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2冬眠鼠の子守唄①

「へぇ~! 随分いいカラダしてるねぇ~! え、オメガ!?」 「自分よりゴツくて大きいΩはちょっと……」 「その顔の大きな傷は何? え?  箪笥の角でぶつけた?」 「傷もののオメガはねぇ……。オメガやベータだったらまだ何とかなったかもだけどさぁ……」 「やっぱ愛嬌って大切でしょ?」  いい歳したおっさん共が、給仕中の俺を冷やかしにやってくる。好き放題に呪詛を吐き、こちらの笑顔に甘えて肉を揉んできた。  尻、胸、太股、それら生々しい肉塊を揉まれながら、俺の脳は別のことを考えていた。  今日の俺は最高にご機嫌だった。いつも売り切れる人気スイーツを、滑り込みセーフで入手できたからだ。しかし、今日もセックスができなかった。  そんな泥沼の哀愁など、糖分の前には一瞬で消える。足取りは軽かった。九龍城のごときオンボロアパートの廊下を、スキップ交じりに進む。  その時、横の扉が乱暴に跳ね上がった。通りがかった俺の顔面に、凄まじい衝撃がクリーンヒットする。 「痛ぇっ!」  鼻を押さえてうずくまる俺の前で、ドラマが始まった。可憐な青年が、上半身裸のまま涙を流して廊下へ飛び出してきた。 「嘘つき! 嘘つきー!!」  青年は悲壮に満ちた叫びをあげ、自分の衣服を抱きしめている。部屋の奥から、軽薄な男が死んだ魚のような目で顔を覗かせた。  男は呆れた顔で青年を一瞥し、手を伸ばす。青年が涙を止めた。しかし、男が差し出したのは愛ではない。部屋の鍵だった。  鍵が床へぽとりと落とされ、金属音が冷たく響く。 「もう要らないから」  男はそれだけ吐き捨て、欠伸をしながら扉を叩き閉めた。青年は目を見開き、狂ったように扉にすがりつく。世界が崩壊したような絶叫が、狭い廊下に反響した。  「嘘、嘘、嘘……!! あ、う、ごめんなさい捨てないでぇ、お願い、お願い、お願いぃ……ああぁあ~!!」  魂を削るような泣き声を、俺は真横で淡々と聞いていた。このやり取りを見るのは、今月に入って既に九回目だ。  ここの部屋の住人は、手が早い上にゴミのように人を捨てる。捨てられた側は、精神を汚染されたように必死にすがりつく。  もはやこのアパートの、お決まりのクソゲールールだった。  青年の絶望的な嗚咽を聞きながら、俺は箱に入っているスイーツが潰れていないかだけを大真面目に心配していた。  最初の頃は優しく声を掛け、慰めてみたこともある。だが、返ってきたのは「お前に何が解る!!」というヒス構文のキレ散らかしだった。  学習した。触らぬ神に祟りなし。  俺は泣き叫ぶ青年の横を無言で通り過ぎ、自分の部屋の扉を開けた。「毛玉~」 「ミ゛ィ」  大福が鳴く。 「見て見て~♡ ほらぁ~! 美味しそうだろ~! ……あ?」  顔を上げた。玄関の土間に、見知らぬ男が立ってこちらを凝視している。鍵を閉め忘れていた。  俺は内心でチッと舌打ちする。「えっと、どちら様?」  男は答えない。何故か小さく会釈をしてきた。つられて俺も頭を下げる。男は我が家のような自然な動作で中に上がり込み、背後で静かに扉を閉めた。  え、なんで? 俺はテーブルにスイーツの箱を置いて、取り敢えず何故か胡座をかいた。油で汚れたツナギを着た男に向き直る。  沈黙の中、見つめ合う二人。男の息遣いが、徐々に荒くなっていく。何度も股間を擦り、ウッと脂っこい声を漏らした。 「誰? 部屋間違えてない?」  間違えようのない狭さだが、一応聞いてみる。男は少し間を置いて、消え入るような声を出した。 「君、オメガでしょ……?」  男は自分の首を指差した。俺の首輪(チョーカー)を示している。「え、ああ……そう、だけど……?」「やっぱりそうだよね!? ああぁあ、本物だぁぁ……!!」  男の強張った顔がドロリと緩み、うっとりした目で俺を凝視する。  まあ、男のオメガなんか希少生物だからな。物珍しいのは分かるが。 「あ、あの、さ……。一つお願いがあるんだ」  男はもじもじと身をよじった。照れたように目を逸らし、アヒル口でぼそぼそと呟く。 「何? っていうか何で部屋に入って来てんの?」  この奇妙な肉塊を眺めながら、俺は「こいつはちょっと頭のネジが全部飛んでるんじゃねぇか?」と、ようやく事態の深刻さに気付き始めた。 「お……おチンポミルクおいひいよぉ……って云ってくれない? そしたら出て行くから……お願いします!!」 「は?」  強い決意を秘めた眼差しだった。それだけのために他人の部屋を不法占拠したというのか。  だが、その一言でこの不快な空間から消えてくれるなら、安いものだ。  俺が口を開きかけた瞬間、男は慌てたように両手を激しく振った。 「あ! ちょっと待って!!」 「何~?」 「これ」  ツナギのポケットから、白い液体の入った小瓶が取り出された。一瞥し、再び男に視線を戻す。  男は俺が見つめるたび、恍惚の表情で顔を赤らめ、小さく震えた。どうしてだ。 「それは何?」 「精子。俺の。これを顔にぶっかけて、いやらしい表情で荒く息を吐きながら舐めて、さっきの台詞を云って欲しいんだ」  顎に手を当て、少し考えた。いくら俺が酒池肉林を夢見るオメガだからって、流石にそれはちょっと無理だ。  そもそも意味が分からない。知らない男の体液で部屋がイカ臭くなるのだけはマジで勘弁してほしい。 「ごめん。無理」 「え!? 何で!?」  男は目を見開いた。正直信じられない、という驚愕の表情だ。信じられないのはお前の行動力だ。アクティブすぎる。頭がおかしい。 「台詞だけなら良いよ」 「台詞だけ……かぁ。う~ん……台詞だけ……」  なんでお前が恰も決定権があるみたいな態度なんだよ。おかしいだろ。 「なぁ」 「何!? もしかして気が変わった?」  なる訳ねーだろ馬鹿ッ。 「いや、早く帰ってくんない? 今何時? ほら」  壁の時計を指差し、ゆっくりと立ち上がった。時刻は深夜。俺の身長は182センチ。対する男は170センチに届くかどうか。  かなりの体格差がある。不法侵入に少しオコモードが入った俺の肉体は、それなりの威圧感を放っていた。男がたじろぐ。 「お、おう……」  意味不明だし追い出そう。そう割り切って片付けを始める俺に、男は戸惑いを隠せない。  何でお前が戸惑うんだよ。慌てた様子で男が入り口に立ち塞がり、小瓶をぐいと突き出してきた。 「出て行って欲しいなら、これを飲めって云ってんだろ!?」 「しつこいな~」  男は少し唸り、ツナギのジッパーに手を掛けた。 「じゃ、じゃあさ、手コキしてよ……そしたら帰るからさ。一生のお願い!!」  ジッパーが引き下ろされ、ぎんぎんに勃起した赤黒いちんこが飛び出した。カウパーがぬらぬらと光っている。個人的には、他人の精子を口に入れるよりはハードルが下がった(?)気がした。  早くスイーツを食べたいのに、疲れて頭が回らない。それくらいなら……まあ良いかぁ? そんな不条理な妥協に絆されかかっていた。  足元で毛玉が「ミ゛ィ」と細く鳴いた。  その隙を見透かしたように、男が獣のごとく襲い掛かってくる。 「うおおー!! オメガああぁ~~!! ヤらせろおおおぉ!!」  ひらりと身体を躱した。  男は突進の勢いのまま、「おっ!  とっ! とっ!?」と窓際まで泳いでいく。  そのまま、開いていた窓から外へ吸い込まれていった。  ここはおんぼろアパートの2階だ。大した高さではない。一応、窓の外を確認した。  アスファルトの上で大の字に倒れ、ちんこを丸出しにしたまま白目を剥いて気絶している男がいた。  俺は静かに部屋に戻ると、警察を呼んだ。男はあえなく御用となった。こんなことばかりが日常的に起こる。この建物の治安はどうなっているんだ。 ◆  深夜。  ふと、目が醒めた。  気配がある。  部屋の中に、自分以外の何者かが潜んでいるのが分かった。  相手もこちらの覚醒に気づき、ぴたっと動きを止めた。  即座に起き上がろうとする。  だが、物凄い力で押さえ付けられた。  完全に動きを封じられる。  地下闘技場で悲惨な暴力を受けてきた身だ。  相手の重心の乗せ方で、素人ではないことが皮膚から嫌というほど伝わってきた。  プロだ。なんで?  首筋に凍りつくような冷たさが走る。  ナイフだった。  隙を突けばこのプロを叩き伏せることは不可能ではない。  だが、今ここで無理に動くのは得策ではないとダチョウの脳が告げていた。 「も~。誰~?」  訳も分からず、ムチムチの五体を押さえ付けられた状態で、俺は情けない声を出す。  ようやく、暗闇の中で相手が口を開いた。 「カリタモノハ……カエサナクテハイケナイ……」 「部屋間違えてない? ここ202号室だけど」 「エ……302号室ジャナイ?」 「違うよ。外出て部屋番号確認してみなよ」  相手は沈黙した。  それから、実にあっさりとナイフを仕舞い、気配を消して部屋から出て行った。  はぁ~、とクソデカ溜め息を吐き出す。 「よっこいしょういち」と声を漏らして起き上がった。  足元で親しげにジャレてくる毛玉を完全に無視し、玄関へ向かう。  鍵の閉め忘れを今度こそ確認して施錠。  ベッドに潜り直すと、俺は泥のような惰眠の続きを貪った。 ◆  突如、頭上を圧殺するような大音量のサイレンが響き渡り、街の空気を震わせた。  机の上のスマホが、まるで臨終間際の油虫のように激しくバイブレーションしながらヒステリックに喚き散らす。 『エリア警告。セクター02において空間汚染度が規定値を突破。特務機関エンブリオより全市民へ通達──結界強度の低下を感知。付近の住民は、ただちに魔法防壁処理済みの建造物、あるいは指定シェルターへ、その肉体を隠匿してください。繰り返します、堕竜出現──』  リモコンのボタンを押し込む。  液晶画面から血の匂いが漂ってきそうなほど、濁った緊急速報のノイズが溢れ出した。 『出現した堕竜のタイプは獣型のようです! びっしりと狂い咲いた無数の眼球、剥き出しの乱杭歯、おぞましい笑みを湛えたその姿は、見る者の魂を冒涜するような畏怖すら覚えます……! それでは現場の足立さんに──』 『こちら、新宿区の高層ビル内からお伝えします! ああっ、見えました! まるで真っ赤なフードを被ったような紅い竜──対堕竜討伐部隊“竜の心臓(コル・ドラコ)”が、ビルの天辺から地を蹴り──』  画面が激しくブレながら切り替わる。  三脚も使わずに手持ちされたカメラの向こうで、レポーターが顔を紅潮させ、外の地獄を指差して捲し立てるように喚いていた。 『あんたら何してんだ! 危ないから早く避難して! 魔法防壁があるからって完全に安全じゃないんだぞっ!』  突如、画面に乱入してきたのは、首から社員証を下げたこのビルの関係者らしき男だった。  つまり、この緊迫した状況下で不法侵入をかましているのはテレビ局側ということになる。  命がけの不条理な内ゲバが画面越しに展開されていた。 『ちょ、ちょっと待って──今、 いい所だから、歴史的瞬間が撮れるから……!』 『どっから入って来たんだ全く!  ほら早く出てってくれ、死にたいのか!』  生放送の向こう側で、世界の崩壊を前に大真面目に揉める人間たちの滑稽さを、俺は煎餅を齧りながらドライに眺めていた。  画面がブツリと激しいカラーバーの電子音と共に乱れ、急遽スタジオにカメラが戻る。  ニュースキャスターが「あちゃー」と言わんばかりに顔を引きつらせ、すぐさまプロ根性で取り繕った営業スマイルを浮かべた。 (……今なら、うちの窓からも見えるだろうか)  ガラリとアルミサッシの窓を開けて身を乗り出した瞬間、世界が爆音で爆発した。  視界を埋め尽くしたのは、超巨大な神々の肉塊だ。  獣型の堕竜が、紅い竜の圧倒的な暴力によって、今まさに首の根元からビチャビチャと引き千切られているところだった。  有機的かつ凶悪なバイオ変異の肉がベリベリと裂け、まるでスコールのような夥(おぞ)ましい量の血の雨が新宿の空に降り注ぐ。  直後、内臓を雑巾のように絞り出すような慟哭が響き渡り、空気が、そして俺の足元の床が震えるほどの凄まじい地鳴りが五臓六腑を揺さぶった。 「相変わらず、凄い迫力だなぁ」         俺はミルクと砂糖を限界までブチ込んだ、クソ甘いカフェラテをズズッと啜りながら、早朝の大怪獣戦争をまるで映画の特等席のように眺めた。  どうやら頭のおかしい住民は俺だけのではないらしい。  近隣 of 窓からも「やれ! そこだ! 心臓を握り潰せ!」「殺せ! 腕も脚も捥(も)いでしまえ!」だの、およそ人間が口にしていいとは思えない野蛮な単語の野次が飛び交っている。  一歩間違えれば五体がミンチになる明らかな緊急事態だというのに、何とも呑気で、そして脳のネジが一本残らず吹き飛んだ狂った世界だ。  この、命の価値がスナック菓子並みに軽いディストピアの空気。  ……なんだか、あの地下闘技場にいた時のような、嫌な既視感が頭の奥をチリチリと刺していた。  対堕竜討伐部隊コル・ドラコ。  この世の頂点に立つ万魔イル・マヘシュヴァラ種。  天界から下りてきた特別なドラゴン達と魔人であり、特にドラゴンに成れる者達をレガリア一族と呼ぶ。  魔人達はアルファしか存在しないため繁殖ができず、寿命を迎えると自らを大いなる炎で破壊し、星(天)へと還り、また新たな命として再生するサイクルを繰り返す。  ドラゴン達は非常に強大で荒ぶる「破壊の衝動」と「七つの大罪の業(カルマ)」を宿しており、人間界を守る代わりに「オメガを番(つがい)に貰う」契約を日本と結んでいる。数少ないオメガの中でも特に希少な男オメガが優秀なアルファを産む確率が高いとかナントカ……。  堕竜(だりゅう)、神でありながら天界から堕ちた、日本を襲う敵対勢力。そしてコル・ドラコ達の所属する日本防衛特務機関エンブリオ。  エンブリオ機関が設立し管理するファタモルガナ学園の授業で習った情報だが、彼らのその身体に秘める膨大な魔力で魔法防壁を東京全体に展開し、堕竜による被害が最小限に抑えられているようだ。  また彼らの膨大で無尽蔵な魔力により記録再生魔法(ロールバック)が行われ、いかに死人や魔法防壁が破られ被害が出ようとも元通りになってしまう便利機能が人間の危機管理能力を麻痺させている。  とはいえ、死ぬときは絶対に痛みを感じるし絶望する訳で、皆、一先ず無敵では無いことは自覚しているらしい。  そのお陰で俺達は彼らの命懸けの戦いすら他人事のお祭りごととしてスクリーンでホームシアターさながらに観戦する位には平和惚けしてしまっているのだが、慣れってのは恐ろしいものだ。  ぐう、と腹の音が鳴った。いや、俺のではない。 「お前、また俺から集るつもりだな? も~~毎日毎日ぃ~~」 「ミ゛ィ」 「じゃあこの間みたいに何かちょうだい」  そう云って、毛玉の目の前に手を差し出すと、ガブッと噛み付かれた。 「いた──い! なにすんのぉ~?」 「ミ゛ィ」 「お前、DVヒモ彼氏かよ~~。それとも港区女子か~~? 群馬から来た~~? タクシー代7万で足りるぅ?」  しゃあない、朝飯にするか。 「よっこいしょういち」とばかりに立ち上がり、飯の支度を始めた。 「いただきます」  両手を合わせて、今日の食事に感謝する。朝御飯は納豆とほうれん草の味噌汁と焼き鮭に卵焼きと白米。  味噌汁の湯気がゆらゆら揺れて、窓から差し込む朝日が仄かに暖かい。日本人の一日は味噌汁から始まるのである。ふーっ、と息を吹いてずず……と一口。 「うん、美味しい」といつものスーパーで買ったお気に入りの味噌で作った味噌汁に自画自賛する。  混ぜた納豆を白米に掛けて……一緒に掻き込む。  餌皿に入れたドッグフードを一瞥した毛玉が不満そうに「ミ゛ィ」と鳴いた。何でも食べるからドッグフードでも良いかなと思ったけど駄目らしい。グルメか? 「なに~? ドッグフード駄目ぇ? 鳥の餌とか喰ってた癖によ~。ほらぁ、おかず分けてあげるから、おいで」  この一室で、俺は細々と暮らしている。もうね、無茶苦茶だよこのアパートは。無法地帯か。

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