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第8話 一歩
別に苛立ってなんかない。
そもそも俺と姫宮准教授は……別に……。
「え?」
「今日は仕事が忙しくて来れないって、さっき……」
「……」
今日は水曜日だった。
他の曜日なら、自由参加だから姫宮准教授が来てなくても、まぁ、わかるんだけど。水曜日はほとんど来てるって話しだった。っていうか、それ以外の曜日も、ちょこちょこ、このサークルで使ってる教室には顔を出してるって話で。けど、最近は来てなくて。
けど、水曜日なら来るって。
「あ、でも、この前の題材、まだ煮詰めたいなって思うからっ、あの、佐久くんも、是非っ」
「……あ、うん。そうだね。ありがとう」
なのに来てないじゃんって顔を俺がしてしまったんだろう。岩下さんが慌てて、今日のテーマはすでにあるから大丈夫だよとフォローを入れてた。
別に、なんだよ、じゃあ、今日やることないじゃんって落胆したわけじゃない。落胆なんてしてないし。ただ。
「あ、じゃ、じゃあっ、始めようっ……うんっ」
ただ――。
完全に逃げ回ってるじゃん。
あんなにどっちが教授なんだかわかんないくらいに講義やってた人が突然講義に顔を出さなくなった。
ねぇ、こんなに教授本人に講義やらせててたら、教授が怒るんじゃん? ってくらいに、少しも顔を出さなくなった。もちろんサークルにも全く。
あんなにさ、自分の周りに転がってる噂も気にしなかったくせに。
教授の愛人なのでは?
あの口元の傷痕は教授の奥さんにやられたものでは?
そもそも准教授にあの若さでなれるわけがない。ならば、あの地位だって、その身体で得たものなんじゃ?
教授が推薦したって噂もあるし、きっとそう。
なんて、噂が尋ねればいくらでも出てきた。
それは気にしないで、淡々と講義はするし、サークルの活動にだって率先して関わってたくせに。
『アキ』のことをちらつかせただけで、大慌てで逃げ出した。
それと同時に、『アキ』は口元だけ映ってしまった一番人気の動画を下げて、そこから、数日に一度は更新していた動画をアップしなくなった。
まるで自分が『アキ』です、と言わんばかりに、姫宮准教授と『アキ』の行動がリンクする。
「やっと週末だなぁ」
「……そうだね」
宗太が少しダルそうに両手を高く天井に向けて伸びをすると、一気に息を吐いて、退屈そうにもうほとんど水の入ってないグラスをもう一度口にした。
これで一週間、顔を見てない。
「そういや、大和バイト探してなかったっけ」
「んー……まぁ」
「いいのない感じ?」
「ちょっと、忙しくて」
「あー、なんか、最近文学ハマってんだっけ?」
「?」
「現文んとこよく行ってない? それに読書会サークルに入ったって」
「よく知ってる」
「まーねー。大和の行動範囲、女の子がめっちゃ知ってるから、耳に入る」
同じ、統計サークルにいる宗太がちらっとこっちを伺った。なんで読書会サークル? って不思議そうに。
「あはは、俺、人気者みたいじゃん」
もちろん俺はそれに笑顔で対応するけれど。
「みたいじゃなくて人気者でしょ。去年のミス大学のユアちゃんに追いかけられる男なんて、大和くらいだって」
そうなんだっけ。へぇ、どうりで顔が広いわけだ。ユア。
「でも、最近、趣向替えして、文学女子に手を出してる」
「…………違うよ」
「ああいう真面目そうなのが一番エロかったりするんだよなぁ」
「そういうんじゃないって」
「……ふーん」
本当、そういうのじゃない。
岩下さんは親切にしてくれてるだけで、良い人だなぁと感謝してるくらい。サークルにも歓迎してくれたし。それに。
――あ、もし、よかったら、准教授の講義というか、話、聞きたかったら、あの、手伝い、行ってみるといいよ。私、よく手伝いっていうか、その、でも、あんまりできてなくて。っていうか、ちょっとバイトのシフトたくさん入っちゃったから。だから、代わりに。
本当、感謝してる。
――姫宮准教授の準備室に行って、資料とか本の片付けをしてるの。
だから、文学女子に手を出すどころか、握手はしたい、かな。
――私の代わりに、もしよかったら。
ありがとうって。
「じゃあ、俺、この後、用事があるから」
「あー、じゃあ。こっちのサークル会も今日あるけど、来る?」
「あー……いや」
彼女には、思ってる。
「やめとく」
そこしかないなとは思ってた。
ここまで逃げられたら、会えるのは姫宮准教授の準備室に直接顔を出すくらいしかないなって。
けど、用事ないし。
それに別にそこまでして追いかけるほどでも……ないし……。
ただあまりにも露骨に逃げ回るから、なんかさ。
ただそれだけ。
逃げられると追いたくなるでしょ。
だから、ちょっとだけ。
追いかけようかなって。
コンコン。
二回、そっとノックをした。
「はーい」
呑気な声が扉の内側から聞こえた。
もう週末だって、みんな大学をいち早く飛び出して行ったのか、教室棟はどこか閑散としていた。外の中庭だったりの方がずっと賑やかなようで、騒がしい声がどこからか聞こえてきている。
「すみません、ありがとうございます。岩下さ、……」
彼女だと思ったんだろう姫宮准教授が警戒心ゼロで扉を開けて、そこに立っていた人物が岩下さんよりずっと背が高いことに目を丸くして、それから、そっとメガネ越しに目を、丸くした。
へぇ、メガネしてるんだ。
知らなかった。講義の時とか、サークルの時もかけてないから。
「え、あ……佐久くん」
そして、腰を抜かしそうなほど驚いて硬直してる。
「あ、あのっ」
ここに来ればいるとは思ったけど、来る理由が見つからなかったんだ。
別に文学に目覚めたわけじゃないし、読書サークルにはなんとなく入ったけど、それも、そこまで、なんていうか、この人のことを追いかけて、とかじゃない。全然。ただ、この人が『アキ』なのか調べたかっただけだし。
じゃあ、調べてどうすんの? って話だけど。
「岩下さんの代わりに来たんですけど」
「ぇっ」
「中」
「!」
ね。調べてさ、じゃあ、姫宮准教授が『アキ』だとわかって。
「入ってもいい?」
どうすんだろうね。
そう胸の内で問いながら、一歩、その中に入っていった。
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