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第31章 また勘違いした

 帰り道、和真は何も聞かなかった。  店を出てからマンションへ戻るまで、悠麻の隣をいつも通り歩いていた。エレベーターに乗っても、玄関の扉が閉まって二人きりになっても、店でのことには触れなかった。  悠麻はそれがかえって落ち着かなかった。  聞かれれば答えようと思っていた。けれど、何をどこまで話すのかは、自分でも決められないままだった。  結局、二人とも何も言わずにシャワーを済ませ、寝室へ入った。  同じベッドに入る。  いつもなら気にも留めない距離が、今日は妙に遠く感じた。  照明が消えてしばらくしてから、悠麻は口を開いた。 「……久世さん」 「何?」 「あのさ。今日の……あいつが言ってたこと」 「うん」  返ってきた声はいつもと変わらない。怒っているようには聞こえなかった。  それが余計に話しづらかった。 「俺も言ったことある。それは本当」 「そう」  責められなかった。  どうしてそんなことを言ったのかとも聞かれない。  悠麻は暗い天井を見つめた。 「でも……」  続きかけて、止まる。  言おうと思えば、言えることはあった。  けれど、何を並べたところで、自分が言ったことまでなくなるわけではない。  久世和真を金蔓と呼んだ。  その事実だけは変わらない。 「……ごめん」  結局、出てきたのはそれだけだった。  しばらくして、 「うん」  静かな声が返ってきた。  悠麻は横を向いた。暗くて、和真の表情までは見えない。 「久世さん」 「大丈夫。寝よう」 「……うん」  それ以上は言えなかった。  何か言わなければいけなかった気がする。けれど、何を言えばいいのか分からない。  考えているうちに、一日の疲れに引かれるように意識が沈んでいった。  和真は眠れなかった。  隣から聞こえてくる寝息は、いつの間にか規則正しくなっている。  ――俺も言ったことある。それは本当。  その言葉が頭から離れなかった。  悠麻は否定しなかった。  店であの男に言われたときも。今、自分と二人きりになってからも。  金蔓。  今日まで知らなかった言葉だった。  それを知った途端、七年間ずっと分からなかったことに、ひとつずつ答えがついていくような気がした。  初めて会った頃のHARUは、まだ売れていなかった。  よく笑う男だった。  和真の話をよく聞き、以前した話まで覚えていた。次に店へ行けば、ごく自然にその続きを聞いてくる。  そんな些細なことが嬉しくて通った。  酒を入れた。金を使った。  頼まれたからではない。自分がしたかった。HARUが喜ぶなら、それでよかった。  気づけば、HARUは店で一番になっていた。  その頃から、少しずつ変わった。  笑わなくなったわけではない。ただ、最初に惹かれた笑顔とは違った。酒をねだられることが増え、求められる金額も大きくなった。  それでも通ったのは、いつかまた、あの頃みたいに笑ってくれるのではないかと期待していたからだ。  結局、その日は来なかった。  ある夜、いつものように店へ行くと、HARUはいなかった。  辞めたのだと、そのとき初めて聞かされた。  本人からは何も聞いていなかった。  ただの客だったのだから、報告する義理などなかったのかもしれない。  それでも、ずっと引っかかっていた。  どうして変わったのか。  自分は、あの男にとって何だったのか。  七年間分からなかった答えが、今日になって突然与えられた。  金蔓。  金を使う客。  それだけだったのだと考えれば、何も不思議ではない。  そう思いたくなくても、悠麻自身が否定しなかった。  七年前だけなら、もう終わったことにできたかもしれない。  問題は、今だった。  七年間会わなかった悠麻から連絡が来た理由も、金だった。  店を残したい。そのための金が足りない。  だから自分を頼った。  それでも嬉しかった。  七年ぶりに声を聞いたときは、理由なんてどうでもよかった。また会える。そのことだけで十分だった。  だから金を出し、代わりに半年を求めた。  半年だけ、自分のものになってほしい。  最初から、そういう関係だった。  自分が金を出し、悠麻が半年を差し出す。  勘違いする余地なんてないほど、はっきりしていたはずなのに、いつの間にか忘れかけていた。  和真は隣へ目を向けた。  すぐそばに悠麻が眠っている。  こうして同じベッドで眠ることにも、もう慣れてしまった。  最初の頃は、午前二時になると悠麻の帰りを待っていた。  玄関から「ただいま」と聞こえれば、「おかえり、ユウ」と返す。  いつからか、それが一日の終わりになっていた。  最近は、そのやり取りさえ減った。  毎日のように店へ行くようになったからだ。  カウンターの隅で酒を飲みながら悠麻が働く姿を眺め、閉店を待つ。仕事が終われば一緒に店を出て、同じ道を歩いて帰る。  そうすることにも、いつの間にか理由がいらなくなっていた。  半年だけの生活に、当たり前が増えていた。  水族館へ行った日、悠麻は「また来よう」と言った。  その一言が、たまらなく嬉しかった。  また。  次がある言葉だった。  和真はそこに、半年より先の時間まで見た。  キスもそうだった。  最初は自分から求めていたのに、いつの間にか悠麻からも触れてくるようになった。腕を回し、抱きつき、自分から唇を重ねてくる。  ついこの間のクイズでは、正解するたびにキスを待ちながら、少しずつこちらへ寄ってきた。  自分の好みを思っていた以上に知っていたことも嬉しかった。  だから最後に聞いた。  ――俺が今、一番欲しいものは?  悠麻は答えなかった。  代わりに、自分からキスをした。  あのときは、それで答えをもらった気になった。  自分が欲しいのは悠麻で、その意味を悠麻も分かってくれているのだと。  けれど、悠麻は何も言っていない。  あのキスに意味をつけたのは、自分だ。  水族館の「また」も、笑顔も、自分からしてくれるようになったキスも。  好きだと言われたことはない。  半年が終わっても一緒にいたいとも。  それなのに、いつからか、その先も当然続いていくような気になっていた。  胸の奥が、ゆっくり冷えていく。 「……俺、また勘違いしたんだ」  口にすると、妙にしっくりきた。  七年前も同じだった。  笑ってくれる。  話を覚えていてくれる。  自分が行けば、楽しそうに隣へ座ってくれる。  そんな一つ一つを拾って、自分は他の客とは違うのかもしれないと思った。  本人に確かめたことなど、一度もなかった。  今も同じだ。  悠麻の言葉や行動に、自分が欲しい意味をつけている。  今回の始まりだって金だった。  悠麻は店を守るために自分を頼り、自分は金を出した。違うのは、最初から半年という対価を決めたことだけだ。  悠麻は、その約束を守っている。  同じ家で暮らし、食事をし、出かけ、身体を許し、キスもする。  その中で見せる笑顔まで嘘だとは思わない。  ただ、それが恋だとは限らない。  隣で悠麻が寝返りを打った。  こちらを向き、二人の距離が少し縮まる。  和真は無意識に手を伸ばしかけた。  髪に触れる寸前で、止める。  同じ寝室を使うことさえ、自分が出した条件だった。  こうして隣にいることまで、悠麻が望んだものだと思い込むところだった。  手を引いた。  好きだ。  七年前から、ずっと。  自分の気持ちだけは分かっている。  だからこそ、悠麻の気持ちまで自分で決めたくなかった。  笑ってくれたら、その笑顔だけを受け取ればいい。  キスをしてくれたら、そのキスだけでいい。  その先まで、自分の欲しい答えで埋めない。  半年が終われば、悠麻を自由にする。  店を失わず、住む場所にも困らず、もう金を理由に自分を頼らなくても生きていけるようにして。  もし何年か先、また悠麻から「困ってる」と連絡が来れば、自分はきっと助けてしまう。  七年間忘れられなかった男だ。  断れるはずがない。  なら、次に頼る必要そのものをなくせばいい。  それで終わりにする。  和真はもう一度、隣を見た。  手を伸ばせば触れられる距離にいる。  それでも、触れなかった。  残された時間を壊したいわけではない。  悠麻が笑ってくれるなら見ていたい。そばに来てくれるなら拒むつもりもない。  ただ、その先を期待するのはやめる。  明日から少しだけ、元の場所へ戻ろうと思った。  悠麻を好きな男ではなく。  半年を買った、ただの客だった場所へ。

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