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03.抱き締められている
中間テストを数日後に控えたある日の4時間目のこと。教室の1番後ろ、廊下側の席がまたしても空いていることに、数学教師からの指摘が入った。
「おい、そこは休みか? 委員長!」
「えっ……、あ、いえ、木崎くん朝はいました!」
毎朝の挨拶は欠かさないことにしているのだ。確かに木崎は今朝登校していた。日牧が答えると、教師はさも迷惑そうに黒板に手をつき溜め息を吐いた。
「……例の木崎か。問題が多いらしいな。まあいい、どうせサボりだろう。午後の授業までには居場所を確認しとけよ委員長!」
「あっ、ハイ」
咄嗟に返事はするものの、真面目に授業を受けているこちらが怒られる筋合いは無いだろうと腹が立ってくる。これだからクラス委員は面倒なんだ。
昼休み、言われた通りに木崎を探しに行こうとする日牧を、クラスメイトたちが取り囲んだ。
「ちょっと委員長! そこまでしてやることないって!」
「そうだよ、サルメガネムカつく! 委員長の責任じゃないのに!」
サルメガネというのはさっきの数学教師のあだ名だ。サルメガネと言う他は無いほどに顔がサルメガネなのだ。だが日牧は弁当の包みを手にして笑った。
「ありがと! でも木崎くんが心配だし、見つけたらいっしょにお昼食べてから戻ってくるよ」
「あーもー、お人好しー!」
こちらを見ている全員に手を振り廊下に出た日牧は、笑顔をオフにしてドスドスと早歩きし始めた。走ることはできない、校則なので。
屋上や中庭に足を運び、体育館や図書室へも出向いた。が、あのやたらと目立つ巨体は見当たらない。やはり木崎の連絡先を聞いておくべきだっただろうか。
早くしないと昼休みが終わってしまう。この学校では午後の授業の前に短い掃除時間が設けられている。あまり誰も真面目に掃除などしておらず、せいぜい日直がゴミを捨てに行く程度なのだが、そんな中でも毎日教室内にザッとほうきをかけるのが日牧の日課だった。単にゴミが落ちているのを見るのが好きではないのだ。だからそれまでには戻りたいのだけれど。
「クッソ、いやがらねえ……」
周りに人がいないのを確かめてから日牧は悪態をついた。無断で早退したのだろうか。だとしたらどうしようもない。諦めて弁当を食べようかとも思ったのだが、最後にあまり行きたくなかった場所を一瞬だけ、とりあえず覗いておくことにした。
校門からもっとも離れた旧校舎のさらに奥に、古びたボイラー室が設置されている。以前は暖房や給湯のために使われていたらしいが、今では放置されたままだ。
先日クラスメイトから聞いて気分が悪くなってしまった話が頭によみがえる。どうしよう、もしもまた、血の海だったら……
おそるおそる旧校舎の影から顔を出す日牧。だがそこにはただの土色の地面と少々の枯れ葉しか無かった。ホッとして引き返そうとしたとき、目の端に大きな革靴を履いた足が投げ出されているのが映った。
「木崎くんっ?!」
走ってボイラー室の向こう側へ回り込む。そこには両足を力無く投げ出したまま、コンクリートブロックの壁に体を預けて座る木崎の姿があった。
「…………委員長、……どうして……」
こちらを見上げる彼の鼻からは血が流れて垂れていた。治っていたはずの口もとの傷も復活し、頬にまで乾いた血の跡が塗りつけられている。髪はボサボサ、制服は土埃まみれ。ボタンの一部はどこかへ飛んで行ってしまったのだろう、胸元のシャツが皺くちゃに乱れている。
こんなときどうすべきか。日牧は頭をフル回転させていつものやさしい委員長を演じようとした。きっと駆け寄って傷にハンカチでも当てて、涙ぐんで心配してやるべきなのだろう。ハンカチなんて持ってやしないけれど。
だが、頭とは反対に足は1歩も動かない。息が苦しい。ハッハッ、と短く浅い呼吸を繰り返すうちに、頭が大きくグラリと揺れた。
「委員長っ!!」
ぐったりしていたはずの木崎に、気づいたら体を支えられていた。自分があと少しで倒れそうだったことをようやく自覚する。
「ハッ、ハアッ、ハッ、……ッ」
だがまだ苦しい。過呼吸だ。最近は出ていなかったのに。日牧は朦朧としながら胸の前に回された硬くて太い何かに縋りついた。
「委員長、委員長!!」
声は聞こえるが目がチカチカしてよく分からない。すると熱くて鉄臭い大きな塊が、バチンと日牧の顔を包んだ。口は塞がれ、視界は何本もの格子のようなもので遮られている。
かろうじて生じた隙間から僅かだけ空気を吸い、少しずつ吐き出すことができるようになってきた。なるほど格子は指だったのか。日牧の顔全体に、木崎の大きな手のひらが張り付いていたのだとぼんやり理解する。
もう片方の手は、日牧の背中をさすっていた。体温が高いのだろうか、摩擦のせいかもしれないが、背中にも熱が伝わってくる。
「……委員長、大丈夫か」
段々と整い始めた呼吸に、日牧は安堵の吐息を混ぜた。いつの間にかすっぽりと木崎の膝の間に体が収まってしまっている。何だこれ、抱えられているんじゃないか?
「委員長」
木崎は何度も日牧を呼んだ。しかしその顔には赤い汚れがまだべったりとつけられたままである。ビクンと震えて顔を背ける日牧。
「……委員長」
他に知っている単語は無いのかコイツは。目を地面に向けて、日牧はうわ言のようにようやく小さな声を出した。
「血っ……、きざ、き……、ち、血が……っ」
「……? ああ……」
木崎はゴシゴシと乱暴に制服の袖で顔を拭った。そんなことをしても広がるだけだし、制服には血が染み込むだろうし、この場から血が消えるわけでもないし。
ガタガタと震えながら日牧は、木崎の腕と足を押し退けるようにして地面に両手をついた。早く逃げたい、できる限りここから早く。
「待て委員長、まだ……」
引き留めようと肩に触れた木崎の手を、ギュッと目を閉じて日牧は強く叩き払った。
「触んじゃねーよ!! 血が!! 血がついてんだろーが!!」
「……い……、」
しつこくまた委員長と口にしようとしていたらしいヤツの低い声は、言葉になること無く呑み込まれてしまった。
目が開けられない。再び俯いて四つん這いになり、日牧はそのまま地面に突っ伏した。手も足も勝手に震えて止まらないし、どこにも力が入らない。
「……駄目だ、駄目なんだ……。血は、血が出るのだけは……、お願い……っ、嫌だ、嫌……!」
無意識に日牧は、駄目と嫌だを繰り返して小さく丸く体を縮めていた。こんなのまるで団子虫だ。ガサガサに毛羽立った古い畳の上でこうしていた子供の頃の記憶が、久しぶりに頭をよぎる。
後ろで木崎が立ち上がった気配がした。そしてあろうことか、そのまま走り去ってゆく足音も。
何だアイツ、マジでサイアクだ。いや分かっている。こんな虫のごとき状態の人間をどうこうしろというのも酷な話だ。そうは言っても黙って放って行くか? だから嫌いなんだよおまえらみたいな人種がオレは。
仕方がない。このまま気分が落ち着くのを待ってから教室へ戻ろう。掃除には間に合わないかもしれないけれど。
「……委員長!」
しばらくして、馬鹿の1つ覚えの声がした。例の大きな革靴が大股で再び近づいてくる。
「顔洗ってきた。近くに水道無くて遅くなった。……あとこれ、弁当箱そこに転がってた」
上から覗き込んでいるらしい木崎の顔から、冷たい水滴が落ちてきた。顔を洗ったというのは一体? ああ、鼻血やら傷やらを洗い流してきたということか?
「……ゴメン、委員長」
考えごとをしているうちに、木崎は真上から日牧に覆い被さった。
え? 潰される? 漬け物石的な? 漬け物オレ??
「怖がらせて、ゴメン。……ゴメン」
木崎は何度も謝った。漬け物石のまま、全身を日牧の背中に密着させて。高い体温が不思議と嫌じゃない。それに、少しも重くない。チラリと地面に目をやると、木崎は片手をついて日牧に体重がかからないように支えているようだった。
モゾモゾと、団子虫の体勢を解いてゆく。しかし木崎はまだ日牧の背中から離れようとせず、後ろから羽交い締めにして日牧の首筋に濡れた顔を押しつけていた。ひょっとしたらこれは、抱き締められていると表現するのかもしれない。
震えは止まっていた。
だが、すべての思考も停止してしまった。
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