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第17話 忘れ物
物音で目が覚めた。
何かが閉まる音に続いて、足音が遠ざかっていく。
悠麻は薄く目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。枕元の時計を見ると、もう十一時前だった。
「……何?」
寝返りを打つ。
隣を見る。
和真がいない。
いつもならとっくに起きている時間だから、それ自体は珍しくない。けれど、さっき聞こえた音が気になって、悠麻はしばらく布団の中でもぞもぞしたあと、諦めて身体を起こした。
今日は店が休みだ。
何時まで寝ていても構わないのに。
「……水」
喉が渇いた。
適当なパンツを穿き、寝室を出る。
廊下の向こうから、和真が歩いてきた。
一瞬、誰かと思った。
スーツを着ている。
濃い色のジャケットに白いシャツ、ネクタイまできっちり締めていた。普段は家で仕事をしていることが多いから、見慣れたはずの姿なのに妙に新鮮だった。
「おはよう」
「……おはよ。何、その格好」
「何って、スーツ」
「それは見りゃ分かる」
寝起きの目で上から下まで眺める。
「今日、会社行くの?」
「うん。ちょっと用事があって」
「へえ」
「起こした?」
「物音で」
「ごめん」
「別に。もう十一時だし」
欠伸をしながらキッチンへ向かう。
冷蔵庫から水を取り出し、直接飲もうとして、背後から声が飛んできた。
「ユウ」
「ん?」
「行ってくる」
振り返る。
和真はもう鞄を持っていた。
「ん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関のドアが閉まった。
途端に部屋が静かになる。
悠麻は水を飲みながら、しばらく玄関のほうを見ていた。
「……スーツ着るんだな」
当たり前のことを呟く。
七年前にも見たことはあるはずなのに、仕事へ行くところを見送ったことなんて当然なかった。
久世和真は客だった。
店へ来れば、もうそこにいた。
どこから来て、帰ったあとどこへ行くのかなんて、考えたこともなかった。
*
昼前。
簡単に腹を満たしてから、悠麻は洗濯機を回した。
今日は休みだ。
夕方になっても店へ行く必要はない。
買い物くらいは行こうと思っていたが、それ以外に予定もなかった。
洗濯物を抱えてリビングを横切ったところで、テーブルの端に黒い革のケースが置かれていることに気づいた。
「ん?」
朝、こんなのあったっけ。
手に取る。
表面には見覚えのある会社名と、和真の名前が入っていた。
「……忘れてんじゃん」
あれだけきっちりスーツを着て出ていったくせに。
少し可笑しくなる。
スマートフォンを手に取り、和真へ連絡しようとした。
けれど、画面を開いたところで止める。
仕事中かもしれない。
それに必要なものなら、そのうち本人が気づくだろう。
ケースをテーブルへ戻した。
洗濯物を干す。
戻ってくる。
まだある。
当然だけど。
「……」
放っておけばいい。
今日はせっかくの休みだ。
わざわざ会社まで行く必要なんてない。
和真だって子供じゃないのだから、忘れ物くらい自分でどうにかする。
そう思ってソファへ座った。
テレビをつける。
五分ほど見る。
何をやっているのか、まったく頭に入ってこなかった。
視界の端に黒いケースがある。
「……久世さん困るだろ」
結局、リモコンを置いた。
ケースを手に取る。
「届けるだけな」
誰に言い訳するでもなく呟いて、立ち上がった。
*
会社の場所を調べると、電車でそれほどかからなかった。
悠麻は着替えだけ済ませて家を出た。
どうせ忘れ物を受付へ預けて帰るだけだ。
そのつもりだった。
駅を出て地図を見ながら歩き、目的地へ着いたところで足が止まった。
「……ここ?」
高層オフィスビルだった。
見上げる。
上のほうは、地上からでは窓の一枚一枚さえよく分からない。
会社名をもう一度確認する。
合っている。
「マジかよ」
金持ちなのは知っていた。
七年前から嫌というほど知っている。
けれど、その金がどこから来ているのかについて、悠麻はほとんど何も知らなかった。
自動ドアを抜ける。
広いエントランスを通り、受付へ向かった。
「あの、すみません」
「はい」
「久世和真さんの忘れ物を届けに来たんですけど」
革のケースを見せる。
「お約束はございますか?」
「いや、ないです。これ渡しておいてくれたらいいんで」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「白河です。白河悠麻」
「少々お待ちください」
「あ、いや、本当に渡してくれるだけで――」
すでに受付の女性は内線をかけていた。
悠麻は仕方なく待つ。
しばらくして受話器が置かれた。
「白河様、上へご案内いたします」
「え?」
「久世より、お通しするよう申しつかりました」
「いやいや、届けに来ただけなんで。これ預かってもらえれば」
「ですが……」
受付の女性が困った顔をする。
「お通しするようにとのことですので」
「でも俺、アポもないし」
「久世本人からの指示です」
「……」
そこまで言われると、こちらが帰るほうが相手を困らせるらしい。
「……じゃあ、すみません」
「こちらへどうぞ」
押し負けた。
*
案内されたエレベーターは、上へ、上へと昇っていった。
階数表示を見ながら、悠麻はだんだん落ち着かなくなる。
高い。
到着音が鳴り、扉が開いた。
目の前に広がったのは、静かな役員フロア――ではなかった。
奥では大勢の人間が働いていた。
電話をしながら歩く人。
資料を抱えて足早に通り過ぎる人。
パソコンを何台も開いて話している人。
誰かが誰かを呼び止め、すぐに別の声が飛ぶ。
家で一人、静かにパソコンへ向かっている和真からは想像できないほど慌ただしい。
悠麻は案内されるまま、その中を通っていった。
何人かとすれ違う。
当然、誰も悠麻のことなんて知らない。
けれど、自分だけがひどく場違いな気がした。
フロアの一番奥まで来る。
大きな扉があった。
案内してくれた女性がノックする。
「白河様がお見えです」
「どうぞ」
聞き慣れた声だった。
扉が開く。
「……うわ」
思わず声が出た。
広い。
正面いっぱいに大きな窓があり、その向こうに街が広がっている。
ここがかなり高い場所だということだけは、嫌でも分かった。
大きなデスク。
応接用らしいソファとテーブル。
壁際には書棚が並び、その一角には打ち合わせに使うのか、別のテーブルまである。
その中央で、和真が立ち上がった。
「ユウ」
会社で聞くと、いつもの呼び方なのに妙に場違いに聞こえた。
和真も驚いたらしい。
目を少し見開いてから、笑う。
「受付から名前言われたとき、びっくりした。どうしたの?」
「これ」
悠麻は革のケースを掲げた。
「忘れ物」
「あ」
「テーブルに置きっぱなしだった」
和真が受け取る。
「これ探してたんだ」
「やっぱり?」
「どこに置いたかと思ってた」
「ちゃんと確認してから出ろよ」
和真が笑った。
「わざわざ届けてくれたの?」
「まあ」
「連絡くれれば取りに戻ったのに」
和真はケースをデスクへ置いた。
「ありがとう、ユウ」
「……どういたしまして」
真正面から礼を言われると、妙に居心地が悪い。
「じゃ、俺帰るわ」
「今日、仕事は?」
「休み」
「このあと予定ある?」
「特にないけど」
和真が時計を見る。
「じゃあ、食事行かない?」
「今から?」
「うん。お礼に奢るよ」
「忘れ物届けただけだぞ」
「それでも」
「別に飯くらい奢ってもらわなくても」
「俺が奢りたいの」
そう言われると、断る理由もなかった。
「ただ、一つだけ用事が残ってるんだ。少し待っててくれる?」
「どのくらい?」
「そんなにかからないよ」
「なら待ってる」
「適当に座ってて」
応接用のソファを示される。
悠麻はそちらへ向かおうとして――和真の視線が自分の胸元で止まっていることに気づいた。
「……何?」
和真が答えない。
視線だけが、ゆっくり下へ落ちる。
悠麻もつられて自分を見る。
今日は休みだった。
忘れ物を届けるだけのつもりで、家にあった薄手のブラウスを一枚着て、そのまま出てきた。
「それで来たの?」
「何が?」
「その服」
「そうだけど」
「上、これ一枚?」
「うん」
和真が眉を寄せた。
「こんな格好で、ここまで歩いてきたの?」
「別に普通だろ」
「普通?」
和真の視線を追って、悠麻はようやく理由に気づいた。
薄い生地が身体の線を拾っている。
家では気にしていなかったし、鏡もろくに見ずに出てきた。
「……見えてる?」
「かなり」
「マジで?」
「マジで」
悠麻は反射的に胸元を手で隠した。
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