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第36章 あと一か月

 あと一か月。  スマートフォンのカレンダーを見ながら、和真はその数字を頭の中で数えた。  正確には、三十二日。  半年という期間を決めたときは、長いと思っていた。  七年間会えなかった男と、半年も一緒にいられる。  同じ家で暮らして、同じベッドで眠る。  それだけあれば十分だと思った。  実際には、あっという間だった。 「久世さん、何見てんの?」  声に顔を上げる。  キッチンにいた悠麻が、冷蔵庫の扉を開けたままこちらを見ていた。 「予定」 「仕事?」 「そんなところ」 「ふうん」  興味をなくしたらしく、悠麻は冷蔵庫へ視線を戻した。  数秒後。 「えっ」  声がした。  和真はスマートフォンを伏せる。 「何?」 「これ」  悠麻が冷蔵庫から小さな箱を取り出した。  白い箱に、見覚えのある店名が入っている。 「久世さん買った?」 「うん」 「なんで?」 「食べたそうだったから」 「俺が?」 「この前テレビで見てたでしょ」  悠麻が黙った。  数日前、二人でテレビを見ていたときに紹介されていた店だった。  一日に作れる数が少なく、予約もなかなか取れないらしい。  画面を見ながら悠麻が、 「うまそう」  と言った。  ただ、それだけだった。 「……あれで?」 「うん」 「俺、食べたいって言ったっけ」 「言ってない」 「じゃあなんで買うんだよ」 「食べたそうだったから」 「金持ちって怖いな」  呆れたように言いながら、悠麻の口元は笑っていた。 「食べないなら俺が食べるけど」 「食べる」 「じゃあ出せば?」 「今?」 「今」 「飯の前だけど」 「ユウがいいなら」 「じゃあ半分だけ」  箱を抱えたまま、悠麻が食器棚へ向かう。  その後ろ姿を、和真はしばらく見ていた。  買っておいてよかったと思う。  あと何回、こういう顔を見られるのだろう。  そんなことを考えるようになったのは、残りの日数を数え始めてからだった。      * 「何食べたい?」  休日の昼前。  和真が聞くと、悠麻はソファでスマートフォンを見たまま答えた。 「なんでもいい」 「一番困るやつ」 「久世さんは?」 「ユウが食べたいものでいいよ」 「またそれ」  悠麻が顔を上げる。 「最近そればっかりじゃない?」 「そう?」 「そう。何食べるって聞いても俺に決めさせるし」 「嫌?」 「嫌じゃないけど」  悠麻は少し考えた。 「じゃあ、蕎麦」 「いいね」 「前に行ったところ」 「分かった」 「じゃあ、そのあと買い物付き合って」 「いいよ」 「スーパーな」 「分かってる」  二人で外に出る支度を始めた。  蕎麦を食べる。  スーパーへ行く。  それだけの休日だった。  以前なら、わざわざ予定と呼ぶほどのものではなかった。  けれど今は、一つ一つを覚えておきたかった。  悠麻が何を食べたのか。  何を見て笑ったのか。  スーパーで商品を買い物かごに入れていく姿。  帰ってから作ってくれた食事。  そんなものばかりが、妙に大切になった。      *  プレゼントも増えた。  最初は本当に些細なものだった。  悠麻が店で使っていたペンが書きづらそうだったから、似た形のものを買った。  冬に向けて薄手のコートを見ていたから、似合いそうなものを探した。  店で使える道具も買った。  悠麻はそのたびに、 「別に買わなくていいのに」  と言った。  けれど、使う。  翌日には新しいペンが胸ポケットに入っていた。  コートを渡した日は、鏡の前で何度も横を向いていた。 「似合う?」 「うん」 「ほんとに?」 「似合わないもの買わないよ」 「高かった?」 「値段聞くのやめない?」 「怖いんだよ、久世さんの買い物」  そう言いながら、脱ごうとはしなかった。  和真はそれだけで満足だった。  持っていってほしい。  自分がいなくなったあとも。  使えるものは、全部。  ただ、その考えだけは口にしなかった。      *  最近の和真は甘い。  悠麻自身も、そう感じているらしかった。  ある夜、ベッドに入ってから、不意に言われた。 「久世さん」 「何?」 「最近、俺に甘くない?」 「そうかな」 「そうだよ」 「前から甘いと思うけど」 「自分で言う?」 「事実でしょ」 「まあ……そうだけど」  悠麻が笑った。  暗い寝室で、その身体が少し近づいてくる。 「なんかあった?」 「何もないよ」 「ほんと?」 「うん」  悠麻はしばらくこちらを見ていた。  けれど、それ以上は聞かなかった。 「ならいいけど」  そう言って、和真の胸元へ額を寄せる。  和真はその身体を抱き寄せた。  少し前までなら、この仕草一つにも意味を探していた。  自分から近づいてくれる。  抱きついてくれる。  もしかしたら。  そう考えては期待した。  今は、考えない。  悠麻が来てくれたなら抱く。  笑ってくれたなら笑い返す。  食べたいと言えば用意する。  欲しいものがあるなら渡す。  それだけでいい。  残り一か月。  その時間くらい、悠麻が望むように過ごさせてやりたかった。 「おやすみ、久世さん」 「おやすみ、ユウ」  やがて腕の中から規則正しい寝息が聞こえ始めた。  和真は眠らず、暗い天井を見ていた。  あと一か月。  まだ一か月ある。  そう考えれば長い。  もう一か月しかない。  そう考えれば、あまりにも短い。  食べたいものは、できるだけ食べさせよう。  欲しいものがあるなら渡す。  何か残せるものがあるなら、残しておきたい。  悠麻が自分のいない生活へ戻ったあとも、困らないように。  それとは別に。  できるだけ楽しかったと思ってほしかった。  半年間、自分の都合で縛った時間を。  最後くらいは。  和真は腕の中の悠麻へ目を落とした。  安心しきった顔で眠っている。  頬へかかった髪を指で払う。  悠麻は起きなかった。  あと一か月。  最後に食べるもの。  最後に渡すもの。  最後に見る顔。  一つずつ増えていくたびに、終わりが近づいてくる。  それでも、やめるつもりはなかった。  残り全部を使って、甘やかそうと思った。  終わったあとに何も残らないようにするのではなく。  自分がいなくなっても、悠麻の手元にはたくさん残るように。  そして最後に。  自分だけが、そこからいなくなればいい。

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