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14.お母さん

「ぅあ暑うぅーーーっ……」  1DKのKのほうで日牧は、汗だくのまま大の字で転がっていた。自室よりもキッチンのほうがまだほんの少しだけ涼しいのだ。それでも昼を過ぎるともう耐えられないほどの暑さに襲われる。  週明けからずっと、日牧は何日も夏期講習を休んでいた。自由参加とはいえ、連絡もせずに学校をサボるなんて自分でも信じられない。委員長としてあるまじき行為だ。  だって木崎に顔向けできない。  アイツはサボらず出席しているのだろうか。もともと日牧がいるというだけの理由で申し込んでいたのは知っているけれど。 「ねえ、人が1人増えるとすんごい暑さが増すんだけど」  首にタオルを巻き、うちわ片手にアイスをくわえた母が、心底嫌そうに鼻の頭に皺を寄せた。今日は仕事は休みらしい。キャミソールにショーツ1枚で、髪を適当なお団子にまとめて素っぴんで。その顔面に眉毛は無い。 「夏期講習行かなくていいの? 何? 反抗期?」  母はまだ軽口を続ける。日牧家では真夏、自宅でエアコンを使用するのは大体夜のみである。寝ている間に気づかぬまま死ぬと困るからだ。日中は日牧は学校や図書館に避難しているし、母は仕事の無い日はこうして半裸に近い格好で、中古品の扇風機で熱をやり過ごしている。  だが今は図書館にも行きづらいのだ。本当に好きな場所なんて、気軽に人に教えたりするもんじゃないな。 「……ねえ、お母さん」 「何」  面倒くさそうに母はアイスを齧っている。8本で198円の箱入りの。 「オレってあの男に似てる?」 「……は?」  さすがに顔をしかめる母。元父親の話は家では半ばタブーであった。口に出したくもなかったし、母をまた悲しませるのだけは絶対に嫌だったから。 「……何、急に」  母が動揺しているのが分かる。申し訳ないと思う。それでもどうしても聞いてみたかったのだ。 「なんかさあ、……怒りがさあ、ブワーーッて出ちゃって、人に怒鳴ったりしちゃってさあ。……あの男みたいで、嫌だなーって……思ってさあ」  日牧は天井の染みを見上げたまま口を歪めた。人の顔に見えるんだよなあの染み。古い団地あるあるだ。  隣に座る母も、おそらく同じ染みを見上げて上を向いた。アイスは噛み砕かれ、木の棒だけが口から飛び出している。 「それアンタ、私に似てるだけじゃん?」  母は悲しみも怒りもせずに言った。  ……あれ? 日牧は床の上で頭の角度を変える。母は昔からよく大きな声で小さな日牧を叱っていたし、今でも定期的に仕事の愚痴を喚いている。そういえば元父親に言い返すことも少なくなかった。  ただ、その倍以上はよく笑っていたけれど。 「ひまち、学校で何かあった?」 「ひまちって言うなっていつも言ってるだろ」 「何でよカワイイじゃん」 「……オレはカワイくなんかない」 「カワイイじゃんカワイ過ぎるじゃんひまちカワイさの化身じゃん権化じゃん」 「……うるせ」  くくっ、と喉の奥で笑ってしまう。  オレがカワイく見える人類なんて、地球上に2人しかいねーよ。ひまちとかひまとか、おかしな呼び方をするヤツも。 「もしかしてひまち、好きな子できたんだ?」  ニヤニヤと母は目を細めた。口から出したアイスの棒をゴミ箱へ投げ、外れて落ちたところへのそのそと這って行っては捨て直す母。いつも同じことをしている。 「好きじゃねーし」  好きなもんか。嫌いだって言ってんだろ。怖いしさあ。 「……ありゃ。フラレちゃった?」  母は日牧のすぐ横に並ぶように体を倒し、床に肘をついた。フラレてたまるか。そもそもやむ無くつきあってやっていただけなんだ。嫌だったんだ、オレはずっと。 「……家に来たいって言ってた。……あの男にも会いたいとか、……変なことばっか」  思えば木崎があんなことを言い出さずにいてくれたら、今でもつきあっていられたかもしれないのに。……嫌だけど。 「んでひまちがヤダーって怒って、喧嘩になっちゃったってこと?」 「オレは喧嘩は嫌いだ」 「でも怒鳴っちゃったの?」 「…………」  天井の染みは、見続けていると人の顔からエイリアンのように段々と変化を遂げていく。何年も住んでいるのに新発見だ。もしかしたら水分で視界が揺らいでいるだけかもしれないけれど。 「謝った?」 「…………」 「ゴメンねホントは大好きだよーってちゃんと言った?」 「…………」  返事をしない、できない日牧の頭を、母はやさしく撫でた。 「ホントの気持ちを話すとき、怒って大声になっちゃうことくらい、きっと皆あるよ。……けどあの人はさあ、何にも無くて空っぽのまま、ただ怒鳴って暴れてたんだよね。本人にもどうしようも無かったんだろうね」 「…………、ぅ」  日牧はグスッと鼻をすすった。長らく泣かない人間でいられたのに、たった数日で2度も涙の決壊を許してしまうとは、何たる失態。 「もう嫌われちゃったの?」 「…………」 「謝らせてももらえない?」 「…………」  日牧はチラリと自分の部屋の方角へ目をやった。机にスマホを置きっぱなしにしている。 「……何回かメッセージ来てた」 「え! 何て?」 「…………見てない」 「はあっ?! ひまちあほ! あほ過ぎひまちのあほ!!」 「……ひまちって言うな」  のそのそと、日牧は体勢を立て直した。ひんやりしていたキッチンの床から背中が離れた途端、このうだるような暑さにげんなりしてしまう。 「ねえひまち!」 「ひまちって言うな」 「お母さんさあ、家の掃除しとくから! あんまり見映えのする家でもないけど、せめて床とか壁とか磨いとくから。……いやまあ今はちょっと暑いけど」  ついつい吹き出してしまう日牧。この気温でエアコンも入れずに掃除なんてしたら熱中症まっしぐらだ。そしてクロスの多少の汚れなんかよりも、洗濯したまま出しっぱなしの下着のほうを何とかして欲しい。 「……出かけてくる」 「おっ、仲直り?」 「……違う、別に」 「頑張れひまち! ひまちは世界で1番カワイイんだからね!」 「違う、それは」 「カワイさでできている!」 「……うるせ」  スマホだけをポケットに突っ込み日牧は、キッチンの温度を少々でも下げてやるために外へ出た。  母の腰には今でもナイフの傷跡が残っている。しかし母は退院以来、少しも気にしていないように過ごしている。尊敬できる人なのだ。  そして日牧はそんな母によく似ている。背が低いところも眉が薄いところも何もかも。あの男ではなく、母に。 ----------  とは言え、見られないんだよなあ。  スマホを握り締めたまま、日牧は近所のショッピングモールのベンチに座り込んでいた。もう1つの避難場所である。  木崎の連絡先は、つきあうことになってからしばらくしてようやく知った。クラスのグループチャットにも入っていない木崎は筋金入りの連絡不精で、つきあったあともほとんどメッセージも通話も寄越すことは無かった。ほぼ毎日顔を合わせていたので必要性を感じなかったのだろう。  それが今、木崎からの未読メッセージが3件に着信が5件。非常に珍しい事態なのだ。ついでに夏期講習でいっしょのクラスメイトたちからも、無断欠席を心配するメッセージが数件来ていたが、そちらは既読無視をしていた。しばらく返信する気力が湧かなかったのだ。  先にクラスメイトたちへ、夏バテを詐病して詫びを送っておく。こっちはたいして何も考えずともあっという間に済むんだけどなあ。  木崎は3通、何を送信したのだろう。嘘つき、騙された、オレも嫌いだ、とか?  ああ、見たくないなあ。嘘はついたし騙したし、嫌われて当然だ。日牧だって自分を嫌う人間がいたら嫌いになる。あんなことを言われたらもう、誰だって顔も見たくないと思うだろう。  ふと何故か、朝陽のあどけない顔が浮かんだ。アイツはまだ中学生だ。事件に巻き込まれたことも無い、ごく普通の。裁判所の判決だとか法的指示だとか、何も分からなくて当然だ。新しく父親になったやさしい男が見知らぬ母子に憎まれているなんて、ただ単に何だか嫌だなあと感じた程度なのだろう。  実際朝陽が日牧に何を言おうと、元父親と日牧が再会できることは無い。法律がそれを許さない。もしまた朝陽がやって来たとしても、次はそう伝えてやればいい。  ましてや木崎がそこへ入り込む余地など端から無い。あんなに怒ることは無かったんだよなあー…… 「はあ」  何十回もの溜め息を、日牧は繰り返した。  僻みもあったのだろうと思う。金持ちの坊々で、背が高くて女子にモテて。日牧は勝手に自己肯定感をどんどん下方修正してしまっていた。  猛獣を手懐けたという痛快さはあった。だが獣は1番柔らかい、日牧の1番触れられたくなかった部分に牙を立てた。一切の悪気も無く。  木崎は悪くない。分かっていなかったんじゃない。オレが言わないから知らなかっただけだ。  日牧は意を決してメッセージを開いた。 ----------

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