30 / 55

第30章 金蔓

 その日も、和真は店に来ていた。  カウンターの隅、いつもの席。  最近ではもう、そこに和真がいる光景にも慣れてしまった。 「おかわり?」 「うん」  悠麻は棚からボトルを取った。  数日前に和真が入れたものだ。  値段を知っている悠麻としては、何度見ても気軽に開けるような酒には思えない。それでも和真は特別な日に飲むわけでもなく、いつもの顔でグラスを差し出してくる。 「これも、もう半分ないじゃん」 「飲んでるからね」 「早いな」 「毎日来てるし」 「自分で言う?」  悠麻は笑いながら栓を開けた。 「次はもうちょい安いのにしろよ」 「またそれ?」 「なくなるまで言う」  傾けたボトルから、琥珀色の酒がグラスへ落ちる。  ちょうどそのときだった。  扉が開いた。 「いらっしゃいませ」  ボトルを傾けたまま、悠麻が顔を上げる。  男が一人、店へ入ってきた。  目が合った。  悠麻の手が止まりかける。 「……え」  先に声を上げたのは男だった。  驚いた顔が、すぐに笑顔へ変わる。 「うわ、本当にいた!」  悠麻はボトルを立てた。 「……久しぶり」 「HARUじゃん。マジだったんだ」  男が嬉しそうに近づいてくる。 「最近この辺でお前見たって噂聞いてさ。まさかと思ったけど、本当にいたんだ」 「誰から聞いたんだよ」 「昔の客。HARUっぽいやつ見たって」 「……へえ」 「七年ぶり?」 「たぶん」 「うわ、懐かし」  男は昔とほとんど変わらない調子で笑っている。  悠麻も口元だけで笑った。 「とりあえず座れば?」 「おう」  男がカウンターへ向かう。  その途中だった。 「あ」  視線が止まった。  悠麻がまだ手に持っているボトルだった。 「それ、結構いいやつじゃん」 「まあな」 「誰の?」  悠麻が答えるより先に、男の視線がグラスへ落ちる。  今しがた酒を注いだグラス。  その向こうに座っている和真。  男が二度見した。 「……え?」  和真が顔を上げる。  男は数秒じっと見てから、目を見開いた。 「久世さんじゃん!」  悠麻の指に、わずかに力が入った。 「うわ、マジか。久世さんですよね?」 「……久しぶり」 「覚えてます?」 「顔は」 「ですよね。俺、HARUと同じ店にいた――」 「覚えてるよ」 「マジですか」  男は嬉しそうに笑った。  それから和真のグラスを見る。  悠麻の手にあるボトルを見る。  銘柄をもう一度確かめる。 「これ、久世さんの?」 「そう」 「へえ」  男が笑った。  悠麻はその顔を見た。  嫌な予感がした。 「相変わらずいいの飲んでますね」 「まあね」 「ていうか、何?」  男が悠麻を見る。  次に和真を見る。 「二人、まだ繋がってたんだ?」 「……最近、また会っただけ」 「へえ」  男の視線が、またボトルへ戻る。  半分近く減っている。 「これも久世さんが入れたんでしょ?」 「そうだけど」 「ふうん」  男が小さく笑った。  そして、昔と変わらない軽い調子で言った。 「なんだ。久世さん、まだ金蔓やってんじゃん」 「やめろよ」  悠麻の声がすぐに飛んだ。  男が振り返る。 「は?」 「そういうこと言うな」 「何、急に」 「いいから」  さっきまでの接客の声とは違った。  男が怪訝そうに悠麻を見る。 「何でお前が怒ってんの?」 「怒ってない。その話すんなって言ってるだけ」 「いや、だって――」 「やめろ」  短く遮った。  男が黙る。  ほんの数秒、二人の視線がぶつかった。  先に目を逸らしたのは悠麻だった。 「……もう帰って」 「は?」 「今日は帰ってくれ」  男の顔から笑みが消えた。 「何だよ。せっかく来たのに」 「悪いけど、帰って」 「何で今さらそんな感じになってんの?」 「……」 「久世さんのこと金蔓って言ってたのお前じゃん」  店の空気が止まった。  悠麻は何も言わなかった。  言っていないとは言えない。  七年前、自分の口でそう言った。  その事実だけは消えない。 「俺だけが言ってたみたいな顔すんなよ」 「……分かってる」 「なら何で止めんの?」 「今はそう思ってないから」 「へえ」  男が面白そうに悠麻を見る。  その目に、さっきまでとは少し違うものが混じった。 「変わったな、HARU」  悠麻は黙っている。 「昔はもっと――」 「もう帰ってよ!」  声が店内に響いた。  男の口が止まる。  悠麻自身も、一瞬だけ固まった。  思ったより大きな声が出た。  離れた席にいた客がこちらを見る。 「……すみません」  悠麻は客へ小さく頭を下げた。  それから男へ視線を戻す。 「もう帰って」  今度は声を抑えた。 「今日はあんたの顔、見たくない」 「……何だよ」 「いいから」  男はしばらく動かなかった。  悠麻を見ている。  何か言いたそうに口を開きかけて、それでも結局、何も言わなかった。 「……分かったよ」  吐き捨てるほどではない。  けれど、最初に店へ入ってきたときの親しげな調子は消えていた。  男が踵を返す。  扉へ向かう。  悠麻はその背中を見なかった。  扉が開く。 「じゃあな、HARU」  返事はしなかった。  扉が閉まる。  店内に静けさが戻った。  悠麻はしばらく俯いたまま動かなかった。  手には、まだ和真のボトルを持っている。  それに気づいて、棚へ戻した。 「……すみませんでした」  もう一度、店にいる客へ頭を下げる。  何事もなかったように仕事へ戻った。  空いたグラスを下げる。  注文を聞く。  酒を作る。  いつもの声で客と話す。  笑うところでは笑った。  けれど一度も、和真のほうを見なかった。  カウンターの隅にいることは分かっている。  何も言わずに座っていることも。  さっき注いだ酒に、ほとんど口をつけていないことも。  全部、視界の端では分かっていた。  それでも見られなかった。  見れば、何かを言わなければならない。  七年前。  自分が何を言ったのか。  どうしてそんなことを言ったのか。  どこまで本気だったのか。  何か一つ話せば、その先まで聞かれる気がした。  だから、何も言わなかった。  言えなかった。  カウンターの後ろには、飲みかけの高級酒がある。  ほんの数分前まで、ただの酒だった。  和真が自分で選び、自分で金を払い、自分で飲んでいる酒。  悠麻にとっては、それだけだった。  次は安いのにしろよ。  またそれ?  そんなことを笑って話せる、いつもの一本だった。  なのに今は、そのボトルに目を向けるたび、さっきの言葉が蘇る。  ――まだ金蔓やってんじゃん。  悠麻は唇を噛んだ。  七年前。  同じ言葉を、自分も口にした。  それだけは、否定できなかった。

ともだちにシェアしよう!