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## 第20章 雨

 マンションのエントランスへ駆け込んだ頃には、二人ともすっかり濡れていた。 「最悪。五分でこれ?」  悠麻は和真から借りていたジャケットを脱ぎ、ぱたぱたと水滴を払った。 「だからタクシーにすればよかったのに」 「久世さんだって走ってたじゃん」 「ユウが走るからでしょ」 「置いてけばよかったのに」 「それは嫌だよ」  さらっと返され、悠麻は濡れた前髪を掻き上げた。  エレベーターが到着する。  乗り込んで鏡を見ると、ひどい有様だった。髪は濡れて額に張りつき、シャツも雨を吸っている。隣の和真もスーツの肩から色が変わっていた。 「革靴、大丈夫?」 「たぶん」 「高いやつ?」 「さあ」 「怖。値段知らない靴で雨ん中走るなよ」 「走らせたのユウだけどね」 「……それは、ごめん」  ちらりと足元を見る。思ったよりしっかり濡れている。  そのままエレベーターを降り、自分の部屋の前まで来たところで、悠麻は鍵を取り出した。  差し込む。  けれど、回す前に一度だけ手が止まった。 「……何?」 「いや」  悠麻は鍵を回した。 「ほんと普通だからな」 「まだ言ってる」 「久世さんち見たあとだと余計にさ」  扉を開けて照明をつける。 「どうぞ」  先に入り、和真を招き入れた。  白い壁に、使い込んだソファ。低いテーブルとテレビ。その横には読みかけの雑誌が数冊積んである。  キッチンには調味料や乾物の袋が並び、冷蔵庫の扉にはスーパーのチラシが一枚、磁石で留められていた。  悠麻は靴を脱ぎながら、後ろを振り返る。  和真が部屋を見ていた。 「……何?」 「何も言ってないよ」 「顔が言ってる」 「思ってたのと違った」 「ほら。やっぱり」 「もう少し派手なの想像してた」 「だろ?」  和真が笑う。 「悪い意味じゃないよ」 「何それ」  よく分からない。  悠麻はそれ以上追及せず、洗面所からタオルを二枚持ってきた。 「はい」 「ありがとう」 「ちゃんと拭いて。床びしょびしょになるから」 「そっち?」 「風邪も引くから」  タオルを渡し、自分も髪を拭く。  借りていたジャケットはかなり濡れてしまった。椅子の背に掛け、シャツの裾を摘まむ。  こちらも完全に雨を吸っている。 「俺、着替えてくる。久世さんもシャツ脱いだら? 乾燥機かけるよ」 「着るものないでしょ」 「あー……」  クローゼットを思い浮かべる。 「俺のでよければ貸すけど」 「入る?」 「……無理か」  身長も体格も違う。 「じゃあタオルで我慢して」 「そうする」  悠麻は寝室へ入り、濡れた服を脱いだ。  クローゼットには、和真の家へ持っていかなかった服がまだかなり残っている。  その中から適当にTシャツとスウェットを引っ張り出した。  着替えてリビングへ戻ると、和真がこちらを見た。  視線が止まる。 「……何?」 「それ、普段着?」 「そうだけど」 「へえ」 「だから何だよ」 「初めて見た」  悠麻は自分の格好を見下ろした。  少し大きめのTシャツに、何年履いているか分からないスウェット。 「こんなの見ても面白くないだろ」 「似合ってるよ」 「スウェットが?」 「うん」 「適当すぎ」 「本当に思ってるけど」 「はいはい」  濡れた服をまとめ、洗面所へ放り込む。  戻ってくると、和真はソファにも座らず、棚の前に立っていた。 「勝手に漁るなよ」 「触ってないよ」 「ならいいけど」  棚の上には、充電器や爪切り、使いかけのハンドクリーム。読みかけの本。封を開けたまま輪ゴムで留めた菓子。  和真の視線が横へ動く。  冷蔵庫の横で止まった。 「ユウ」 「ん?」 「これ何?」  嫌な予感がした。  見れば、和真の指先にスーパーのポイントカードがぶら下がっている。 「あ」 「ポイントカード?」 「……返して」 「貯めてるの?」 「返せって」  取り上げる。 「何だよ。ポイントくらい貯めるだろ」 「いくらで貯まるの?」 「百円で一ポイント」 「何に使えるの?」 「一ポイント一円。五百円分くらい貯めてまとめて使う」  和真が黙った。 「何」 「いや」 「笑ったら殴るよ」 「笑ってない」 「口元」 「ちょっとだけ」 「殴る」  ポイントカードを引き出しへ突っ込む。 「もう忘れて」 「なんで? いいじゃん」 「久世さんにポイントカードのよさなんか分かんないだろ」 「教えてよ」 「嫌だよ」  背後で笑う気配がした。  悠麻は無視してキッチンへ向かう。 「コーヒー飲む?」 「飲む」 「インスタントしかないよ」 「十分」  電気ケトルへ水を入れる。  棚を開け、手を伸ばした。  白いマグ。  その隣にあった青いマグも取る。 「久世さん、どっちが――」  振り返る。  和真が青いマグを見ていた。 「何?」 「それ」 「これ?」  手にしたマグを見る。  深い青色の、ごく普通の陶器のマグだった。  長く使っているせいで、底には細かな擦れがある。縁にも小さな傷がついていた。 「まだ持ってたんだ」 「……あ」  言われて思い出した。 「これ、久世さんにもらったやつか」 「忘れてた?」 「いや、忘れてたっていうか……」  改めて見る。  七年前、和真からもらったものだった。  誕生日でも何でもない日に、出張先で見つけたからと渡された。 「あー、そうだ。もらったわ」 「それだけ?」 「何を期待してんの」  悠麻は笑いながらマグを軽く振った。 「普通に使ってるよ。これ、大きさちょうどいいし」  湯を注ぐ。 「結構丈夫だし。何回か落としたけど割れてない」 「落としたの?」 「二、三回」 「大事にしてよ」 「七年使ってんだから十分大事にしてるだろ」  何気なく言って、スプーンでコーヒーを混ぜる。  返事がない。 「久世さん?」 「うん」  いつもより少し遅れて返ってきた。 「何?」 「なんでもない」 「変なの」  白いマグを和真へ渡し、自分は青いほうを持った。 「はい」 「ありがとう」  二人でソファへ座る。  雨音はまだ窓の向こうから聞こえていた。  悠麻はコーヒーを一口飲み、顔をしかめる。 「あっつ」 「猫舌だったっけ」 「普通。今のは久世さんでも熱いって」  和真は一口飲んだ。 「平気だけど」 「嘘だろ」 「平気」 「舌どうなってんの」  自分は諦めてマグをテーブルへ置く。  ふと見ると、和真がまた青いマグを見ていた。 「そんな気になる?」 「ちょっとね」 「欲しいなら返そうか?」 「いらないよ」 「じゃあ何」 「使ってて」 「言われなくても使うけど」  悠麻はマグの取っ手へ指を引っかけた。 「割れるまでは」 「そっか」  和真の声が妙に柔らかかった。  悠麻はちらりと横を見る。 「今日の久世さん、なんか変じゃない?」 「そう?」 「うん」 「ユウのせいじゃない?」 「何で俺」 「忘れ物、届けに来てくれたから」 「ああ」  すっかり忘れていた。 「別に。あれないと困るかなと思っただけ」 「ありがとう」 「もう会社で聞いた」 「ちゃんと言ってなかったから」 「言ってたよ」 「もう一回言いたかった」 「……そ」  悠麻はまだ熱いコーヒーを吹いて冷ました。 「でも、受付に置いて帰るつもりだったからね」 「それでも来てくれたでしょ」 「暇だったし」 「うん」 「久世さんに会いに行ったわけじゃないし」 「分かってるよ」 「……何かむかつく」 「なんで?」 「知らない」  和真が笑った。  その笑い方まで、今日はやけに穏やかだった。  悠麻は残ったコーヒーを飲み干した。  テーブルへ青いマグを置く。  隣からも、白いマグが置かれた。  顔を上げる。  和真が近くにいた。 「……何?」 「ユウ」  まだ少し湿っている髪を、指先で耳の後ろへ払われる。  頬に手が添えられた。  悠麻は逃げなかった。  そのまま来ると思った。  けれど、和真はキスをしなかった。  親指が頬を一度撫でる。 「ここでも、いい?」  悠麻は瞬いた。  わざわざ聞くんだ。 「……契約だろ」 「そうだね」  胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。  自分で言ったのに。  肯定されると、なぜか少し面白くない。  和真の手が頬から首筋へ滑る。  いつもなら、もっと迷いがない。  欲しい場所へ触れて、悠麻がどう反応するかを見る。  けれど今日は、首筋を撫でた指が鎖骨へ落ちても、その先へ急がなかった。 「……何?」 「何が?」 「今日、優しくない?」 「嫌?」 「そうじゃないけど」  和真の指先がTシャツの襟へ触れる。 「脱いで」  声まで穏やかだった。  悠麻は和真を見たまま、Tシャツの裾を掴んだ。 「自分で?」 「うん」 「久世さんが脱がせればいいじゃん」  和真の目が細くなる。 「脱がせてほしい?」 「……そういう意味じゃない」 「じゃあ自分で」 「やっぱいつもの久世さんだわ」  ぼやきながらTシャツを脱ぐ。  頭から抜いたところで、和真の手が腰へ回った。  引き寄せられる。 「うわ」  バランスを崩し、そのまま和真の膝へ乗った。 「何だよ」 「こっちのほうが触りやすい」 「最初からそう言えば――」  言い終わる前に、額へ唇が触れた。  悠麻の言葉が止まる。  次は目尻。  頬。  それからようやく唇。  どれも短い。  けれど、いつもよりずっと時間をかけている。 「……今日ほんと変」 「そうかもね」 「何かあった?」 「何もないよ」  和真の視線が一瞬だけテーブルへ向いた。  使い込まれた青いマグが置いてある。  悠麻はそれに気づかなかった。  ただ、腰を抱く腕がいつもより優しいことだけは分かった。  雨は、まだ止みそうになかった。

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