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第32章 触れてくれない

 次の日から、和真が少し変わった。  最初は気のせいだと思った。  朝――といっても、二人にとっては昼前だが、悠麻が起きてリビングへ行けば、和真はいつも通りそこにいた。 「おはよう」 「おはよう、ユウ」  声も変わらない。  昨日のことを蒸し返すこともなかった。  悠麻が簡単に食事を作れば一緒に食べるし、食べ終われば「美味しかった」と言う。  店にも来た。  いつものカウンターの隅へ座って、いつものように酒を飲む。  閉店すれば一緒に帰る。  何も変わっていない。  だから、最初は気にしなかった。  けれど三日も経つ頃には、さすがに分かった。  和真から触れてこない。  以前なら、ソファに並んで座れば自然に肩を抱かれることがあった。  すれ違いざまに腰へ手を回されたり、料理をしていれば後ろから覗き込まれたりする。  キスだって、したいと思えばしてくる男だった。  それが、なくなった。  悠麻から近づけば拒まれない。  ソファで肩を寄せれば、そのままでいてくれる。  腕を組んでもほどかれない。  キスをすれば、ちゃんと返してくれる。  ただ、和真からは来ない。  それだけだった。  たったそれだけなのに、妙に気になった。 「久世さん」 「何?」 「……いや」  何でもない。  そう言って、悠麻はテレビへ視線を戻した。  隣に座っている距離も以前と変わらない。  なのに、遠い。  何が違うのか考えるたび、数日前の夜へ戻ってしまう。  ――俺も言ったことある。それは本当。  言わなければよかったとは思わない。  事実だからだ。  あの場で否定して、なかったことにするほうが嫌だった。  けれど、もう少し何か言えたんじゃないかとは思う。  どうして言ったのか。  あの頃、自分が何を考えていたのか。  それを話せば、何か違ったのかもしれない。  でも、話そうとすると言葉が止まった。  どんな理由を並べても、言い訳に聞こえる気がした。  自分も言った。  そこだけは事実だった。  だから結局、謝ることしかできなかった。  和真は怒らなかった。  責めもしなかった。  それが、今になって怖かった。  怒ってくれたほうが、まだ分かりやすかった。  ひどいと言われれば謝れた。  どうしてそんなことを言ったのかと聞かれれば、答えられたかもしれない。  けれど和真は何も聞かなかった。  ただ、少しだけ離れた。  それが一番困る。 「ユウ」 「ん?」 「聞いてる?」 「……ごめん。何?」  和真が苦笑した。 「今日、ちょっと荷物届くから」 「うん、わかった」  起こしたらごめんねと、いつもの会話だった。  なのに、悠麻は和真の顔ばかり見ていた。  笑っている。  怒っていない。  声も優しい。  何もおかしくない。  そのはずなのに。 「久世さん」 「何?」 「俺、何かした?」  言ってから、自分でも馬鹿な質問だと思った。  した。  原因なんて分かっている。  和真も少しだけ黙った。 「何もしてないよ」 「……本当に?」 「うん」 「じゃあ、なんで」  そこまで言って、続きが出てこなかった。  なんで触ってこない。  なんでキスしてこない。  なんで前みたいに抱きついてこない。  そんなことを自分から聞くのは、妙に恥ずかしかった。 「なんで?」  和真が続きを待っている。 「……何でもない」 「そう?」 「うん」  またそれだ。  追及してこない。  悠麻が何でもないと言えば、そのまま引く。  以前なら、もう少し聞いてきた気がする。  そう思ってから、悠麻は眉を寄せた。  以前の久世さんって、どんなだったっけ。  こんなことを気にしたことがなかった。  触られれば触られたで受け入れていたし、キスをされれば返していた。  和真が自分をどう見ているかなんて、いちいち考えもしなかった。  今は違う。  返事が一拍遅れただけで気になる。  店へ来る時間がいつもより遅ければ時計を見る。  カウンターの隅に和真が座れば安心する。  帰宅してソファへ座ったとき、以前より数十センチ離れているだけで落ち着かない。  いつから、こんなに気にするようになったんだろう。  分からなかった。      *  その夜も、和真は店へ来た。  いつもの席で酒を飲み、閉店まで待っていた。  最後の客を送り出し、片づけを終えると、二人で店を出た。  夜風に当たった和真が、わずかに肩をすくめる。 「ちょっと冷えるね」 「そう?」 「ユウは平気そうだね」 「これくらいがちょうどいい」 「暑がりだもんね」 「まあな」  何気ない会話だった。  自分が暑がりなのを覚えている。いつも通り隣を歩いて、いつも通り話しかけてくる。  こういうところは、何も変わっていない。  それなのに、やっぱり何かが違う。  悠麻は隣を歩く和真を横目で見た。 「何?」 「別に」  マンションへ帰り、順番にシャワーを浴びる。  悠麻が寝室へ入ったとき、和真はもうベッドにいた。  スマートフォンを見ている。  悠麻も自分の側へ入った。  横になる。  和真との間に、わずかな隙間があった。  以前からこれくらいだったのかもしれない。  そう思おうとした。  けれど、気になる。  悠麻は横向きになった。  和真はまだスマートフォンを見ている。  少し待つ。  何も起きない。 「久世さん」 「ん?」 「まだ寝ないの?」 「もう寝るよ」  スマートフォンを置き、照明を落とす。  暗くなった。  和真が仰向けになる。  それだけ。  悠麻は暗闇の中で目を開けていた。  なんなんだよ。  数日前までなら、もっと近かった。  少なくとも、こんなふうに隣にいる男の動きを気にして待ったりしなかった。  悠麻は自分から距離を詰めた。  肩を和真の腕へ押しつける。  和真がこちらを向いた。 「どうした?」 「……別に」 「寒い?」 「違う」  悠麻はさらに寄った。  胸元へ額をつけ、腕を腹へ回す。  拒まれない。  和真の腕が背中へ回り、軽く抱き返してくれる。  それだけで、胸の奥にあったものが少しほどけた。  もっと欲しくなった。  悠麻は顔を上げ、自分からキスをした。  和真は一瞬だけ動かなかった。  けれど、すぐに返してくる。  唇が離れる。  悠麻は和真の顔を見た。 「もう一回」  今度は和真から唇を重ねた。  悠麻は目を閉じた。  これだ。  ここ数日ずっと欲しかったものが、ようやく戻ってきた気がした。  キスが終わっても離れず、和真の胸元へ顔を寄せる。 「久世さん」 「何?」 「今日、しない?」  和真の身体が、ほんの少し止まった。  その一瞬を悠麻は見逃さなかった。 「……嫌?」 「嫌じゃないよ」 「じゃあ、しよう」  自分でも、どうしてそこまで言うのか分からなかった。  契約なのだから、こんなふうに誘う必要なんてない。  それでも今は、和真から求められたかった。  まだ自分を欲しがっていると分かれば、それでいい気がした。  和真が悠麻の頬へ触れた。 「ユウ」 「何?」 「今日は、少し違うことしてもいい?」  悠麻は和真を見た。  ここ数日、自分から触れてこなかった男が、ようやくこちらを見ている。 「いいよ」  ほとんど迷わなかった。  和真の指が頬を撫でる。  悠麻はその手に自分の手を重ねた。  和真が少しだけ目を細めた。  それから、もう一度キスをした。

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