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第19章 好きな店

「飯、どこ行こうか」 背後から聞かれて、悠麻は床に落ちていたブラウスを拾い上げた。 「んー……久世さん、何食いたい?」 「何でもいいよ。ユウは?」 「それ、一番困るやつ」 さっきまでのことなどなかったように答えながら袖を通し、ボタンを留めていく。 最後まで留めたところで、和真がじっとこちらを見ていることに気づいた。 「何?」 「それでも分かるね」 視線を辿り、悠麻は自分の胸元を見下ろした。 薄い生地の下で、弄られた名残がまだ消えていない。 「……久世さんのせいじゃん」 「そうだね」 悪びれもしない。 和真は椅子に掛けてあった自分のジャケットを取ると、悠麻の肩へ掛けた。 「着てて」 「暑いんだけど」 「外に出たらちょうどいいよ」 「絶対それが理由じゃないだろ」 「何のこと?」 しれっと返される。 悠麻は睨んだものの、脱いだところでまた着せられそうな気がして諦めた。袖へ腕を通してみれば、当然ながら少し大きい。 「じゃ、行こ」 「店は?」 「まだ決めてない。せっかくだし、ちょっと歩こうよ。なんか見つけたら入ればいいじゃん」 和真がわずかに目を丸くした。 「歩くの?」 「何その反応」 「いや。いいよ」 会社を出て、二人で並んで歩き始めた。 高層ビルの立ち並ぶ一帯を抜けても、悠麻は特に行き先を決めなかった。昼時を少し過ぎた街にはまだ人が多く、スーツ姿の会社員が行き交っている。 和真のジャケットは、やはり少し大きかった。 歩くたびに内側の布が身体へ触れる。 それだけなら何でもない。 けれど、ふとした拍子に鼻先を掠める匂いが気になった。 和真の匂いだ。 香水なのか、柔軟剤なのか、それとも単にいつも近くで嗅いでいる匂いが服に移っているだけなのか、悠麻には分からない。 さっきまで散々触られていたせいだ。 そうに決まっている。 布越しに胸の先が擦れるたび、妙にそこだけが意識される。 「……最悪」 「何?」 「何でもない」 ジャケットの前を寄せる。 こんなことで反応していると知られたら、絶対に面白がられる。 少し歩いたところで、見覚えのある道に出た。 悠麻は足を止めた。 「あ」 「どうしたの?」 「思い出した。この近くにうまい店ある」 「へえ」 「ちょっと歩くけど、そこ行かない?」 「いいよ」 「先に言っとくけど、久世さんが普段行くような店じゃないからな」 「どういう店?」 「行けば分かる」 そこから十分ほど歩いた。 オフィス街を外れるにつれて、建物が少しずつ低くなる。大通りから一本、さらに細い路地へ入ったところで、悠麻は古びた店の前に立った。 年季の入った暖簾。日に焼けた食品サンプル。引き戸の脇には、手書きの定食メニューが何枚も貼られている。 洒落っ気とは無縁の店だった。 「ここ」 和真が店を見上げる。 その横顔を見て、悠麻の胸にほんの少しだけ嫌なものが過った。 けれど、もう連れてきてしまった。 「入ろ」 引き戸を開けると、聞き覚えのある声が飛んできた。 「いらっしゃーい。二人?」 「二人」 空いているテーブルへ向かう。 昼のピークを過ぎているせいか、店内に残っている客は数人だけだった。昔と変わらないテーブルに、昔と変わらない椅子。壁に貼られたメニューだけが何枚か新しくなっている。 ほどなくして、年配の女性がお冷とメニューを持ってきた。 「はい、お冷ね。ご注文決まったら――」 悠麻を見たところで、言葉が止まる。 「あれ?」 顔を覗き込まれた。 「……ゆうちゃん?」 「久しぶり、おばちゃん」 「やっぱり! やだ、久しぶりじゃない! 何年ぶり?」 「五、六年くらい?」 「全然顔出さないんだから。元気だった?」 「元気元気」 女性の顔がぱっと明るくなる。 「ちょっと、男前になったんじゃない?」 「前から男前だっただろ」 「はいはい」 雑に流され、悠麻は笑った。 向かいを見ると、和真が黙ってこちらを見ている。 「あ、この人、俺が昔ここでバイトしてたときのおばちゃん」 「バイト?」 「そう。ホスト始めたばっかの頃、全然売れなくてさ。金なかったから、昼ここで働いてた」 「初耳だな」 「言ってないもん」 「ゆうちゃん、よく働いてくれたのよ」 横からおばちゃんが口を挟む。 「最初は包丁も危なっかしくてねえ」 「それは言わなくていいって」 「大根の皮、分厚ーく剥いて」 「おばちゃん」 和真が笑った。 ほんの少しだけ。 それを見て、悠麻もつられて笑う。 「だから俺の料理、ここの真似なんだよ。味噌汁とか煮物とか。ここで教えてもらった」 「そうなんだ」 「マジで何食ってもうまいよ。生姜焼きもいいし、唐揚げもうまいし、煮魚も――」 そこまで言ったところで、ふいに記憶が蘇った。 昔も、同じようなことを言った。 初めてアフターに誘われた夜だった。 好きな店でいいよ、と言われた。 まだ売れない新人で、高い店なんてろくに知らなかった悠麻は、その言葉をそのまま受け取った。 だったら、一番好きな店へ連れていこう。 そう思った。 ここだった。 これうまいんだよ。 こっちも食ってみて。 これ、おばちゃんが作るのが一番うまいから。 嬉しくなって、たくさん頼んだ。 けれど、向かいに座った男は、ほとんど箸をつけなかった。 古びたテーブルを見て、壁のメニューを見て、最後に悠麻を見た。 ――こういう店、来るんだ。 その言い方だけで分かった。 馬鹿にされている。 大量に並んだ料理は二人では食べきれず、ずいぶん残した。 帰り際には「もっと違う感じだと思ってた」と言われた。 それきり、その男から指名が入ることはなかった。 悠麻は無意識に口を閉じた。 ……またやった。 久世さん相手に、何やってんだ俺。 もっといくらでも店はあった。 和真なら、どんな高級店にだって行ける。 わざわざこんなところへ連れてくる必要なんてなかったのに。 恐る恐る向かいを見る。 和真はメニューを開いて――いなかった。 「すみません」 「はい?」 おばちゃんを見る。 「おすすめ、何ですか?」 「あら、何でも作るわよ」 「じゃあ、今日一番いいものを」 「そうねえ。今日は鯖がいいの入ってるから、味噌煮がおすすめ。あと肉じゃがもさっき出来たところ」 「じゃあ、それお願いします」 「あ、久世さん、唐揚げも食って」 「おすすめ?」 「絶対」 「じゃあ唐揚げも」 「あとだし巻き」 「そんなに食べられる?」 「食えるって。俺も食うし」 「じゃあそれも」 結局、テーブルには次々と皿が並んだ。 鯖の味噌煮。肉じゃが。唐揚げ。だし巻き。小鉢。 途中、おばちゃんがさらに一皿持ってくる。 「これ、サービス」 「え、いいんですか?」 「いいのいいの。ゆうちゃん久しぶりに来てくれたし」 和真は当然のように受け取らなかった。 「ありがとうございます」 両手を添えるように皿を受け取り、きちんと頭を下げる。 「いただきます」 箸を取る。 鯖を一口食べた。 「……美味しい」 「だろ?」 思わず身を乗り出した。 「この味噌煮うまいんだよ。俺も何回か作ったけど、なんか同じにならなくて」 「ゆうちゃん、煮る時間短いのよ」 「まだ覚えてんの?」 「そりゃ覚えてるわよ」 和真がまた笑った。 料理はきれいになくなっていった。 サービスでもらった小鉢まで残さず食べる。 悠麻は何度か、その箸を目で追っていた。 昔の男の顔が頭を過る。 同じ店。 同じ料理。 同じように、自分がうまいと言って連れてきた相手。 なのに、全然違った。 「ごちそうさまでした」 会計を終え、和真はおばちゃんにももう一度頭を下げた。 「本当に美味しかったです」 「あら、また来てね。ゆうちゃんも、今度は五年も空けちゃ駄目よ」 「分かったって」 「絶対よ」 「はいはい」 店を出る。 引き戸が閉まってから、悠麻は隣を歩く和真をちらりと見た。 「……ほんとにうまかった?」 「美味しかったよ」 「どれが?」 「鯖」 即答だった。 「あと肉じゃが。味噌汁も好きだった」 「だろ?」 口元が勝手に緩む。 「俺、あそこの味噌汁めっちゃ好きなんだよ」 「ユウが作ったのと似てた」 「あ、分かった?」 「うん」 その一言が、妙に嬉しかった。 「今度、鯖の味噌煮も作ろっかな」 「楽しみにしてる」 悠麻は笑った。 店へ連れていく前に感じた不安など、もうすっかり消えていた。 昔は、失敗したと思った。 好きな店へ連れていって、好きな料理を勧めて、それを嫌そうな顔で見られた。 あのときは、それから少しずつ覚えていったのだ。 相手が喜びそうな店を選ぶこと。 自分が好きなものより、相手が好きそうなものを勧めること。 客の前では、客が望んでいるHARUでいること。 けれど今日は、そんなことを考える前にここへ連れてきていた。 しかも和真は、何一つ嫌な顔をしなかった。 売れない頃にここで働いていたと知っても、笑わなかった。 おばちゃんの話を聞いて、勧められたものを食べて、最後には美味しかったと言った。 七年前、久世和真が知っていたのはホストのHARUだけだった。 その男に、今日はまた一つ、HARUではない自分を知られた。 なのに、不思議と後悔はなかった。 そのときだった。 ぽつ、と頬に冷たいものが落ちる。 「あれ?」 空を見上げる。 もう一滴。 次の瞬間、一気に雨脚が強くなった。 「うわ、マジか!」 二人で慌てて軒下へ逃げ込む。 「天気予報、雨だった?」 「見てない」 「俺も」 目の前で雨が地面を叩いている。 通り雨というには、かなり激しい。 「傘買う?」 「この降り方ならタクシー拾ったほうが早そうだね」 「だな」 和真がスマートフォンを取り出す。 そのとき、悠麻は目の前の通りを見て、ふと気づいた。 「……あ」 「どうしたの?」 「俺んち、この近くだ」 「家?」 「前まで住んでたとこ。ここから五分くらい」 契約が始まってから、必要な荷物は和真のマンションへ移した。 けれど、部屋そのものはまだ引き払っていない。家具も、持っていかなかった服も、細々した生活用品も残ったままだ。 雨宿りするだけなら、わざわざタクシーを待つより早い。 そこまで考えて。 「……来る?」 自分の口から出た言葉に、悠麻自身が一瞬止まった。 和真もスマートフォンから顔を上げる。 「ユウの家に?」 「うん。すぐそこだし。雨宿りしてけば?」 理由としては、それで十分だった。 雨はひどい。部屋は近い。タクシーを待つより、走ってしまえばすぐ着く。 なのに、口にしてから妙に落ち着かない。 七年間暮らした部屋だ。 客を連れ込んだこともない。 誰かに見せることを前提に整えた場所でもない。 ホストのHARUとは関係なく、白河悠麻が飯を食って、寝て、仕事へ行って、また帰ってきた場所。 さっき和真に見せた昔のバイト先より、ずっと自分に近い。 それでも、誘った言葉を取り消そうとは思わなかった。 「……嫌ならタクシーでいいけど」 「行く」 「雨宿りだからな」 「うん」 「あと、普通の部屋だから。久世さんちみたいなの期待すんなよ」 「期待って何を?」 「知らねえけど。とにかく普通だから」 和真が小さく笑う。 「分かった」 悠麻は雨の向こうにある、自分の部屋の方向を見た。 どうして久世さんまで誘ったんだろう。 一人で使ってもよかったのに。 そんな疑問が一瞬だけ浮かんだが、考える前に押し込める。 近いから。 雨が降っているから。 それだけだ。 「走るぞ」 悠麻は和真のジャケットの前を掴んだ。 「五分なら余裕」 「それでも結構濡れると思うけど」 「タクシー待ってるよりマシ」 そう言って、二人で雨の中へ駆け出した。

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