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第44章 なんでだよ

 午前一時。  最後の客を見送り、閉店作業を終える。  結局、和真は来なかった。  午前二時を過ぎても、和真は店に来なかった。  最後の客を見送り、片づけを終える。  いつもなら、カウンターの隅で待っている和真と一緒に店を出る。  くだらない話をしながら並んで歩いて、同じマンションへ帰る。  それが、いつの間にか当たり前になっていた。  けれど今日は一人だった。  マンションへ戻り、玄関を開ける。 「……ただいま」  返事はない。  真っ暗な部屋に、自分の声だけが落ちた。  悠麻はしばらく玄関に立ったまま、奥を見つめた。  変な感じだった。  半年前までは、一人で帰るのが普通だったはずなのに。  今は、和真がいないだけで部屋が妙に広く感じる。  靴を脱ぎ、リビングへ入った。  スマートフォンを確認する。  連絡は来ていない。  あの男と、まだ一緒にいるのだろうか。 「……別に」  口に出してから、自分でも何が「別に」なのか分からなくなった。  和真が誰と会おうと自由だ。  契約で縛られているのは悠麻だけで、和真ではない。  最初からそういう約束だった。  誰かと飲みに行くのも。  誰かに触れるのも。  誰かを抱くのだって。  和真の自由だ。  分かっている。  それなのに、あの男が和真の腕へ絡みついていた光景が何度も浮かんだ。  何を話しているのだろう。  どこへ行ったのだろう。  まだ一緒にいるのか。  このあと、何をするのか。 「……クソ」  考えたくないのに、考えてしまう。  シャワーを浴びても消えなかった。  ベッドへ入る気にもなれず、悠麻はリビングのソファへ横になった。  眠れるはずもない。  何度もスマートフォンを見る。  連絡はない。  時計だけが進んでいく。  契約終了まで、あと一日。  明後日になれば、半年が終わる。  でも、そのあともここへ帰ってくればいいと言われた。  今まで通り食事を作る。  寝室だって、どうするか二人で決めればいい。  春になったら桜を見る。  そういうものだと思っていた。  契約だけがなくなる。  残るのは今の二人だと。  なのに。  ――俺に飽きた?  また同じ言葉が浮かぶ。  悠麻はクッションへ顔を押しつけた。      *  玄関の音がしたのは、それからしばらく経ってからだった。  悠麻はすぐに身体を起こした。  和真が入ってくる。 「……起きてたの」  いつもと同じ声だった。  それだけで腹が立った。 「遅かったな」 「うん」 「どこ行ってた?」  靴を脱いでいた和真の動きが、わずかに止まった。 「ちょっと知り合いに会ってた」  やっぱり。  あの男だ。 「へえ」  自分でも嫌になるほど、声が尖った。  和真がこちらを見る。 「どうしたの?」 「別に」 「機嫌悪い?」 「悪くない」 「そう」  それ以上、和真は聞かなかった。  いつもなら腹も立たない。  今は、それさえ気に入らなかった。 「久世さん」 「何?」 「今日、店来なかったな」 「ごめん」 「別に謝ってほしいわけじゃないけど」  また、別に。  自分でも面倒くさいと思う。  けれど、素直に聞くこともできない。  あいつ誰。  何してた。  なんで腕組ませてた。  全部聞きたい。  でも聞いてどうする。  和真には何の落ち度もない。 「ユウ?」 「……風呂、入ってきたら」 「うん」  和真がリビングを出ていく。  悠麻はその背中を睨んだ。  何だよ。  本当に何も言わないのかよ。      *  寝室へ入ってきた和真は、いつもと変わらなかった。  ベッドの片側へ入り、照明を落とす。  悠麻は背中を向けたまま目を閉じた。  眠れるわけがない。  隣に和真がいる。  それだけで意識が全部そちらへ向く。  少し前までなら、安心した。  今日は違う。  あの男の顔が浮かぶ。  悠麻は目を開けた。 「久世さん」 「何?」 「こっち向いて」  しばらくして、布団が動いた。  和真がこちらを向く。  暗闇の中で目が合った。  悠麻は自分から距離を詰めた。  唇を重ねる。  和真が動かなかった。  いつもなら返ってくるものがない。  悠麻は一度離れた。 「……何?」 「ユウ」 「何だよ」  もう一度、口づけようとする。  今度は肩を押さえられた。 「今日はやめよう」  頭の中が、一瞬真っ白になった。 「……なんで?」 「今日はちょっと」 「疲れてんの?」 「そうじゃない」 「じゃあ何」  和真は答えない。  それが答えに見えた。  今日。  あの男と会ったあと。  今まで自分を拒んだことなんて、ほとんどなかった男が。  自分から求めても、触れようとしない。 「……あいつ?」 「え?」 「今日一緒にいたやつ」  和真の顔が変わった。 「見てたの?」 「見たよ」 「そう」  それだけだった。  否定しない。  悠麻の胸の奥で、何かが一気に熱くなる。 「誰」 「昔の知り合い」 「それだけ?」 「うん」 「腕組んでたけど」 「ああ」 「ああ、じゃねえよ」  声が大きくなった。  和真が黙る。 「何なんだよ、あいつ」 「昔、同じ店にいた人だよ」 「同じ店?」 「ユウが働いてた店」  悠麻は一瞬、言葉を失った。  記憶を探る。  遠目だった。  顔まではよく見えなかった。 「……何で会ってたの」 「偶然会っただけ」 「そのあと一緒にどっか行っただろ」 「少し話をしてた」 「何の」  和真は答えなかった。  それが余計に腹立たしい。 「言えないこと?」 「そういうわけじゃないよ」 「じゃあ言えよ」 「ユウ」 「何だよ」  和真はそれ以上答えなかった。  言えば、七年前の話をしなければならない。  今の和真には、まだそれを悠麻へぶつけることができなかった。  けれど、悠麻にはそんな事情など分からない。  あの男とは話せる。  自分には言えない。  それだけが残った。 「昨日まで普通だったじゃん」 「……うん」 「俺が誘ったときだって、普通にしてたじゃん」 「うん」 「次もいいって言っただろ」 「言ったね」 「だったら何で今日だけ駄目なんだよ」  和真が目を伏せる。  その沈黙に、悠麻の中で勝手に答えができた。 「……俺よりいいやつ見つけた?」  和真が顔を上げる。 「何言ってるの」 「あいつのほうがいいんだろ」 「違うよ」 「じゃあ、しようよ」 「ユウ」 「違うんだろ?」 「そうじゃなくて」 「だったらいいじゃん」  悠麻は和真の手を取り、自分へ引き寄せた。  けれど、その手は動かなかった。 「もう、しなくていいんだよ」  悠麻の動きが止まった。 「……は?」 「明日で終わるんだから、もう無理に――」 「ほら」 「え?」 「やっぱりあいつのほうがいいんじゃん!」 「違うって」 「何が違うんだよ!」 「ユウ」 「違うならしてよ!」 「だから、もうしなくていいんだよ」 「なんでだよ!」  声が寝室に響いた。  自分でも驚くほど大きな声だった。 「昨日まではしてたくせに! あいつと会った途端、俺にはもうしなくていいって何なんだよ!」 「それは関係ない」 「あるだろ!」 「ないよ」 「じゃあ何で触らないんだよ!」  和真は答えられなかった。  昨日までなら、悠麻に求められることが嬉しかった。  契約から始まった関係でも、悠麻からキスをされ、求められるたびに、少しずつ何かが変わってきたのだと思っていた。  けれど今日、七年前の真実を知った。  喜ばせたくて使った金で悠麻をNo.1にした。その結果、悠麻は標的になり、追い詰められ、あの笑顔まで失った。  それを知らず、自分はずっと「悠麻が変わった」のだと思っていた。  そして今回も、始まりは金だった。  店を救う代わりに半年という条件をつけ、断れない悠麻を自分のそばへ置いた。  悠麻が笑っているから。  自分から求めてくれるから。  この生活を望んでくれているのかもしれない。  昨日までは、そう思えた。  今はもう、その笑顔を自分に都合よく受け取ることさえ怖かった。  七年前と同じように、悠麻が笑っていることを理由に、自分のしていることを正しいと思いたくない。  これ以上、金や契約を理由に悠麻を好きなようにはできなかった。 「俺じゃ駄目になった?」 「違う」 「じゃあ何で」 「そうじゃないんだよ」 「さっきからそればっかじゃん!」  声が震えた。  怒っているはずなのに、目の奥が熱い。 「俺がしたいって言ってんじゃん」 「……ユウ」 「俺が久世さんとしたいんだよ!」  和真が目を見開いた。  言った悠麻自身も息を止める。  それでも、もう引けなかった。 「契約とか、今はどうでもいい。俺がしたいの。久世さんと」  それでも和真は動かなかった。  信じたくないわけではない。  むしろ、そのまま信じて手を伸ばしたかった。  けれど今は、自分の欲しいもののために、また悠麻の気持ちを都合よく解釈することが怖かった。  悠麻は唇を噛んだ。 「……あいつに触った?」 「触ってない」 「キスは?」 「してないよ」 「抱いた?」 「してない」 「本当に?」 「うん」  胸につかえていたものが少しだけほどけた。  それでも足りない。 「じゃあ、俺にして」 「ユウ」 「俺がいいって言ってる」  和真のシャツを掴む。 「久世さんがいい」  声が震えた。  泣きそうになっているのが悔しくて、返事を待たずに身体を起こす。  横になった和真へ覆いかぶさった。 「ユウ?」 「もういい」 「何が」 「久世さんがしてくれないなら、俺からする」  そのまま唇を重ねた。  触れるだけでは終わらせない。  シャツを掴んだまま、深く口づける。  離れたくなかった。  誰にも渡したくなかった。  自分を見てほしかった。  やがて和真の腕が背中へ回り、強く引き寄せられる。  その瞬間、悠麻は泣きそうになるほど安心した。

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