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## 第23章 おかえり、ユウ
店を出たのは、一時四十分を過ぎた頃だった。
最後の客がなかなか帰らず、閉店後の片づけも少し押した。
マンションへ着く頃には、二時を回っていた。
エレベーターの中で欠伸を噛み殺す。
明日は仕入れがある。少し早めに起きなければならない。
そんなことを考えながら鍵を開けた。
「ただいま」
返事があるとは思っていなかった。
この時間なら、和真はもう寝ている。
契約が始まってから何度か深夜に帰っているが、リビングの灯りは消えていて、悠麻は起こさないように寝室へ入るのがいつもの流れだった。
「おかえり、ユウ」
「……え?」
顔を上げる。
リビングに灯りがついていた。
ソファには和真がいる。ラフな部屋着姿で、膝の上にノートパソコンを置いていた。
「まだ起きてたの?」
「うん」
「仕事?」
「さっきまで」
テーブルには飲みかけのコーヒーがある。
悠麻は靴を脱ぎながら時計を見た。
二時十三分。
「珍し」
「そう?」
「いつも寝てんじゃん」
「今日は起きてた」
「ふうん」
それ以上は気にしなかった。
「腹減った」
「何か食べる?」
「いや、この時間だしなあ」
そう言いながらキッチンを覗く。
冷蔵庫には、先日買った食材がまだ残っている。
「豆腐食お」
「それだけ?」
「寝る前だぞ。十分だって」
豆腐を取り出し、ねぎを刻む。
醤油をかけてリビングへ戻ると、和真がパソコンを閉じた。
「久世さんも食う?」
「一口もらおうかな」
「自分の取ってくれば?」
「一口でいい」
「はい」
箸で適当に切り分けて、小皿へ載せる。
和真がそれを食べた。
「美味しい」
「豆腐だよ」
「うん」
「俺、ねぎ切っただけ」
「それでも美味しい」
「久世さん、たまに褒めるとこおかしいよな」
笑いながら残りを食べる。
テレビでは、深夜のバラエティ番組が流れていた。
特別面白いわけでもないのに、二人ともなんとなく眺めた。
くだらないクイズに和真が真剣に答え、外した。
「え、嘘。久世さんこれ分かんないの?」
「ユウ分かった?」
「分かるよ。普通に」
「じゃあ何?」
「答え出てから言う」
「それはずるいでしょ」
「絶対合ってるって」
答えが出る。
外れた。
「あれ?」
「ユウ」
「いや、問題が悪い」
「さっき普通に分かるって」
「忘れて」
「嫌だよ」
「忘れろって」
笑いながら和真の肩を軽く叩いた。
和真も笑った。
その夜は、それだけだった。
*
二日後。
帰宅したのは、二時五分。
「ただいま」
「おかえり、ユウ」
また起きていた。
「今日も?」
「何が?」
「いや」
ソファの前には、今度は書類すらなかった。
和真はテレビを見ていた。
「何見てんの?」
「映画」
「面白い?」
「まだ分からない」
「何分くらい見た?」
「十分くらい」
悠麻は時計を見た。
「こんな時間から映画見始めたの?」
「駄目?」
「別に」
変な生活。
そう思いながら寝室へ向かいかけ、テレビの画面を見た。
「あ、これ知ってる」
「見たことある?」
「途中まで。犯人、たしか――」
「言うなよ」
「言わないって」
そのまま立って見ていると、和真がソファの端へ寄った。
空いた場所を見る。
「……ちょっとだけな」
座った。
結局、最後まで見た。
寝たのは四時近かった。
*
また別の日。
「ただいま」
「おかえり、ユウ」
キッチンから声がした。
悠麻は靴を脱ぎながら眉を寄せた。
「何してんの?」
「水飲んでる」
「……久世さん、最近夜更かしだな」
「そう?」
「前もっと早く寝てなかった?」
「そうだったかな」
「そうだよ」
冷蔵庫を開けていた和真が振り返る。
「ユウ、プリン食べる?」
「食う」
以前コンビニで買ったものではない。見たことのないプリンが二つ入っている。
「これどうしたの?」
「買った」
「久世さんが?」
「うん」
「プリン買うんだ」
「ユウが食べてたから」
「……へえ」
蓋を開ける。
一口食べた。
「うま」
「よかった」
「久世さんも食えば?」
「食べるよ」
二人でキッチンに立ったままプリンを食べた。
午前二時過ぎ。
いい大人が二人並んで、コンビニのプリンを食べている。
なんとなく可笑しくなった。
「何?」
「いや。久世さん、こういうの似合わねえなって」
「プリンが?」
「深夜にキッチンでプリン食ってんのが」
「ユウも食べてるけど」
「俺は似合うだろ」
「なんで?」
「庶民だから」
「プリンに階級ある?」
「ある」
「ないよ」
くだらない。
けれど、悠麻は笑っていた。
*
気づけば、それが何日も続いた。
鍵を開ける。
「ただいま」
「おかえり、ユウ」
靴を脱ぐ。
リビングへ行く。
和真がいる。
ある日はパソコンを開いていて、ある日は本を読んでいた。
テレビを見ていることもあれば、何もせずソファに座っていることもあった。
最初は、たまたまだと思っていた。
その次も偶然。
その次くらいから、悠麻も気にしなくなった。
「今日さ、客にめちゃくちゃ変な注文された」
帰って早々、そんな話をする日もあった。
「どんな?」
「『俺っぽい酒』作ってって」
「作ったの?」
「作った」
「何?」
「テキーラ」
「嫌いなの?」
「好きだよ、その客。でも酔うとうるさい」
和真が笑う。
「本人には?」
「『情熱的なイメージで』って言っといた」
「さすが元ホスト」
「接客業なめんなよ」
別の日には、店で余ったサンドイッチを持って帰った。
「食う?」
「食べる」
「夜中だけど」
「ユウも食べるんでしょ」
「俺は仕事終わりだからいいの」
「じゃあ俺も仕事終わり」
「久世さん何時に仕事終わった?」
「夕方」
「全然駄目じゃん」
それでも半分渡した。
また別の日には、ソファで和真が眠っていた。
テレビはついたまま。
テーブルには開きかけの本が置かれている。
「……寝るならベッド行けよ」
声をかけると、和真が薄く目を開けた。
「ユウ?」
「ただいま」
「……おかえり」
眠そうな声だった。
悠麻は少し笑った。
「無理して起きてなくていいのに」
「無理してないよ」
「今寝てたじゃん」
「ちょっとだけ」
「風邪引くよ」
テレビを消す。
「ほら、寝よ」
「うん」
二人で寝室へ向かった。
*
そうして、いつの間にか。
玄関を開ければ灯りがついていることが、普通になった。
「ただいま」
「おかえり、ユウ」
毎日、同じ言葉。
たったそれだけなのに、ない日はまだ一度もなかった。
和真が以前より仕事を減らしていることを、悠麻は知らない。
珍しく会社へ出たあの日。
必要な調整は、すでに済ませていた。
悠麻が仕事へ出る夕方から深夜にかけて、できるだけ予定を入れない。
朝早くから動く必要のある仕事も減らした。
日中に済ませられるものは日中へ。
人に任せられるものは任せる。
七年前なら、悠麻が店にいる時間に合わせて金を使った。
今は、悠麻が帰ってくる時間に合わせて、自分の時間を空けている。
そんなことを、本人に言うつもりはなかった。
*
「久世さんさ」
「ん?」
「最近、仕事してる?」
午前二時半。
悠麻はソファに寝転がり、和真はその横でテレビを見ていた。
「してるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「だって俺が起きたら家にいるし、帰ってきてもいるじゃん」
「家でもできる仕事多いからね」
「ああ」
それなら納得できる。
悠麻はクッションを抱え直した。
「金持ちって暇なんだな」
和真がこちらを見る。
「……そういう結論?」
「だって暇そうだもん」
「一応働いてるよ」
「はいはい」
悠麻は笑った。
テレビでは芸人が盛大に転び、スタジオから笑い声が上がった。
「馬鹿だな、これ」
悠麻が声を上げて笑う。
身体を丸め、抱えていたクッションへ顔を埋め、それでも笑いが収まらない。
「やば。腹痛い」
和真はテレビではなく、悠麻を見ていた。
「何?」
「いや」
「また変な顔してた?」
「してないよ」
「じゃあ何」
「楽しそうだなと思って」
「だって今の見た?」
「見た」
「絶対見てなかっただろ」
悠麻は笑ったまま、和真の腕を軽く叩いた。
「ちゃんと見ろって」
「見てるよ」
和真はそう言って、今度はテレビへ目を向けた。
悠麻もそれ以上は気にしなかった。
笑いながらクッションを抱え直す。
店で客に向けているのと同じような、作る必要のない笑顔だった。
それがいつから和真にも向くようになったのか。
悠麻自身は、まだ気づいていない。
*
その翌日も、店を出たのは一時半を過ぎていた。
いつもの道を歩き、いつものコンビニの前を通る。
マンションへ着く。
エレベーターを降りる。
鍵を取り出す。
そこまで来て、悠麻はふと時計を見た。
二時七分。
もう遅い。
なのに、玄関の向こうに灯りがあることを疑いもしなかった。
鍵を開ける。
「ただいま」
「おかえり、ユウ」
やっぱり聞こえた。
「今日寒かった」
「コーヒー淹れる?」
「飲む」
靴を脱ぎながら答える。
そして当たり前のように、声のするほうへ歩いていった。
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