日もあるが、朝から夕方までほとんど同じ場所にいることも珍しくない。 「行ってくる」  和真が顔を上げる。その視線が、いつもより開いた胸元と重ねたネックレスを通って、再び悠麻の顔へ戻ってきた。 「どう? 昔よくこんなの着てただろ」 「覚えてるよ」 「まだ似合う?」 「似合ってる」  返事はあまりにあっさりしていた。  悠麻はソファの後ろを通りざま、和真の肩へ手を置いた。少し身を屈めて顔を寄せると、胸元でネックレスがじゃらりと鳴る。 「惚れ直した?」  こういう距離の詰め方も身体が覚えている。相手の目を見ながら、自分が一番魅力的に映る位置へ自然と入っていくのも、昔なら呼吸をするのと変わらなかった。  ところが和真は喜ぶでもなく、しばらく悠麻を眺めたあと、 「それ、店でも着るの?」  と聞いただけだった。 「そうだけど。何?」 「いや。似合ってるよ」 「……なら、もうちょい嬉しそうに言えよ」  肩から手を離す。昔なら、和真はもっと自分を見ていた気がする。何を着ても、誰と話していても、こちらが気づくくらいに。  もっとも、七年も前の話だ。 「じゃあ、行ってくる」 「行ってらっしゃい」  今度はパソコンへ戻った和真を振り返らず、悠麻はマンションを出た。      *  店に着いて裏へ入ると、悠麻は真っ先にネックレスを外した。重なったチェーンをまとめて鞄へしまい、開けていた二つのボタンも上まできっちり留める。  鏡に映ったのは、見慣れたバーテンダーの自分だった。  そのままカウンターへ出て開店準備を済ませると、ほどなくして扉のベルが鳴った。 「いらっしゃいませ。あ、佐伯さん。久しぶり」 「おー、悠麻。最近どう?」 「それ俺の台詞。名古屋からいつ帰ってきたの?」  佐伯が目を丸くした。 「よく覚えてんな」 「先月、三週間行くって言ってたじゃん。いつもの?」 「今日はビール。向こうの上司が最悪でさ、帰ってきたら彼女には浮気疑われるし」 「三週間で二回しか連絡してないとか?」 「なんで分かった?」 「前もやってたから。佐伯さんが悪い」 「お前、客の味方しろよ」 「間違ってる客の味方までしてたら店潰れるって」  笑いながら冷えたグラスを取り出す。  それから客が一人、二人と増え、十九時を過ぎる頃にはカウンターの半分が埋まった。 「悠麻、腹減った。何か作って」 「また? 今日は鶏ないよ」 「じゃあ何ある?」 「厚揚げならあるけど」 「それ」 「注文の仕方が雑なんだよ」  冷蔵庫の下段にある厚揚げを取ろうと腰を落としたところで、服の下の金属が身体に当たり、悠麻は一瞬だけ動きを止めた。  昨夜、和真につけられた貞操帯だった。  立っているあいだは忘れていられたのに、深くしゃがむと途端に存在を主張する。痛いわけではない。ただ、普段なら何もない場所に硬いものがあるという違和感が、意識した途端にやけに気になった。 「悠麻、どうした?」 「何でもない。生姜いる?」 「多め」 「はいはい」  何食わぬ顔で立ち上がり、フライパンを火にかける。  厚揚げが焼ける匂いにつられ、隣の客まで「俺も」と言い出した。結局、残っていたもう一パックまで開けることになり、生姜を擦ってねぎを刻んでいると、さらに別の客から声が飛ぶ。 「俺の分は?」 「もうない。次来たときな」 「えー」 「うちは飯屋じゃありません」  文句を言いながらも皿へ盛りつけ、酒の注文が入ればそちらへ戻る。  仕事を辞めようか悩んでいた客にはその後どうなったのかを聞き、娘が受験だと言っていた客には結果を尋ねる。最近ウイスキーを飲み始めた客には、前回より少し癖の強い一本を勧めた。  客が以前話したことは、不思議なくらいよく覚えている。  昔からそうだった。  営業の連絡を入れたり、相手の機嫌に合わせて甘い言葉を並べたりするのは苦手だったくせに、誰が何を好きで、どんな仕事をしていて、この前何に困っていたのかは勝手に頭へ残った。  そのせいで話が長くなり、別の客に呼ばれて慌てて酒を作ることもある。 「悠麻、こっちまだ?」 「あ、ごめん。今作る」 「今日ぼーっとしてない?」 「してないって」  否定しながらカウンターの下へしゃがんだところで、また金属が当たった。 「……っ」  今度は顔に出さずに済んだ。  布巾を拾って立ち上がり、何事もなかったようにグラスを取る。  仕事ができないほど邪魔ではない。それなのに、忘れた頃にしゃがんだり、大きく脚を動かしたりするたび、服の下から存在を思い出させてくる。  しかも、自分では外せない。  鍵を持っているのは和真だ。  そこまで考えた途端、昼間パソコンの前に座っていた和真の顔が浮かんできて、悠麻は氷を入れる手を止めた。 「悠麻?」 「……はいはい、今作ってる」  グラスの中で氷を鳴らし、酒を注ぐ。  目の前にいる客は、当然何も知らない。  自分が誰の家からここへ来たのかも、服の下に何をつけているのかも、その鍵を誰が持っているのかも知らない。  少し妙な気分だった。  それでも忙しくなるにつれて考える暇はなくなり、気づけば日付を跨いでいた。      *  最後の客を送り出したのは、一時を少し過ぎた頃だった。  グラスを片づけ、酒瓶を元の位置へ戻し、冷蔵庫の在庫を確認する。床まで一通り見て回り、足りないものをメモしたところで時計を見ると、一時半を過ぎていた。 「はあ……」  ようやく仕事が終わった。  裏へ戻って鞄を取ろうとしたところで、中にしまったネックレスが目に入った。  少し迷う。  それから一つずつ首へ掛け、シャツのボタンも二つ外した。  鏡の中に、夕方マンションを出たときの自分が戻ってくる。 「……何やってんだろ」  帰る頃には二時だ。和真はもう寝ているかもしれない。  だったら、この格好に戻す意味なんてない。  それでもボタンを留め直すことはせず、悠麻は鞄を肩へ掛けた。      *  九月とはいえ、深夜の空気は少し冷たかった。  店からマンションまでは歩いて二十分ほど。火照っていた身体がちょうど冷えてきた頃、途中のコンビニへ寄って水を取り、ついでに目についたプリンを一つ籠へ入れる。  そのままレジへ向かいかけて、足を止めた。  もう一つ取る。  和真が甘いものを食べるかどうかは知らない。 「食わなきゃ俺が食えばいいか」  誰に言うでもなく呟いて、会計を済ませた。  マンションへ着いたのは、二時を少し過ぎた頃だった。  できるだけ音を立てずに鍵を開ける。 「ただいま」  小さく声に出してみたが、返事はなかった。  廊下もリビングも暗い。  やっぱり寝ているらしい。  キッチンの小さな照明だけをつけ、買ってきたプリンを冷蔵庫へ入れる。二つ並んだ容器を見ていると、なんとなく自分で可笑しくなった。  店では、ついさっきまで絶えず誰かの声がしていた。グラスや氷の音に混じって笑い声が飛び、あちこちから名前を呼ばれていたのに、今は冷蔵庫の低い駆動音しか聞こえない。  水を飲みながら胸元へ目を落とす。  開いたシャツに、重ねたネックレス。  わざわざ店を出る前につけ直したのに、見せる相手はもう眠っている。 「……馬鹿みたい」  ネックレスを外し、そのまま寝室へ向かった。  扉を静かに開けると、広いベッドの片側で和真が眠っていた。  起こさないように着替えを済ませる。  服を脱いだところで、仕事中に何度も気になった金属がまた目に入った。指先で触れるとひやりとして、反射的にベッドのほうを見る。  和真は規則正しく寝息を立てたままだ。  昼間はいつも通り仕事をして、夜になればこうして普通に眠っている。その一方で、自分の身体には和真がつけたものが残っていて、鍵まであの男が持っている。  まだ、そのちぐはぐさには慣れなかった。  悠麻は掛け布団をそっと持ち上げ、ベッドへ身体を滑り込ませた。マットレスがわずかに沈んでも、和真は起きない。  同じベッドで眠るようになって一週間。  それでも二人のあいだには、一人くらいなら余裕で横になれそうな隙間が残っている。  悠麻は反対側を向いて目を閉じた。  けれど、仕事を終えたばかりの頭はまだ冴えていて、なかなか眠気が来ない。寝返りを打つと、暗闇の中に和真の背中が見えた。  今日、店を出る前にわざわざネックレスをつけ直したことを思い出す。  自分でも理由くらい分かっている。  和真が知っている自分は、HARUだからだ。  金を使わせることにも慣れていて、少しくらい横柄で、いつも余裕があって、自分が見られることを知っていた男。七年前、和真が大金を使ったのは、そんなHARUだった。  今だって同じように金を出してもらっている。  なら、その男でいたほうがいい。  少なくとも、和真の前では。  ところが今日、店へ着いた途端にネックレスを外し、ボタンを閉じた。客の出張先を覚えていて、腹を空かせたと言われれば厚揚げを焼き、仕事の愚痴を聞きながら酒を作って笑っていた。  そこでは、HARUでいようなんて一度も考えなかった。  悠麻は暗闇の中で和真の背中を眺めたあと、もう一度反対側を向いた。  隣から聞こえてくるのは、静かな寝息だけだった。  午前二時。  これから半年、何度もこの時間に帰ってくることになる。  その頃には和真は眠っていて、自分は起こさないように隣へ潜り込む。  今は、それで何の問題もなかった。

ともだちにシェアしよう!