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1能動的な快楽の享受を②

しかし、神は俺を見放さなかったのだ。突き付けられた結果はまさかの、成熟を迎えたオメガ。  その瞬間、俺の脳裏をよぎったのは、国家の管理だのオメガの悲惨な歴史だのといった高尚な話では断じてなかった。 (オメガ……に身体がなったってんなら、今度こそ完全に前イキもメスイキもケツイキもできるようになるんけ?)  ……そう、この時の俺は、もう既にド変態の片鱗を隠そうともせずに覗かせていたのである。最早、闇医者も匙を投げるレベルで脳味噌の手遅れ。  ショックは無かったかと問われたら、そりゃ多少は動揺した。  したが、それ以上に「オメガというこの身体になった事による、今後の未来予想図」が、ものすご~く鮮やかなサクラピンク色に染まったのも紛れもない事実なのだ。  本能に忠実な男の子だもんね、しょうがない。  俺の人生は「常に快楽に対して正直であれ、本能に忠実であれ」と、心に固く決めていた訳で。  だからオメガの差別的な歴史を知ってなお、現実を悲観することもなく、むしろそれを全力で謳歌しようとすら思っていた。  幸いなことに、俺は非常に単純な脳味噌しか持ち合わせていなかったから、難しいことは一切考えられない。記憶力が皆無なダチョウと一緒。  よし、俺はまだ見ぬ地上の極楽を目指そう──。  俺の身体を突き上げる看守を見ながら、心に固くそう誓った。徹底的な馬鹿だから。  ──オメガは全て東京へ集められる。  そこは、この世の歓楽を無理やりコンクリートで体現したかのような、ギラギラとした場所だった。  檻の外のまっさらな空を見上げ、俺は眩しさに目を眇めた。  これからの新生活や輝かしい未来に想いを馳せる?  とんでもない。セックス!! ただこれだけ。俺の脳髄にはその三文字しか詰まっていなかった。 ◆ 「真宵直忠様のご自宅は、高円寺にある『マゾン高円寺』です。携帯端末の案内機能を頼りに行けば迷わないかと。それから、これがご自宅の鍵です。通われる学舎は特務機関エンブリオの私立ファタモルガナ学園となりますが、今月からの登校となります。そしてキャスト証に学生証、これが身分証にもなります。所属するクラブについても既に登録してありますので、後程ご連絡が入る筈です。真宵様はご両親、親族が居られませんので、生活費等に関しましても──」  役所の窓口で、事務員のお姉さんがものすごく親切に説明してくれる。 「──では、これで以上となります。……随分と、大変な思いをなされてきたんですね……。これからは、真宵さんの自由に生きて下さいね!  私、本当に応援してます!」  お姉さんの目は、地下闘技場時代の俺のパッチワークのような傷跡を見て、同情でうるうると湿っていた。 (自由、ねぇ……)  果たしてこれを自由と呼んで良いのだろうか。首輪1本で東京に囲い込まれている現状に、俺は大真面目に些か疑問を抱いたものの、そんな事はおくびにも出さず、取り敢えずの愛想笑いでやり過ごす。 「は~い。有り難うございま~す。がんばりま~す」  諸々の手続きを終え、1人暮らしの講習を叩き込まれ、受付の女性から生活に必要な物一式を受け取って、自分の城となる宿舎へ向かった。  駅前では、さっきの巨獣総進撃みたいな災害が起きたばかりだというのに、人々は何事もなかったかのように携帯端末の画面を見ながら普通に歩いている。  人間の感覚ってのは、バグると本当に麻痺するものらしい。俺自身、さっき頭上に降ってきた他人の内臓の処理よりも、今日の晩飯のことしか考えていない。  これで毎回、大災害のたびに爪痕が残る世界の規則だったなら、皆こうも平和呆けしてないだろう。  首に填められた黒い首輪に若干の違和感があったものの、「アルファへの噛み付き防止」と「危険を感じた時に警報が爆音で鳴る」機能がついているとのことで、仕方ないと自分を納得させる。  特別な魔法が掛けられていて、本人の意思が無いと物理的に外れない仕組みになっているらしい。便利なのか不便なのかよく分からない。  あんな地下牢で生活していたとは云え、生き延びるための事務作業として一応自炊は出来る。  が、今日は流石に面倒くささが勝ったので、高円寺の駅前の売店で適当に弁当を買った。 何処からともなく、ぐう、と生々しい腹の音が鳴った。俺のじゃない。 ふと顔を上げると、少し離れた薄汚れたごみ捨て場の隅に、妙な生き物が居た。 (なんだ……? カビた大福か?)  一見すると真ん丸で白い毛玉みたいだが。 「ミ゛ィ」  ダミ声混じりに、可愛げの欠片もないトーンで毛玉が鳴いた。 そろそろと俺の足元に近付いてくると、ほかほかの弁当の入った薄い袋をじっと見つめている。  先ほどの腹の虫は、どうやらこの毛玉の胃袋が出していたようだ。 猫でも無い、犬でも無い。なんだこのホコリの塊みたいな生き物は。 「おい。やらねぇぞ。これは俺の夜の体力源だ」  半ば威嚇するように視線を鋭くしてみせれば、毛玉は俺の目を真っ直ぐ見つめて再度「ミ゛ィ」と鳴いた。  情に訴えかけているつもりか? 浅はかナリ。俺はふんと鼻を鳴らしながら、弁当の入った袋を毛玉の目の前でこれ見よがしに高く掲げて見せた。 「働かざる者喰うべからず。これは俺がこれから最高の楽園を謳歌するために手に入れた大事な栄養素だ。お前は俺に、何か等価交換で差し出せるのか?  肩揉みでもしてくれるのか?」  それを見た毛玉は、ぶるっと一回震えると、サッと素早い動きで視界から姿を消した。 (行ったか……。世の中そんなに甘くねえんだよ、毛玉) 「さて、部屋に行くか──」  コツン、と頭に何かが当たって、地面に落ちた。ん? と音のした方を見やれば、ゴミ溜めのアスファルトの上に、何かキラリと光る物が転がっている。  その光る何かを拾い上げてみると、信じられないくらい眩い宝石だった。削りも何もされていない、天然のギラギラしたやつだ。 「なんだこれ、本物の宝石……? 埋蔵金でも掘り当てたのか?」 「ミ゛ィ」 「あ!? おい!!」  すぐ近くで声がしてハッとそちらに視線をやると、先ほどの毛玉が、俺の手から消えた売店弁当を、すでに容器ごと食い散らかしていた。等価交換の速度が完全にバグっている。 ◆ 「んん~~。これが俺の家かぁ~」  首を傾げながらつぶさに眺めるそれは、スラム街をギュッと凝縮したような築長い年月のオンボロ住宅を幾つも重ねて纏めて、泥団子のように捏ね繰り回した巨大で立派な出鱈目だった。 (まるで巨大な九龍城だな。大きな揺れが来たら一瞬で砂の城みたいに崩れそうだな)  てっきり、オメガ専用の小綺麗な近代的な建物か何かを想像していたが、国は随分と個性的なアパートを俺に紹介してくれたものだ。  が、住めば都。雨風が凌げて、誰にも殴られずに寝る場所があればまあ良いかぁ、と外の空気の冷たさに比例するかのような異常なスピードで楽天的な思考に落ち着いた。  地下闘技場のカビ臭い藁に比べれば、どこだって天国だ。  俺程度だとこれが相応と云う事ね、とぼんやり考えつつ我が城へと足を踏み入れた。  202号室の自分の部屋を覗いてみれば、必要な家財は事務的に一式揃っていた。  テレビ、冷蔵庫と炊飯器、テーブル、調理器具、本棚、そしてふかふかの布団。冷暖房器具だって付いてるし、実に快適そうだ。 「自由って良いなぁ~~」  部屋の窓から、夕焼けに染まり始めた東京の空を眺めながら、なんともなしに呟く。  今、俺は誰の所有物でもない、自由の身なのだ。じわじわと心の底から湧いてくるこの小さな幸福感が、ひどく心地好い。  凪いだ風が、俺の継ぎ接ぎだらけの肌を優しく撫ぜた。 「ミ゛ィ」  さっき俺のコンビニ弁当をプラスチックの容器ごと不条理に完食した毛玉が、いつの間にか足元に転がって鳴いた。 「お前に云ってない」 「ミ゛ィ……」 「傷付いたの~?」 「ミ゛ィ」 「ごめんて~」  自分の手のひらをぼんやり眺めながら、はぁと息を吐く。 「ほーら、おいで~」  俺は毛玉をなんとなく上着のポケットに突っ込み、散歩がてら夕暮れの公園へと向かった。  ベンチに座って、そこらに群がっている雀と鳩に、コンビニでついでに買った鳥の餌をパラパラとやっている時のことだった。  不意に後ろから、低い声で声を掛けられた。 「兄ちゃん、仕事探してるん?」  素直に振り返ると、そこには明らかに胡散臭い風貌の、禿げ散らかした頭部を夕日にてからせながら、ニタニタと満足気に笑うおっさんが居た。  捲れ上がった汚い唇からはヤニまみれの黄ばんだ不揃いな歯が覗き、その隙間に、おそらく数年単位で放置された虫歯と思われる黒ずんだ歯の一部が見え隠れしている。  脳の奥が直接酸っぱくなるような、ひどい口臭が風に乗って漂ってきた。 「美味しい仕事があんねん。しかも簡単やねん、楽やし短時間やし!」 「へぇ~」  適当に気のない返すると、禿げ散らかしのおっさんは「当たり前やろ!」とばかりに当然の権利として俺の隣にドカリと座った。  そして何故か、その場で身体をグラグラと貧乏ゆすりのように揺らし始める。  我が儘ボディをしたおっさんの重量のせいで、ベンチが波打つように激しく揺れ、鳥にやる餌を握っていた俺の手がぷるぷる震えて、餌が辺りのアスファルトに盛大に飛び散れた。  苛々しながらおっさんを見れば、おっさんはおっさんで、俺が鳥に餌をやる行動をじっと見つめ、「こいつ、他にやることないんかい」みたいな、底辺を見るような憐れみを含んだ瞳でこちらを見つめていた。  ……ものすごく切なくなった。俺はただ、平和に鳥に餌をやってただけなのに~。 「別に仕事は探してません」  耐えきれなくなって視線をそらし、鳥の餌を上着のポケットに仕舞う。  よく見ると、雀や鳩に混じって、ポケットから抜け出した俺の毛玉が、大真面目な顔で鳩を蹴散らしながら鳥の餌を貪り喰っている。  こいつ本当に何でも食べるな~、と観察していたら──「駄目駄目!!」  突然、おっさんが鼓膜を劈くような大声を上げたかと思うと、こちらに思い切りゼロ距離まで詰め寄って来た。  その大音量に驚いて、鳥達がバサバサと一斉に空へと散っていった。  吃驚しておっさんの方を見れば、いつの間にか点灯した公園的外灯に照らされたおっさんの頭部から、鋭角な光の反射がダイレクトに俺の目に入った。  思わず「眩しいっ」と呟きながら目を眇めた、その刹那のことだった。 何を思ったのか、おっさんは俺の唇に自分の脂ぎった唇を力任せに重ね、ぬるりと湿った舌を直接入れて来たのだ。 「うむぅ!?」  そのまま、数万トンの衝撃を伴うような質量でベンチに押し倒される。  くっ、臭い!! 胃袋の底がひっくり返るくらい臭い!! なんで!? どうして東京の人間は出会い頭に口づけをしてくるんだ???  これが地上の挨拶なのか???  必死に押し退け様と、俺は手のひらでおっさんの胸を大真面目に押した。  だが、ぶよぶよとした果てしない巨漢のせいで、肉の掴み所が全く無くて手のひらがズルズルともたつく。  すると何故か、おっさんが「びくんびくん」とトドの痙攣のように激しく震えながら、俺の手の上に自分の脂ぎった手を重ねて、指を深く絡める恋人繋ぎをガチッと決めてきた。  それから空いたもう片方の手を、俺の股関へと迷いなく伸ばし、やわやわと粘着質に揉みしだいてきた。 「ちょっと、なにしてんのアンタ!?」 「!?」  突然、背後から鋭い声が響き、ハゲのおっさんが慌てて俺の身体を揉む行為を中断した。その一瞬の隙を、俺の肉体が事務的に見逃すはずがなかった。 「てぇい!!」 「ェぷぅッッ!!!!」  押し倒された姿勢のまま、おっさんの急所に向かって俺の太ももを思い切り跳ね上げる。  国家予算数億円が投入された特注メンズブラに雄っぱいをハイドロプレスのようにホールドされながらも、背面を大胆に削ぎ落とされた肉体が躍動する、まさに引き算の美学を体現した死線のステップ。  直後、おっさんの口から、この世界のものではない、何処か別の惑星から出稼ぎにやって来た異星人が臨終の際に発するような、奇妙なくぐもった絶決が漏れ出た。  確かな手応えを感じながら、俺は肩で荒い息をしてベンチから起き上がった。  謎の呻き声を上げながらアスファルトの上でのたうち回るハゲを放置し、その場から逃げようと立ち上がった瞬間、先ほど声を上げていた見知らぬ誰かに、ガシッと力強く手を握られた。  気付けば俺達は、一緒に猛ダッシュで駆け抜けていた。 「はあっはあっ。あ──っビックリした! ちょっと、坊や大丈夫!?」 「はあっ、はあっ……大丈夫っす」 「ここらは変質者が多いから気を付けなくちゃ駄目よ! アタシも気を付けるわ!」 「すみません、ありがとうございます!」 「あら! いけない急がないと! お姉さん行くわ、じゃあね!」  ウェーブの掛かった美しい金髪、睫毛がバサバサと長い派手な化粧の顔。しかしその下に聳え立つのは、屈強な戦士を思わせるガチガチの戦闘体格と、見事に真っ二つに割れた青髭の逞しい顎。  何処からどう見てもまごうことなき変貌を遂げた先達は、そう言い残すと猛烈なスピードで人混みに紛れて掻き消えた。 ◆  それは、ほんの一匙の好奇心だった。  不安なんてものは微塵も無くて、むしろ脳味噌の容量をオーバーするほどの期待の方が大きかったからだろう。  俺のおピンクな未来は、きっと希望に満ち溢れているに違いない──と、鳥並みの脳味噌で信じて疑っていなかったのだ。  入り組んだ道の先には、どん詰まりの、何処にでもあるような薄汚れた雑居ビルが構えていた。  コンクリート打ちっぱなしの床面には、いくつか店が入っている。  スプレーで不快な文字が落書きされた壁、踏み潰された煙草の吸殻、錆びた空き缶、そして床の隅に落ちている、明らかに使用された後の生々しいスキンの残骸。  切れかけの蛍光灯がチカチカと不気味に明滅し、暗がりの通路を抜けると、さも当然の如く立ち入り禁止の看板がそこに鎮座していた。  俺はその看板を乗り越えて、地下へと続く階段をトントンと降りていった。  辿り着いた先に待っていたのは、大きな振り子時計と扉が一つ。  そして、見知らぬ男がそこに立っていた。俺を呼び出した張本人。  きっちり隊服を着こなして髪型を整えれば、それなりに男前なのかもしれない。だが、今見た限りだと、私生活の全てがだらしなさそうに見える、支給された特別仕様隊服のジャケットを、くたびれた灰色のスーツのようにお上品に崩して纏った軽薄そうな男だった。  鞣されて艶々の革靴の踵がコツン、カツン、とコンクリートに小気味良い音を立てる。  男はまだ眠いのか、時折欠伸を噛み殺しては、ん~、と背伸びをしていた。 「あ〜〜。やっと来た。お前が……え~とマヨイナオタダ?」  死んだ魚のようなやる気の無い目をしたくたびれた大人が、咥え煙草の灰を床に落としながら俺の経歴書を眺めて鼻を鳴らした。 「え、誰?」 「こらこら。言葉使いに気を付けなさい? お前が配属される特務機関エンブリオの司令官。でクラブ・イシュタルの総支配人の宗像さんだよ。よろ~~」  何この人、ノリが軽すぎるだろ。 「ああ〜、宜しくおなしゃ〜す」  宗像さんは俺のがっしりした体型と、全身が異形の実験体のようにつぎはぎだらけの生々しい傷痕をじろじろと見回し、深く溜め息を吐いた。  初対面なのに溜め息をぶっかけられるとか、本当に不条理の極みである。 「裏方だな、こりゃ」 「は?」 「お前、オメガっぽくねえし。可憐さの欠片もねえから周囲の受けが悪そうだ。目立ちそうにないから、しばらくは後方支援の裏方をやってもらっちゃおうかな~。しまっちゃうぞ~うふふ」  最後の方は何を云っているのかオツムの規則性が訳わかんねーけど、兎に角俺は思わず身を乗り出した。 「はああ~~!? せ、セックスは!? 俺、気持ちよくさせるプロのテク、自信あるよ!? 駄目なの!? ねぇ!! 駄目なの~~!?」  地下闘技場で培った、男の前立腺を容赦なく蹂躙し、一瞬でケツイキへと叩き落とす極上のド変態ビッチ技術。それが裏方ごときで不条理に腐るなど、俺にとっては何よりも受け入れがたい絶望だった。 「駄目なの~~。とりあえず登録名は……スカーフェイス! これで決まりだな」  そう云っておっさん改め宗像さんは、天啓が閃いた! とばかりに指をパチンッと鳴らした。  おい、上手いこと思い付いたとか思ってんじゃねぇぞ。これだから最近のオヤジは……。 「……まあ、手当てをくれるなら、それは仕方ないと飲み込むことにするけどさ。つーか、何処に行くわけ??」 「驚くなかれ、要塞都市の地下深くにある、六本木の一等地、最高級ホテルの地下深くにある国家管理の最高機密隔離特区だ~~!!」 「え~~!  嘘だぁ~~」  なんてへらへらしている俺を余所目に、宗像は勝手知ったる顔で、配属室の隅にある古びた振り子時計の木枠の扉を開いた。  くるくると不自然な速度で針を回し、特定の歪んだ時刻に合わせると、パタンと扉を閉じる。  ──ボーン、ボーン、ボーン……。  空間を物理的に歪ませるような、臓物に直接響く重苦しい鐘の音が部屋に満ちた。  この魔法空間転移は本来、因果律の軋みによって、慣れない人間ならば多少の気分の悪さや立ち眩み等の生理的な副作用が出てしまう代物だ。  ──だが、直忠は何故だか、その脳がバグるような不条理ルールを無自覚にその身で中和していた。口の奥に少し鉄の味が広がっただけで、アホ面を晒したまま平然と立っている。 カチリ、と扉から鍵が外れる小さな音が響いた。  宗像が再びその時計の扉を開き、顎をしゃくる。 「ほら、入れ。お前の新しい戦場だ」  扉の向こうは、もはや高円寺の狭いアパートではなかった。  地上数百メートルにそびえ立つ巨大ホテル、その地下数百メートルの岩盤をゴリゴリにくり抜いて作られた、嘘偽りのない六本木の一等地、最高級ホテルの地下深くにある国家管理の最高機密隔離特区だった。  それを見た俺の素直な反応は、「ひぇぇええ~~~~!!!!」だった。  開かれた扉の向こうからは、一般の人間が決して嗅いではならない、濃厚に限界濃縮されたオメガたちの甘ったるい波動霧と、天から下りてきたアルファたちの傲慢な獣臭が、ねっとりとした不快な熱風となって直忠の褐色肌を撫で上げた。  鼻腔の奥が直接熱を持つような、生理的な嫌悪感と情欲が混ざり合った悪臭。  黄金の装飾が妖しく輝く大理石の回廊。そこが、最高級会員制機関であり、エンブリオの中枢、『クラブ・イシュタル』だった。  宗像が事務的に説明する世界の規則によれば、基本的には給仕、接客や同行がメインで、それからセックスは交渉次第。  スキンの着用は絶対厳守。  魔人であるアルファの身体は通常の人間とは根本的に規格が違うため、スキンの寸法も専用のデタラメな大きさとなる。  また、副作用が殆ど起きない特製ピルをオメガは服用すること、等々。  特に魔人御用達のこの配属先は、どれもこれも貴重な魔人ハーフを高級キャストに見立てるだけあって、あてがわれるのは品があって立派なものばかりだった。  ここに居るオメガは由緒正しい血統かつ、魔人の血を色濃く受け継いだ者が特に人気だという。  やはり純血主義が色濃く残った魔人的には、一般的なベータの血を混ぜるのは快く思わない不遜な連中も多いので、高級機関ではハイスペックなオメガが求められる。  そう、アルファとオメガ、そしてベータの間には、物理的にも制度的にも超えられない絶対の壁と格差があるのだ。  あけすけに云えば、血統が良い者は厚待遇かつ、強力なアルファとの出会いを約束される。  そうでないなら、己の力でアルファとの繋がりを血眼になりながら作る外ない。  真っ当な人生をこれっぽっちも送って来ていない俺が云うのもアレではあるが、俺がなんとなくイメージしていた、その他大勢の凡夫の平凡な人生というやつは、出会って、好きになり、恋をして、結ばれました、はいハッピーエンド。おしまいおしまい。  ──だが、目の前に広がる体質のドロドロした関係性は、そんな綺麗なおとぎ話とはかけ離れた、云うなれば野生下の獣の縄張り争いのようなものか、と大真面目に腑に落ちる。まさに交配奪還戦。  しかし、俺は裏方の後方支援員なので、そんな血統の争いに巻き込まれることも無ければ、そもそも期待していたセックスが出来るかもわからない。完全に満足する夢、いきなり大ピンチ。  俺は、まだ見ぬ極楽への切ない悲しみをクソ真面目に胸に抱きつつ、裏方での皿洗いや給仕の仕事を黙々とこなし、初日の業務を終えると、背中にものすごい哀愁のオーラを漂わせながら、巨大な迷宮のような我が家への帰路に着いたのだった。

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