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# 第22章 こっちのほうが好き
雨は、まだ降っていた。
さっきまで激しかった音は随分遠のき、今は窓を細かく叩く程度になっている。
悠麻はソファに身体を預けたまま、ぼんやり天井を見ていた。
和真は隣にいる。
すぐに離れるかと思っていたのに、そうしなかった。
乱れた髪を指で梳かれ、悠麻はようやく顔を向けた。
「……何?」
「何が?」
「さっきから見てる」
「見てるね」
否定すらしない。
悠麻は自分の格好を見下ろした。
Tシャツにスウェット。髪はほとんど何もしていない。
こんな姿を見られたところで、今さら隠すものもない。
「そんな珍しい?」
「珍しい」
「ただの部屋着だよ」
「知ってる」
和真の指が、額へ落ちていた髪を横へ払う。
「こっちが本当のお前なんじゃない?」
悠麻は眉を寄せた。
「何それ」
「そのままの意味」
「別にどっちも俺だけど」
「そうだね」
あっさり肯定された。
けれど和真は、もう一度悠麻を見る。
「俺はこっちのほうが好きだけど」
悠麻の動きが止まった。
「……こっち?」
「今のユウ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
悠麻は自分のTシャツを摘まむ。
「これ?」
「うん」
「スウェットだよ」
「見れば分かるよ」
「髪も何もしてないけど」
「それも分かってる」
和真は笑っている。
からかわれているようには見えなかった。
だから余計に分からない。
「……久世さん、No.1のHARUが好きだったんじゃないの?」
口にすると、和真が少し意外そうな顔をした。
「なんで?」
「なんでって……」
逆に、なぜ分からないのか。
和真が店で使う金額が大きくなった頃には、悠麻はどんどん順位を上げていた。
着るものも変わった。
客からの扱いも変わった。
店の中で目立つようになり、やがてNo.1になった。
その頃の自分を、和真はずっと見ていた。
だから再会してからも、昔のHARUでいればいいと思っていた。
「久世さん、俺が上に行ってからすげえ金使ってたじゃん」
「ああ」
「だから、そういう俺が好きなんだと思ってた」
和真は少し黙った。
「逆だよ」
「何が?」
「俺が一番だと思ったから、一番にしたかった」
悠麻は瞬いた。
「……俺を?」
「うん」
迷いがない。
まるで当たり前のことを言われたようだった。
「いや、でも俺、最初全然売れてなかったじゃん」
「売れてなかったね」
「営業も下手だったし」
「下手だった」
「……そこは否定しろよ」
「本当だから」
悠麻は和真を睨んだ。
和真が笑う。
けれど、さっきの言葉は撤回しなかった。
悠麻には、それがどうにも引っかかった。
「じゃあ、なんで俺だったの?」
和真は少し考えた。
「俺には、ユウが一番よく見えたから」
「……それだけ?」
「十分でしょ」
あっさりしている。
けれど、悠麻にはあっさり受け取れなかった。
あの店には、自分より売れている男がいくらでもいた。
話が上手い男もいた。
顔がいい男も、客の扱いが上手い男も。
自分はその中で、なかなか指名すら取れなかった一人だった。
それなのに。
「じゃあ、あんなに金使ったのも」
「一番にするには早いと思ったから」
「……力技すぎない?」
「実際、一番になったでしょ」
「なったけどさ」
和真にとっては、それで話が終わっているらしい。
悠麻はソファの背へ頭を預けた。
ずっと逆だと思っていた。
一番になったから、和真に価値を認めてもらえた。
No.1のHARUだったから、あれほど金を使ってもらえた。
だから今も、その男でいなければならないのだと。
「……俺、何してたんだろ」
「何が?」
「何でもない」
今度は本当に言わなかった。
昔の服を引っ張り出して、アクセサリーまでつけていたことなど、急に恥ずかしくなってきた。
和真の前でわざわざHARUを作る必要なんて、最初からなかったのかもしれない。
「久世さん」
「ん?」
「ほんとに、こっちのほうがいい?」
「うん」
「地味じゃん」
「それが何?」
また即答だった。
悠麻は少しだけ笑った。
「変なの」
「そう?」
「うん」
けれど、嫌ではなかった。
*
雨が弱くなったところで、帰ることにした。
悠麻は寝室へ入り、濡れた服を入れる袋を探していたが、途中でクローゼットの前に立ち止まった。
扉を開ける。
まだかなり服が残っている。
契約が始まった日に持っていったのは、仕事着や外出用の服がほとんどだった。
その下に畳まれているのは、Tシャツやスウェット、パーカー。
どれも大したものではない。
少し迷ってから、悠麻はTシャツを数枚取り出した。
スウェットも。
普段履いていたデニムと、適当に羽織れるパーカーも追加する。
ベッドの上に置いていた鞄を開き、まとめて押し込んだ。
「何してるの?」
振り返ると、和真が寝室の入口にいた。
「服」
「見れば分かる」
「……向こうに持ってく」
和真が鞄を見る。
それから、悠麻を見る。
何も言わない。
その顔がなんとなく気に食わなかった。
「何」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「何て?」
「知らねえよ」
和真が笑った。
悠麻は残っていたTシャツを丸めて鞄へ突っ込む。
「どうせ半年いるんだから、部屋着くらいあったほうが楽だろ」
「うん」
「それだけだから」
「分かった」
ファスナーを閉める。
思ったより荷物が増えた。
持ち上げようとしたところで、先に和真が取った。
「持つよ」
「いいよ、このくらい」
「濡れた服もあるでしょ」
もう片方の袋まで取られる。
「いや、俺の荷物なんだけど」
「知ってるよ」
和真は当然のように両方の荷物を持った。
「タクシー呼ぶね」
「もう雨弱いよ」
「また降ったら困るでしょ」
返事を待たず、和真は空いた手でスマートフォンを取り出した。
「久世さん、荷物一個持つって」
「いいよ。このくらい」
「でも――」
「ユウは鍵閉めてきて」
「……はいはい」
それ以上言っても返してくれそうになかった。
悠麻は空いた手をポケットへ突っ込んだ。
「じゃあ、よろしく」
「うん」
玄関を出る前に、悠麻は一度だけ部屋を振り返った。
また来る。
まだ引き払うわけでもない。
なのに、さっきより少しだけ物が減った部屋を見ていると、不思議な感じがした。
「ユウ、来たよ」
「あ、うん」
和真が呼んだ。
悠麻は鍵を掛け、そのあとを追った。
*
翌日。
鏡の前に立った悠麻は、しばらく自分を眺めていた。
昨日持ち帰った服の中から選んだのは、黒い細身のパンツと、何の飾りもないシャツだった。
引き出しを開ける。
銀色のネックレスが入っている。
少しだけ見て、そのまま閉めた。
「……いっか」
髪も軽く整える。
仕事なのだから最低限は必要だ。
けれど、それ以上はしなかった。
鞄を持って寝室を出る。
和真はリビングにいた。
「行ってくる」
顔を上げる。
その視線が、悠麻を上から下まで一度だけ見た。
何も言わない。
けれど、口元がわずかに緩んだ。
「……何」
「何が?」
「今、笑った」
「笑ってないよ」
「嘘つけ」
和真は答えず、パソコンを閉じた。
そのまま立ち上がる。
「何?」
「見送り」
「いいよ、別に」
そう言ったのに、和真はそのまま玄関までついてきた。
悠麻は靴を履き、立ち上がる。
「じゃ、行ってくる」
「うん」
扉へ手を掛けようとしたところで、腕を引かれた。
「ん?」
振り向く。
和真の手が頬に触れ、そのまま唇が重なった。
ほんの短いキスだった。
触れて、すぐ離れる。
悠麻は扉に手を掛けたまま固まった。
「……何、今の」
「行ってらっしゃい」
「いや、それは分かるけど」
「遅れるよ」
時計を見る。
確かに、ここで話している場合ではない。
悠麻は玄関を開けた。
廊下へ出てから、振り返る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、ユウ」
扉を閉める。
数歩歩いたところで、悠麻は自分の口元を指で触った。
キスなんて、珍しくもない。
もっと深いことだって何度もしている。
それなのに。
「……何なんだよ」
仕事へ行くだけなのに、玄関まで見送られた。
行ってらっしゃいとキスをされた。
恋人でもないのに。
そこまで考えて、悠麻は足を止めた。
「……契約だろ」
誰もいない廊下で呟く。
そうだ。
半年だけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
悠麻はエレベーターのボタンを押した。
扉に映った自分は、七年前のHARUとは随分違って見えた。
それでも今朝、和真は嬉しそうに笑っていた。
そのことだけは、どうしても頭から離れなかった。
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