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第39章  残すもの

 契約終了まで、三週間を切った。  和真は書斎の机に並べた書類へ目を落とした。  バーが入っている建物の登記関係書類。  譲渡に必要な書類。  税理士から送られてきた資料。  弁護士との打ち合わせ内容をまとめたメモ。  いくつか確認し、署名が必要な箇所に付箋を貼っていく。  やることは多い。  けれど、難しいことではなかった。  金で解決できることは、和真にとって昔から簡単だった。  問題は、どこまで残すかだった。  最初に悠麻から頼まれたのは、店を続けられるようにしてほしいということだけだった。  それなら、バーの区画だけでも十分だった。  だが、それでは意味がない。  建物の所有者が変われば、また同じことが起こるかもしれない。  家賃が上がる。  契約条件が変わる。  立ち退きを求められる。  そのたびに悠麻が金に困り、誰かに頭を下げる。  そしてもし、数年後。 『久世さん、ちょっと困ってて』  そんな電話がかかってきたら。  自分はどうするだろう。  考えるまでもなかった。  助ける。  どこにいても。  何年経っていても。  たとえその頃、悠麻に恋人がいても。  金を出してほしいと言われれば出すし、助けてほしいと言われれば助ける。  七年で忘れられなかった男を、あと数年でどうにかできるとは思えなかった。  だったら、電話をかける理由そのものをなくせばいい。  和真は書類を一枚めくった。  バーの区画だけではなく、建物そのものを悠麻へ譲る。  店さえ続けばいいという話ではない。  誰かの都合で追い出されないようにする。  金に困って店を手放すことがないよう、今後の維持費や経営についても専門家を入れて整理してある。  これなら、自分がいなくても困らない。  和真はペンを置いた。  次の書類へ手を伸ばしかけて、止まる。  机の端に、別の資料が置いてあった。  このマンションのものだった。  当初、渡すつもりはなかった。  店とは関係がない。  契約が終われば、悠麻はここを出る。  それだけの話だった。  悠麻には以前住んでいた部屋もあるし、店の問題さえ解決すれば生活には困らない。  だから、この部屋まで渡す理由はなかった。  和真は椅子の背にもたれた。  書斎を見回す。  半年しか暮らしていない。  たった半年だ。  なのに、どこを見ても悠麻がいた。  机の隅には、いつだったか悠麻が持ってきたコースターが置かれている。 『書斎にもいるだろ』  そう言って勝手に置いていった。  リビングへ行けば、ソファがある。  並んでテレビを見た。  くだらないクイズをした。  悠麻が笑った。  キッチンへ行けば、包丁を持つ後ろ姿を思い出す。 『今日、大根安かった』  そんなことを嬉しそうに報告された。  冷蔵庫を開ければ、最初は水と酒くらいしか入っていなかった棚に、いつの間にか調味料や食材が並ぶようになっていた。  スーパーへ行くようになった。  二人分の食事をするようになった。  昼前に起きるようになった。  夜中まで起きているようになった。  午前二時を待つようになった。  玄関が開けば、 『ただいま』  と声がする。 『おかえり、ユウ』  そう返す。  それが、いつの間にか当たり前になった。  契約が終われば、それもなくなる。  和真は目を閉じた。  ここで一人に戻る自分を想像してみる。  できなかった。  いや。  想像はできる。  だからこそ、無理だった。  午前二時になっても玄関は開かない。  冷蔵庫には、また水と酒しか入らなくなる。  ソファに座っても、隣には誰もいない。  ベッドへ入っても、一人だ。  その生活を、この部屋で続ける。 「……無理だな」  誰もいない書斎で呟いた。  苦笑する。  自分で買った部屋なのに。  悠麻が来るずっと前から、自分が暮らしていた場所なのに。  半年で、住めなくなった。  思い出が増えすぎた。  和真は机の端に置かれていたマンションの資料を手元へ引き寄せた。  処分してもよかった。  売って、別の人間が住めばいい。  けれど、それも嫌だった。  自分が住めないからといって、知らない誰かがここで暮らすことを想像すると、妙に腹が立った。  なら、悠麻に残せばいい。  この部屋なら店からも遠くない。  住み慣れている。  悠麻の荷物も、もうここにある。  契約が終わったあと、わざわざ引っ越す必要もなくなる。  合理的だ。  そういうことにした。  和真はマンションについても手続きを進めるよう連絡を入れた。  送信してから、スマートフォンを机へ伏せる。  これでいい。  店がある。  建物もある。  住む場所もある。  仕事を続けられる。  自分がいなくても、悠麻は生きていける。  それが目的だった。  もう二度と、 『久世さん、困ってて』  と言わせない。  今度こそ、自分を必要としなくていいようにする。  和真は書類をまとめ、封筒へ入れた。  残せるものは、全部残す。  店を残す。  家を残す。  生活を残す。  そして、その中から自分だけがいなくなる。  それでようやく、半年間の契約は終わる。

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