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第35章 久世さんのための一杯
きっかけは、一本のボトルだった。
開店前、棚の酒を確認していた悠麻は、その一本を手に取ったところでふと和真の顔を思い浮かべた。
これ、久世さん好きそうだな。
ラベルを見ながら考える。
そのままでは少し癖が強い。でも、合わせるものを変えれば好みに寄せられそうだった。
「……やってみるか」
グラスを一つ出した。
少量ずつ合わせ、ステアする。
一口。
「違うな」
不味くはない。
客に出しても問題ない程度にはまとまっている。
けれど、和真に飲ませたい味ではなかった。
そこまで考えて、悠麻は手の中のグラスを見た。
久世さんに飲ませたい味って、なんだよ。
自分で考えておいて少しおかしくなる。
それでも、もう一度ボトルへ手を伸ばした。
和真の好みなら知っている。
よく飲む酒も、選ばない酒も分かる。
甘いものが嫌いなわけではない。ただ、甘さが舌に残るものはあまり好まない。
香りが強すぎるものも選ばない。
柑橘は好きだが、酸味が前へ出すぎると少しだけ眉を寄せる。
本人は気づかれていないと思っているのかもしれない。
悠麻は気づいていた。
毎日のようにカウンターの向こうから見ている。
七年前にも酒の好みくらいは知っていたが、今のほうがずっと細かく分かる。
だったら。
久世さんが好きな一杯を作ってみよう。
そう思った。
メニューに載せるためではない。
新しい看板商品にするつもりもない。
久世和真に飲ませるためだけの一杯。
そう決めると、途端に面白くなった。
*
それから、開店前に試作をするのが日課になった。
ベースを変える。
割合を変える。
香りを足す。
色を見る。
一口飲んでは首を傾げ、また作り直す。
美味いものを作るだけなら、そこまで難しくない。
問題は、久世さんに飲ませたいかどうかだった。
「……違う」
その日も、一杯が没になった。
悪くない。
むしろ普通に美味い。
けれど、違う。
何が違うのか説明しろと言われると困る。
和真なら普通に飲むだろう。
美味しいとも言うと思う。
だから余計に納得できなかった。
それでは、いつもと同じだ。
棚から高い酒を選んで、悠麻がそれをグラスへ注ぐ。
和真が飲む。
美味しいと言う。
それなら毎晩やっている。
作りたいのは、それではなかった。
悠麻は残った酒を捨て、グラスを洗った。
問題はもう一つあった。
和真が毎日のように店へ来ることだ。
しかも時間が決まっていない。
開店してすぐ現れる日もあれば、二十二時を過ぎてから来る日もある。
おかげで最近は、扉が開くたびに少しだけ焦るようになった。
その日も、まだ早いだろうと思って試作していた。
カウンターにはグラスが三つ。
ボトルも数本出したままだ。
最後の一杯を口に含んだところで、扉が開いた。
「いらっしゃいま――」
顔を上げる。
和真だった。
「早くない?」
「第一声がそれ?」
「いや、今日は早いなと思って」
「来ちゃ駄目だった?」
「そういう意味じゃないけど」
悠麻はさりげなく試作のグラスを下げた。
和真は見逃さなかった。
「何飲んでたの?」
「試作」
「新しいカクテル?」
「まあ」
「へえ」
和真がいつもの席へ座る。
「俺も飲みたい」
「だめ」
即答すると、和真が目を瞬いた。
「なんで?」
「まだできてないから」
「一口くらい」
「だめ」
「厳しいね」
「完成してないもの客に出せるかよ」
「俺も客なんだ」
何気なく言われて、悠麻の手が止まった。
和真は気づかず、メニューを眺めている。
客。
七年前なら、当たり前だった。
久世さんは客で、自分はホストだった。
今だって、この店へ来れば客と店員だ。
なのに最近、その言葉に少し違和感がある。
「……久世さんはいいんだよ」
「何が?」
「なんでもない」
試作のグラスを流しへ運ぶ。
「完成したら飲ませて」
「うん」
「約束ね」
「分かったって」
悠麻はグラスを洗いながら、口元が緩みそうになるのを堪えた。
言われなくても、そのつもりだ。
むしろ、久世さんに飲ませるために作っている。
まだ言わないけど。
*
試作を始めてから、和真を見る時間が増えた。
正確には、前から見ていた。
毎日のように店へ来るのだから、嫌でも目に入る。
でも今は少し違う。
何を飲んだときに美味しそうな顔をするのか。
何を食べたあと、どの酒を選ぶのか。
疲れている日は何を飲むのか。
機嫌がいい日は。
仕事のことを考えている日は。
そんなことまで気になるようになった。
家でも同じだった。
食事をしているとき。
テレビを見ているとき。
何でもない話をしているとき。
和真は人に何かをしてやることには慣れているくせに、自分が何をしてほしいかと聞かれると少し困る。
高いものを買うことには迷わないのに、悠麻がスーパーの特売で得をした話をすると、妙に楽しそうに聞く。
休日だからといって、どこかへ出かけたがるわけでもない。
何もなければ家にいる。
悠麻が作った飯を食べて、くだらないテレビを見て笑っている。
七年前には知らなかった。
あの頃に知っていたのは、店へ来る久世和真だけだった。
何を飲むのか。
どんな仕事をしているのか。
どれだけ金を持っているのか。
そんなことばかりだった。
今は違う。
知っていることが増えるたび、試作も少しずつ変わった。
最初は、和真が好きな酒を組み合わせればいいと思っていた。
それだけでは足りなかった。
色。
香り。
口に入れた瞬間の味。
飲み込んだあとに残るもの。
どれも、久世さんらしくしたかった。
そう考えるほど、完成から遠ざかっていく気がした。
「……難しいな」
閉店後。
和真が来なかった夜に、悠麻は一人でグラスを傾けた。
今日のものは、かなりいい。
香りも悪くない。
甘さも残りすぎない。
最初に作ったものとは比べものにならないくらい、和真の好みに近づいている。
それでも。
「まだ違う」
グラスを置いた。
何が足りないのかは分からない。
けれど、これを完成とは呼びたくなかった。
ふと、棚に並ぶボトルを見る。
和真がこれまで入れてきた酒の中には、値段を聞けば驚くようなものもある。
誕生日にも、高価なグラスをもらった。
店のことだってそうだ。
自分が和真から受け取ったものを金額にすれば、とんでもない数字になる。
同じだけ返すことなんてできない。
でも、返す必要もない気がした。
高い酒なら、久世さんは自分で買える。
欲しいものがあれば、たいていのものは手に入る。
だったら。
金を出しても買えないものを作ればいい。
悠麻はグラスを持ち上げた。
自分が知っている久世さん。
七年前から知っていたこと。
この半年で初めて知ったこと。
毎日カウンターの向こうから見てきたこと。
一緒に暮らして気づいたこと。
そういうものを全部使って、自分にしか作れない一杯にする。
そう考えると、少しだけ完成形が見えた気がした。
けれど、まだ作らない。
まだ時間はある。
久世さんのことだって、きっとまだ知らないことがある。
だったら、それも知ってからでいい。
契約が終わる日に完成させよう。
半年間ありがとう。
そして――これからもよろしく。
その意味を込めて、完成させた最初の一杯を久世さんに飲ませる。
悠麻の中では、それがひどく自然なことに思えた。
半年が終われば、この関係も終わる。
そんな可能性は、もうほとんど考えていなかった。
悠麻は残っていた酒を飲み干し、グラスを洗った。
明日は、もう少し香りを変えてみよう。
そう考えながら、試作のメモに新しい配合を書き加えた。
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