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第30章 金蔓
その日も、和真は店に来ていた。
カウンターの隅、いつもの席。
最近ではもう、そこに和真がいる光景にも慣れてしまった。
「おかわり?」
「うん」
悠麻は棚からボトルを取った。
数日前に和真が入れたものだ。
値段を知っている悠麻としては、何度見ても気軽に開けるような酒には思えない。それでも和真は特別な日に飲むわけでもなく、いつもの顔でグラスを差し出してくる。
「これも、もう半分ないじゃん」
「飲んでるからね」
「早いな」
「毎日来てるし」
「自分で言う?」
悠麻は笑いながら栓を開けた。
「次はもうちょい安いのにしろよ」
「またそれ?」
「なくなるまで言う」
傾けたボトルから、琥珀色の酒がグラスへ落ちる。
ちょうどそのときだった。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ボトルを傾けたまま、悠麻が顔を上げる。
男が一人、店へ入ってきた。
目が合った。
悠麻の手が止まりかける。
「……え」
先に声を上げたのは男だった。
驚いた顔が、すぐに笑顔へ変わる。
「うわ、本当にいた!」
悠麻はボトルを立てた。
「……久しぶり」
「HARUじゃん。マジだったんだ」
男が嬉しそうに近づいてくる。
「最近この辺でお前見たって噂聞いてさ。まさかと思ったけど、本当にいたんだ」
「誰から聞いたんだよ」
「昔の客。HARUっぽいやつ見たって」
「……へえ」
「七年ぶり?」
「たぶん」
「うわ、懐かし」
男は昔とほとんど変わらない調子で笑っている。
悠麻も口元だけで笑った。
「とりあえず座れば?」
「おう」
男がカウンターへ向かう。
その途中だった。
「あ」
視線が止まった。
悠麻がまだ手に持っているボトルだった。
「それ、結構いいやつじゃん」
「まあな」
「誰の?」
悠麻が答えるより先に、男の視線がグラスへ落ちる。
今しがた酒を注いだグラス。
その向こうに座っている和真。
男が二度見した。
「……え?」
和真が顔を上げる。
男は数秒じっと見てから、目を見開いた。
「久世さんじゃん!」
悠麻の指に、わずかに力が入った。
「うわ、マジか。久世さんですよね?」
「……久しぶり」
「覚えてます?」
「顔は」
「ですよね。俺、HARUと同じ店にいた――」
「覚えてるよ」
「マジですか」
男は嬉しそうに笑った。
それから和真のグラスを見る。
悠麻の手にあるボトルを見る。
銘柄をもう一度確かめる。
「これ、久世さんの?」
「そう」
「へえ」
男が笑った。
悠麻はその顔を見た。
嫌な予感がした。
「相変わらずいいの飲んでますね」
「まあね」
「ていうか、何?」
男が悠麻を見る。
次に和真を見る。
「二人、まだ繋がってたんだ?」
「……最近、また会っただけ」
「へえ」
男の視線が、またボトルへ戻る。
半分近く減っている。
「これも久世さんが入れたんでしょ?」
「そうだけど」
「ふうん」
男が小さく笑った。
そして、昔と変わらない軽い調子で言った。
「なんだ。久世さん、まだ金蔓やってんじゃん」
「やめろよ」
悠麻の声がすぐに飛んだ。
男が振り返る。
「は?」
「そういうこと言うな」
「何、急に」
「いいから」
さっきまでの接客の声とは違った。
男が怪訝そうに悠麻を見る。
「何でお前が怒ってんの?」
「怒ってない。その話すんなって言ってるだけ」
「いや、だって――」
「やめろ」
短く遮った。
男が黙る。
ほんの数秒、二人の視線がぶつかった。
先に目を逸らしたのは悠麻だった。
「……もう帰って」
「は?」
「今日は帰ってくれ」
男の顔から笑みが消えた。
「何だよ。せっかく来たのに」
「悪いけど、帰って」
「何で今さらそんな感じになってんの?」
「……」
「久世さんのこと金蔓って言ってたのお前じゃん」
店の空気が止まった。
悠麻は何も言わなかった。
言っていないとは言えない。
七年前、自分の口でそう言った。
その事実だけは消えない。
「俺だけが言ってたみたいな顔すんなよ」
「……分かってる」
「なら何で止めんの?」
「今はそう思ってないから」
「へえ」
男が面白そうに悠麻を見る。
その目に、さっきまでとは少し違うものが混じった。
「変わったな、HARU」
悠麻は黙っている。
「昔はもっと――」
「もう帰ってよ!」
声が店内に響いた。
男の口が止まる。
悠麻自身も、一瞬だけ固まった。
思ったより大きな声が出た。
離れた席にいた客がこちらを見る。
「……すみません」
悠麻は客へ小さく頭を下げた。
それから男へ視線を戻す。
「もう帰って」
今度は声を抑えた。
「今日はあんたの顔、見たくない」
「……何だよ」
「いいから」
男はしばらく動かなかった。
悠麻を見ている。
何か言いたそうに口を開きかけて、それでも結局、何も言わなかった。
「……分かったよ」
吐き捨てるほどではない。
けれど、最初に店へ入ってきたときの親しげな調子は消えていた。
男が踵を返す。
扉へ向かう。
悠麻はその背中を見なかった。
扉が開く。
「じゃあな、HARU」
返事はしなかった。
扉が閉まる。
店内に静けさが戻った。
悠麻はしばらく俯いたまま動かなかった。
手には、まだ和真のボトルを持っている。
それに気づいて、棚へ戻した。
「……すみませんでした」
もう一度、店にいる客へ頭を下げる。
何事もなかったように仕事へ戻った。
空いたグラスを下げる。
注文を聞く。
酒を作る。
いつもの声で客と話す。
笑うところでは笑った。
けれど一度も、和真のほうを見なかった。
カウンターの隅にいることは分かっている。
何も言わずに座っていることも。
さっき注いだ酒に、ほとんど口をつけていないことも。
全部、視界の端では分かっていた。
それでも見られなかった。
見れば、何かを言わなければならない。
七年前。
自分が何を言ったのか。
どうしてそんなことを言ったのか。
どこまで本気だったのか。
何か一つ話せば、その先まで聞かれる気がした。
だから、何も言わなかった。
言えなかった。
カウンターの後ろには、飲みかけの高級酒がある。
ほんの数分前まで、ただの酒だった。
和真が自分で選び、自分で金を払い、自分で飲んでいる酒。
悠麻にとっては、それだけだった。
次は安いのにしろよ。
またそれ?
そんなことを笑って話せる、いつもの一本だった。
なのに今は、そのボトルに目を向けるたび、さっきの言葉が蘇る。
――まだ金蔓やってんじゃん。
悠麻は唇を噛んだ。
七年前。
同じ言葉を、自分も口にした。
それだけは、否定できなかった。
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